初冬の八ヶ岳(前)

   小海線が清里をすぎて長野県にはいると、それまで広葉樹に彩られた秋の里山風景が、冬の明るい枯野に変わった。広葉樹の葉はみな落ち、ときおり杉の濃い緑色だけが彩りを添えていた。

 川が北へと流れる。そうか、野辺山を過ぎると日本海へと注ぐのだ。

 二両編成のディーゼル列車が松原湖駅に停まる。わたしの向かいに座っていた登山客が読んでいた本を閉じてジップロックにしまい、年季の入ったザックの雨蓋に仕舞った。彼につづいてホームに降りると、ひんやりとして、からりと乾いた風が北から吹いていた。

 稲子湯さんで荷支度を整え、登山届けを出してからあるき出す。すぐに硫黄の香りがしてきた。登山道の脇の流れが草や石を茶色に染めている。
 みどり池までは林道と登山道が何度も交差して進む。林道の方は、昔のトロッコ道で傾斜が緩やかな分、スイッチバックして進む。あるきやすくて、いつもはそちらを選んでしまう。今年は台風の影響で通れないところがあるらしい。登山道をまっすぐに、ゆっくりと歩を進める。息を弾ませないよう、足音を立てぬよう。
 立ち止まると、遠くで啄木鳥なのか、コツコツ、コツコツコツと何度も幹を叩く乾いた音か聴こえた。灰色の小鳥がチュルチュルと鳴きながら勢いよく、目の前を横切った。なんの鳥か分からないほど素早く。
 遠くで風の音が聴こえたかと思うと、頭の上の杉の梢をいたずらするように揺らして駆け抜けていく。冬の山は賑やかだ。

 すでに葉の落ちた森には、木立を抜けて太陽の光がよく射し込んだ。まだお昼をすぎたばかりなのに、もう夕方みたいな色。それでも陽射しは暖かかった。日陰に伸びた霜柱は、春まで溶けないのじゃないかと思うくらい、しっかりと立ち上がっていた。踏むのが可愛そう。

 気温は0度を下回っていた。メリノウールのカットソーにウールシャツを着ていても、日陰が続くと寒いくらい。休憩すると体温が奪われそうで、息を整えてから登山道と林道を登ってゆく。
 「しらびそ小屋まであと2分」と書かれた看板を見つけると、あとは平たい道となった。せっかくの愉快な道だからと、ゆっくり進むことにする。西日が苔を立体的に浮き立たせると、森が金色に輝いた。苔に触れるとふかふかの犬の毛のようで暖かく、心地よい。
 
 森の中のテントサイトに着くと、二人用の山岳テントがひと張りあるだけだった。家主はすでにテントの中のようで、登山靴が二足、きれいに前室に並べられていた。
 三連休であっても真冬の寒さと聞けば、好んで泊まりに来る人は多くない。受付で二泊すると告げると「本当に?」と言われたくらいだもの。
 小屋の前のみどり池の半分は凍っていた。天狗岳の影のところだけ溶けないらしく、氷の形はどことなく天狗岳がぱたりと倒れてきたみたい。早々と太陽が山の背に帰っていった。まだ3時半だ。夏ならこれからだと言うのに、初冬の山は店じまいが早い。厳冬期と言われる2月のほうが日が長いのだもの。
 そして長い夜がやってくる。夕方5時にはまっくらで、あとは朝まで寝袋の中。
 寝袋の国は暖かい。ラジオのスイッチを入れると、関西の局を拾っていた。いつトイレに行こうか考えあぐねながら、本を読む手は冷えるばかり。冬の愛おしい夜。

 まあるい月がひときわ明るく、池の上に浮かぶ天狗岳を蒼く照らし出していた。吐く息は真っ白で、そのまま凍りつきパラパラと地面に落ちるようだ。
 大きな風が木々を揺らしながら通り過ぎてゆく。大きく息を吸いこむと冬山がわたしの身体に入っていった。

(後半へつづく)

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