ハイカーという巡礼者

 空腹と身体の痛みに耐えながら荒野を歩き続ける。その行為は、一般的な「ハイキング」が持つ定義よりも「巡礼」の定義に近い。

巡礼とは、日常を捨て、荒野に入り、神秘的な(人智を超えた形而上な)体験を経て、再び人の世界に帰還する行為を指す。

ロングディスタンスハイキングする人の多くは、旅として歩くことができる「旅人」である。一方で、歩くために捨てて着た「巡礼者」も少ないながらもいることに気がつく。わたしもその一人だ。


終わりを目指すには余計なものを持ってゆけない。制約があるなか、不要なものをどんどん捨てていく。着ているものは、毎日、同じだ。周りからひと目で分かる「歩く人」という衣装は、巡礼と同じだ。

これまでの生活を捨てて来た人は、歩いている間に自分と葛藤し続ける。「こんなことをするために捨ててきたのか」涙する。悲しくて、情けなくて。
歩くことに意味はない。自分にも意味はない。ただ歩き続けるだけしか、残されていない。だから歩くだけ。

広大な荒野を歩いていると、自分が地を這う生き物であり、砂礫(すなつぶて)だと思い知らされる。町がなければ、食糧や水がなければ、わたしは生きられない。トカゲは生命力に溢れている。わたしの命を握るのはわたしではない。自然だ。わたしは生かされているのだ。そして、静謐の中、生きていいのだ、と教えられる。

ただの生かされた者として歩き続けていると、捨ててきた自分が話しかけてくる。「おまえは、また間違えた選択をしたのだ」と。思い出したくない過去を、かさぶたを剥がすように晒されては、自分に怒り、涙する。そんなことを思い出すために歩いているわけじゃないのに…。何日も、何ヶ月も、影のようにわたしの過去がつきまとう。パートナーだったじゃないか。

何ヶ月にも渡って、私がわたしを責め立てる。過去は剥がされ続けられる。涙と怒りの末に、わたしのコアが見えてくる。同調や見栄のために身につけた自分ではなく、わたしの奥底から欲するわたしだった。小さい頃の夢かもしれない、いつの間にか蓋を閉めて封印してしまった自分を見つけた。それは棄てられなかった。誰になんと言われても、それがわたしなのだ。自分を捨て続けた結果、とても小さのものだけれど、わたしを見つけた。わたしは生きている。祝福だ。

自然の一部であること。小さい自分の中の、ミクロな自分らしさを見つけること。これは通過儀礼たるビジョンクエストと同じこと。先祖や精霊の世界、すなわち彼我を歩くこと。極楽浄土に描かれる西方はあたかも荒野だ。死せる世界を彷徨い生を見つける。非日常的な、神秘的な体験は巡礼といえる。

長距離ハイカーはトレイルを歩くことによって理想郷を得た。ターミナスに着き、否が応でも生の世界へ戻る。トレイルが彼我なら、戻る世界は「娑婆」だ。仏教でいう娑婆(サハー)は忍土、つまり苦しくて耐える場所だ。理想郷を胸に、キラキラと輝いて帰りゆく場所は、捨て去った社会なのだ。

行くまでは、息苦しい社会とそれに合わせる自分だけであった。いまは理想郷を味わった自分と、過去の自分が対峙する。社会には居場所がないままだ。トレイルで得た魅惑の理想郷はもうない。半透明の身体だけが残った。そんなハイカーを何人も見てきた。


ソローの2年にわたるウォールデンとメインへの旅は巡礼と言われる。兄の死にたいしての鎮魂だ。兄と親しんだ自然の美しさに魅了され、その理想郷が居座り続けた。素晴らしさを伝える書籍を何冊も書き、講演を行った。しかし、彼の想いは遂げられることなく、売れ残った本に囲まれ、測量士として質素に暮らし、44歳で亡くなる。最期に「ムース」、「インディアン」と残して。


山尾三省さんが「野の道」でこう書いている。

〈野の道を歩くということは、野の道を歩くという憧れや幻想が消えてしまって、その後にくる淋しさや苦さをともになおも歩き続けることなのだと思う〉

禁断の果実の味を知ったが故に、ハイカーは満たされないまま「不完全な苦」とともに生きている。もう一度、同じような旅に出ても、静謐な幸福は訪れなかつた。禁断の果実を食べてしまったハイカーは、楽園から追放される。「神は死んだ」。魂の入れ物たる身体に詰められて、からからと乾いた音を鳴らすだけだ。

アパラチアン・トレイルを歩いたあとにも、数ヵ月の山歩きをしている。あの時に感じた確たるわたしの居場所は見つからない。わたしはふらふらと彷徨う魂になってしまったのだ。福音を求める巡礼者には教会があり、ハイカーには自然と荒野があり、わたしはウィルダネスに帰依し続ける。