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雪の森へ〜八ヶ岳

 雪が積もっている季節の楽しみ、黒百合ヒュッテにお茶を頂きに行く。

 渋の湯の登山口から2時間。黒百合ヒュッテまでの森の中は雪が積もっていても歩きやすくて、夏よりも楽しい。
 春のはじめを愉しむハイキングなら、マイクロスパイクがあれば十分だもの。フロントピックで自分のふくらはぎも刺さない。着脱もしやすい。なにより歩きやすい。頂上を目指さないだけで得られる自由がある。

 一歩、一歩。雪の感触を楽しむ。少し湿り気を帯びた雪はキュッと小さな音を出す。ときおり目を瞑ると、ピュルルと鳥の囀りが聴こえ、空の高いところでは大気が音を立てて、飛び交っている。
 わたしたちは視覚情報の虜だ。立体に認識するために得たニつの眼によって、受け取りにくくなった情報は多い。目を閉じると、耳は木々の揺れる音を捉え、肌は風を感じる。木肌を素手で触ると冷たくも暖かくもない心地よさを感じた。

 登山と考えると登頂したくなる。
山歩きと捉えた場合は、頂きというのは良い展望という以外、あとは風が強くて人が多い場所だ。

 道中に歓びを見つけられたらこっちのものだ。
 ベトナムの禅僧、ティックナットハン師の言葉を思い出す。歩くことは人生は似ている。人生を、終わりを目指して生きる人は少ないだろう。途中にこそ意味がある。歩くことも、ゴールが目的ではない。途中をいかに愉しむか、そこが肝要だ。そう考えると、足取りは緩やかになり、呼吸の一つ一つを時間をかけて味わうようになった。澄んだ空気は美味しい。澄んだ水も美味しい。「澄んだ」というのは、含まれたものが少ない状態だ。少ない方が喜ばしいなんて、素敵な歓びに思える。多くを求めないことは、良い事なのかも知れない。

 コメツガ、トウヒ、シラビソ…針葉樹のコミュニティを進む。冬でも陽当りは限られ、細い幹がいつ伸びようかと企んでいる原生林。八ヶ岳の森に来るたびに、木々が活き活きと暮らしているように思えて幸せになる。
 澄んだ空気を吸い込んでみたが、春になるとスギやマツが発する甘い芳香の言葉はまだ感じ取れなかった。おしゃべりが盛んになる本格的な山の春はもう少し先のようだ。
 苔はすでに春だと気がついていて、日向ぼっこをしていた。きっと菌糸類は雪の中でもぞもぞしているのだ。

 木々の間を縫って、うさぎの足あとが続く。あちこちに寄り道しながら、駆けずり回ったようだ。あっちに行ったりこっちに行ったり。足あとに喜びが溢れている。
 カモシカの足あとは、寄り道せずにまっすぐ進んでいた。秋に見た彼らの真面目そうな眼差しを思いだした。

 ニ時間ほどで黒百合ヒュッテに着く。森林限界を越えると風が吹き荒れている。いつもだったら頂上往復かできる時間。でも、やめておこう。
 テントを張り終えて、小屋でカフェタイムにする。黒百合ヒュッテの楽しみのマフィンセット。
 休憩している人の話しが耳に入ってくる。天狗岳に行かずに下山するという方も多くいた。うんうん、それで良いのです。安全が一番。マフィンが二番。頂上はその後でよし。

 テントでひと眠りしてから、中山峠近くまで向かう。下の町並みは霞んでいた。こっちはこんなに風が強いのに、そちらはずいぶん穏やかな春の日だこと。
 樹林帯を少し抜けると、風は相変わらずの勢いで飛び回り、ふらつくくらいの風がときおりぶつかってくる。天狗岳の二つのコブがどしんと座っていた。
 山はいいなぁ。身体が冷えるまで、風を避けながらしばらく眺めて過ごす。登れなくたってかまいやしない。山の美しさは登らなくとも心に染み込むくらいだもの。