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【アフカン考察】なぜヒトラーは銃を乱射したのか

その銃撃戦 いる?

 アフリカン・カンフー・ナチスでよく見る感想に「最終決戦がカンフーではなかった」という物がある。確かにアフカンはガーナ人のフィジカルの高さからアクションに高い評価がついているだけに、最後にカンフーバトルがないのは拍子抜けかもしれない。
 では、なぜカンフー映画なのにラストは銃撃戦だったのか。今回はこの点について考察を行いたい。

セバスチャン監督の思惑からの銃撃戦の必要性

 まずは以下のインタビューを読んで欲しい。色々アフカン製作について言及されていて非常に興味深いインタビューになっている。


この中でセバ監督のヒトラーやナチスに対する考えが述べられている。
(以下 引用)

もともと僕はヒトラーをものすごくバカにしてて、わざとふざけた調子のヒトラーのモノマネとかやってたんですよ。ああいう負の歴史は変にタブー視して隠して見えなくしてしまうと崇拝する人が出るので、それよりは徹底してバカにした方がいいと思ってます。

 セバ監督はヒトラーやナチスが神聖視されないように、意図的にバカにしていると述べられている。ここに冒頭の疑問を解く鍵がある。
 想像してみて欲しい。もし、ヒトラーが最後までカラテで戦っていたらどうなるだろうか。そこに『強いヒトラー』が産まれてしまい、その像は憧れの元になってしまいかねない。
 アフカンのヒトラーは生き汚く銃を乱射し、逃げる際にも通りすがりの子どもや妊婦を撃っている。おそらく追っ手に救助させて足止めをするために無関係な人々を撃ったのだ。
 このようにセバ監督はヒトラーを卑怯な小物として描いている。既存のヒトラーのイメージに対して新たなアフカン ヒトラーのイメージで上書きをする試みのためだ。そこにはカンフーを使う強いヒトラーのイメージは必要ない。だから最終決戦はカンフーは使わず銃撃戦になったのだ。

 同じことが東條英機にも言うことができる。東條はカラテマスターとして主人公アデーと死闘を演じた挙句に負けた。そのままで終劇してしまったら、東條英機はカラテマスターとしての印象が視聴者に残ってしまう。
 史実による東條英機という人物像の評価はここではいたさない。しかし、劇中はヒトラーと並び悪者側の立場である以上、必要以上に持ち上げる描写をセバ監督はよしとしなかったのではないだろうか。
 そのため、最後の市場で東條英機は何事もなかったかのように登場した。その様は卑屈な単なる市場のオッちゃんであり、東條英機も単体では小物なのだと言わんばかりの描写をされている。セバ監督はアフカンの東條英機をカンフーマスターではなく小物のオッちゃんとして完結させたのだ。

え? ゲーリングはどうかって?
あんなの300% 別人じゃねーか!!

登場人物視点からの銃撃戦の必要性

 ここまで製作者の思惑と言う観点から考察を行ってきた。
ここからは作中の登場人物からの観点で銃撃戦の必要性を考察したい。

 まず結論から言うと「アフカン作中において暴力(カンフー・カラテ)は手段であって目的ではない」ということだ。

アデーの銃撃戦の必要性

 主人公であるアデーの目的について考えたい。劇中において彼の目的は何かを考えるとだいたい以下のようになると思う。

 ・恋人をヒトラーから取り返したい
 ・師匠の仇を討ちたい
 ・ガーナをナチスから取り返したい

 アデーの目的において必要な手段がカンフーであり、カンフー自体は目的ではない。
 アデーが目的を果たし恨みを晴らすためにはヒトラーを殺す必要がある。ヒトラーを殺すためには周囲を守る東條英機やゲーリング、そしてガーナアーリア人を排除する必要がある。そのためには最強トーナメントを勝ち残りヒトラーに近づく必要があり、そこで必要なのがカンフーなのである。カンフーはあくまでもヒトラーに近づくための手段なのである。

