『アガルタ・マカブラ』3章までをオタクと考察&妄想してみた
ヲタクであるfan92さんと一緒に、小宵さん擁する「AfterImage」の創る『アガルタマカブラ』について妄想込みで考察してみたら面白かったので再編して、2人で『こうなのでは?』と考えた話をまとめてみました。
以降の考察は、既に『アガルタ・マカブラ』3章までの小説及び楽曲について十分に楽しんでいた方向けのヲタク妄想込み内容となっています。そのため、すべての要素を補完するものではないことをご理解ください。
『アガルタ・マカブラ』とは?-要旨について-
旧東京野野田区シェルター及びその周辺の遺跡から発見された当時の住民たちの手記を、バーチャルアーティスト・小宵を擁するクリエイター集団「AfterImage」が文筆と音楽で再解釈するプロジェクトである。
というのが、『アガルタ・マカブラ』公式サイトにある「要旨」の内容である。まず、ここで読み飛ばしてはいけないのがこの文章が「要旨」から始まる形式をとっていること、さらに、旧東京夜野田区シェルターが存在する世界と小宵さんが存在する世界は地続きである、という点です。
1つ目の要旨という形式については、論文のような様式を示すことで以下に連なる文章がAfterImageがあくまで『再解釈』したものだよってことがしめされてるのかなと。Twitterなどでは小説と音楽というわかりやすい表現をしてますが、文筆という表現の含ませ方をしてるので、この公式サイトの要旨に始まり、叙文、ロゴ、遺文集、動画、全てがAfterImageによって元となる遺文集を『再解釈』した結果の表現だと考えていくのが楽しそうです。
そんな訳でこの「アガルタ・マカブラ」を考察するにあたっては、オリジナルの遺文集由来の表現とAfterImageの再解釈による表現が存在しており、オリジナルの遺文集の話は『この世界に既に存在していた』ということを念頭に置く必要があると思いました。(あくまでこの世界観に則って考察する場合は、の話)
2つ目は言葉で表現するのは難しいです。私達は小宵さんを『現在』の私達と時間をともにしているバーチャルアーティストとして認識していますよね。しかし、ご承知の通り私達の世界には旧東京も夜野田区も存在しません。ところが、この要旨に書いてある通りならば小宵さんの世界には旧東京も夜野田区も存在することになる。また、私達のいる現在より500以上未来で『アガルタ・マカブラ』を編纂していることになります。これについては時系列をまとめながら詳しく説明していきます。
以上の2つの前提からAfterImageの視点では遺文集に書かれたアガルタは空想の理想都市ではなく、過去に存在したとされる都市、ということになる。 バーチャルアーティストが贈るコンテンツ中における本人の立ち位置として、斬新であるということを抑えていただきたい。
『アガルタ・マカブラ』編纂にいたる時系列
叙文は動画がまず最初に埋め込まれており、その動画の内容を文章にしたものが、その下に続いています。なお、動画はプレスリリースの役割も果たしており、告知文などは動画下に続いている文章に書かれていないことから、あくまで動画と文章どちらにも存在する文言について言及していきます。
まず、最初のセンテンスからして、先程要旨で述べた通り『旧東京夜野田シェルター』が現代でも存在する建造物として書かれています。また、夜野田シェルターの他にも遺跡が存在し、それらの存在は秘匿されている訳でもないことがわかります。
そして次のセンテンスですが、ここで「およそ300年前」という具体的な数字が登場します。300年前には独裁国家が治める国家が存在し、その国家は「内戦」によって滅びたことが分かってきます。
内戦により、当時の歴史の多くは失われているようですが、『手記』を集めることで過去の歴史、主たる対象として城塞都市『旧東京夜野田シェルター』の実態について迫ろう、というのがこのプロジェクトの目的となっています。
叙文はさらに出自不明の神“あぎらさま”についての民話を引用しています。
“むかしむかし、深い海の底で、
学者たちが大きな棺を見つけました。”
ここで、時系列を整理しましょう。引用している文章が発行されているのが2597年であることから、この『むかしむかし』は2597年時点で昔話のように語られる程度には過去に起きたことであるように考えました。さらに3章までの時系列も加えて、Sullivanまとめた文集が発行された時期を考えると以下のようになります。
むかしむかし 学者たちが棺を発見
↓
女神による国の統治
↓
棺の欠片をめぐる大戦
↓
2212年秋 信仰の対価(第2話)
↓
2228年冬 無上の空論(第3話)
↓
2232年夏 黄昏の人々(第1話)
↓
300年前 独立国家、内戦により崩壊
↓
2597年 Sullivan 出自不明の神にまつわる民話を記した本を出版
↓
現在『アガルタ・マカブラ』編纂
以降、文集の内容について時系列を踏まえて考えていきましょう。その上で、第4話と第5話、ひいては『アガルタ・マカブラ』全体についても思いを巡らせられたらと思います。
人形と遺産
いきなり今回の妄想の肝となる点を述べます。『「無上の空論」で登場する双子のうち片方は人形である』という仮説です。この仮説の上で再度、物語を読むと小宵さんの、アガル・タマカブラの恐ろしさがわかってくると思います。
人形では?と考えた文章はいくつかあります。
「僕らは、」
声を発すると、目の前の男が大仰に驚いた顔をした。先生以外の人の前で発言したのは初めてのことだ。
不意に、静まり返っていた群集のうちの誰かが声を上げた。
「戒律違反だ」
咎めるように、無数の視線が先生の体に集まる。
この双子と神官達のやりとり。神官達はなぜ驚いたんでしょうか。そして、なぜ双子が話したことを受けて『戒律違反だ』と声を上げ、キリカに視線を向けたんでしょうか。