 師匠の仇を討ちたいという点において、師匠と影蛇拳の名誉はアデーが強敵 ゲーリングとカラテマスター 東條英機を打ち破って最強トーナメントを優勝したことで回復した。
 血染めの党旗も焼けてしまいガーナを取り戻すことにも成功した。
こう見ていくと、最終シーンにおいてアデーにある感情は恋人を寝取られた恨みと師匠を殺された恨みであることがわかる。
 つまり、最終シーンの銃撃戦はアデーにとって純然たるヒトラーに対する殺意であり、そこにカンフーは必要ないのだ。
 前段でヒトラーは市民を撃ち追っ手を足止めすると書いたが、アデーは撃たれた人たちを救助しなかった。それだけヒトラーに対する恨みと殺意が大きかったということだろう。そのアデーの殺意を満たすにはカンフーではなく銃弾が必要だったのだ。

ヒトラーの銃撃戦の必要性

 では、ヒトラーにとってカンフーとは何かを考える。ヒトラーの目的はシンプルである。

・ガーナと世界を征服する

 この一つにつきる。では、征服とはどのような状態を指すのか。ガーナについては冒頭のナレーションの時点でガーナを掌握したと語られている。しかし、ミカジメを集める東條の様子を見ると人々は以前と変わらぬ暮らしをしており東條に反抗的でとても征服できたとは言えない。
 おそらくこの時点でヒトラーたちは血染めの党旗を使いガーナ政府と軍隊を無力化したのであろう。しかし、それではガーナの人々は納得しなかったと思われる。
 ヒトラーたちは地元の有力カンフー道場である影蛇拳の道場を襲っている。その際は銃火器を使わずにカンフーの土俵である格闘戦で挑んでいる。その後の影響を見て欲しい。アデーが修行の旅に出る直前のシーンにおいて、市場に物語冒頭の活気はない。人々はうなだれ、町のあちこちに白塗りのガーナアーリア人が立ち尽くしている。
 ここから推測できるのがアフカンの世界感だ。アフカンの世界では「暴力を見せつけること」で人々を支配することができるのではないだろうか。呪術を使い政府を掌握しても人々はヒトラーに支配されたと認めない。しかし、町の頼りになる兄ちゃんたちがいるカンフー道場を、それを上回る暴力でつぶすされることによりガーナの人々は自分たちが支配されたと認めたのではないだろうか。
 支配に暴力を見せつけることが必要であると考えると、冒頭の第一村人への対応も納得がいく。突然襲ってきた村人に対して組織の長たるヒトラー自身がその暴力で対応して見せることでガーナ支配への足掛かりとしたのだ。だからヒトラーはゲーリングに任せなかったし、銃も使わなかった。
 アフカンの世界感が「暴力で支配する世界」だとすると最強武闘会の開催理由も納得がいく。世界征服をするのにせっかく集めた強者たちを殺すことは一つのツッコミどころだった。しかし世界中から集めた強者たちを殺し、ナチスが頂点に立つことで世界にナチスの強さを見せつけることが目的であるのだとしたらこの武闘会のルールも納得がいく。ヒトラーはナチスが武闘会で優勝することで世界を征服するつもりだったのだ。

 さて、話を銃撃戦に戻そう。なぜヒトラーは最後にカラテで戦わなかったのか。ここまでの話から最後の時点でヒトラーの目論見は全て崩れていることがわかる。アデーが武闘会を優勝してしまい、血染めの党旗も燃えてしまった。ガーナアーリア人は我に返ってしまい敵の真っただ中に味方もいない。
 だったらヒトラーがここでするのは逃走しかないだろう。多対一の状況でカンフーを使って敵を迎撃するよりは銃などの飛び道具を使って距離をとり追ってきた敵を各個撃破する。逃げ切って再起を図るヒトラーの立場からすれば至極当たり前の行動であると言えるだろう。

まとめとその他可能性

 アフカン最終決戦の銃撃戦は必要だった。
セバ監督はヒトラーを矮小化させるために生き汚い小物としてヒトラーを描き、アデーは復讐に燃え必殺の殺意を銃弾に込め、ヒトラーは目的がすべて破れただ逃げるために行動した。
 ラストシーンが銃撃戦だったのはセバ監督が伝えたい物語や登場人物たちの目的として必然であったと言える。

 ただ、物語の別の可能性としてはエヴァを人質に取るなどの汚い手段をヒトラーが取れば最後までカンフーを見せることができたのかもしれない。

 アフカンのガーナサイドの監督であるニンジャマンの得意分野はCGを使ったSFXである。ラストの車炎上はニンジャマンの技術を活かしたものでありその見せ所を作るために銃撃戦のシーンを書いた可能性も考えられる。

 以上これらの理由によりアフカンはラストで銃撃戦が発生したと考察する。

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