キリカが自殺したことも確かに戒律違反かもしれませんが、『戒律違反だ』と声を上げた時、神官はキリカではなく双子を見ています。つまり、戒律違反に違反しているのは双子の存在であり、その後に双子の保護者であるキリカや教祖様に視点が向いたのではないでしょうか。
戒律違反、とはこの場合は「廃劇場で起こった宗教」における戒律に反しているということでしょう。そして、この宗教における教義に「命を売らないということ」というものがあります。これは遺産の力を使わないということに等しいと考えました。そして、この人形は神官に向かって発言するまで『先生以外の人の前で』言葉を発してこなかったことも分かっています。つまり、神官達は最初から双子ではなく、一人の人間と一体の人形として見ていたのではないでしょうか。
「確証バイアス」という恐ろしい心理に怯えながら続けます。
「無上の空論」の視点切り替えについても触れましょう。遺文中にアスタリスク*3つを挟むことで視点の切り替えとするシステムが何度か使われています。このアスタリスクが視点切り替えであることは第2話の「信仰の対価」が最もわかりやすい例です。キリカの視点とリイの視点を切り替える際にこの手法が使われています。
ではこのアスタリスクが「無上の空論」においても視点の切り替えとして使われていた場合、誰と誰の視点が切り替わっているんでしょうか。第3話の最後に双子が分かれるシーンがあるので、そこから逆算して各センテンスがどちらの視点からの情報なのか整理してみましょう。
最後のセンテンス、双子は「荒野を放浪する君」と「復讐する僕」に分かれています。そして遺産を持っているのは「君」であることも踏まえて、その一つ前のセンテンスを見てみましょう。
手のひらよりも小さい、歪な三角形の金属片。青白く月光を映す、それだけがやけに綺麗に瓦礫の中に残っていた。小さく穿った穴に通された紐も黒く変色し、地面から伸びた黒こげの丸太のようなものにやっとのことで絡みついている。半ば引きちぎるようにそれを取り出そうとして、焦げた枝に引っかかり、顔を近づけて、それが人の指であることに気がついた。
僕らはきらきら光るものだけを手にして、その場を後にした。
いくら双子が一心同体であろうと一つしかない遺産を手にできるのはどちらか一方でしょう。そしてこの視点で遺産を持っているということは、前のセンテンスの「僕」ではなく「君」の視点であることも分かります。この調子で先程の神官達が驚いたセンテンスを見てみると、ここでの視点は「君」ということになります。「荒野を放浪する君」は「遺産」を持ち、放浪する「人形」ということになる。
これを受けて、第1話『黄昏の人々』の主人公も遺産を持ち放浪する存在であることを思い出してみてください。。2人は同一の存在であることは3話を読み終えた後であれば1話の次の文章が何を指し示すのかは火を見るより明らかでしょう。
脱水にかかる数分の残り時間を待っている、その伏せた顔に浮かぶ表情は相変わらず薄いけれど、もうとても人形のようには見えず、立ち尽くした影は遠い記憶を呼び起こす。弟と別れた夜、眼下で燃え落ちていく劇場、意外に小さく見えた屍が――。
さて、1話の主人公が人形であると仮定して読んでいくと、なんとなく人間だと思って読んでいた時とは、いくつも印象が異なってくる文言がでてきます。
僕にその道具と知識を与えたのは育ての親だった女性だ。僕はそれを死ぬために使っている。金になりそうなガラクタを拾い集め、ときには自分の寿命を切り売りしながら、衣服や道具を買い、充分な食事を摂って、「人間らしい」生活を維持する。慎ましく整った生活の先に「人間らしい」死がある。僕はそれを探し歩く。
彼がことさらに「人間らしい」という点にこだわるのは彼自身が人形だからではないでしょうか。また、
まだ死ぬつもりはなかった。死ぬつもりであっても寿命が残っている以上それは不可能だ。
とあります。一回目は読み流していましたが、屋上から飛び降りたら、いくら若くても死ぬ時は死ぬ。人間ならば。しかし人形である彼は肉体の終わりと寿命の終わりが同一では無いのかもしれませんね。
そして、人形である「君」が「人間らしい」下手くそな笑顔を浮かべる人形のフユに当然惹かれていることは4話以降の展開への大きな布石になっていると考えます。これは最初から書かれているように人形である「君」が「人間らしい」を探しているからであり、目の前の人形はまさに探していたものだったからです。3話までは「君」視点での物語ですが、もはや別の生き物になってしまった双子の片方が求めていたものを見つけたとき、もう片方はどうなってしまっているのか。復讐は果たして……???
それはあまりにも下手くそな笑顔の真似で、それが本当に人間のようで、僕はそのとき初めて分かった気がした。「人間らしい」ということ。歪みすら美しく思えること。僕が探していたもの。
復讐と僕
では人形ではない「僕」はなにに復讐するんでしょうか。これはキリカから説かれた「偽物の神様に反抗すること」を全うするということだと考えました。その復讐の過程において女神の「遺産」の力を使うことは出来ないと考え「遺産」は「君」に託されたのだろうと思います。
復讐の対象は偽物の神様、ひいてはシェルター内に住む人間、社会制度、とかなり強大な存在が相手になると考えます。この復讐がどのようにおこなわれるかはおそらく4話、5話で語られるでしょう。予想するならばリイではなし得なかったシェルター内での活動に打って出ているのではないでしょうか。というのも国家は内戦によって崩壊したとあるので、外側からの活動で崩壊したのならば、「内戦」という表現はされないのではと考えたからです。
キリカはどうして自殺したのか、リイはどうして謝ったのか。
さて、双子の「君」が人形、かもしれない、という視点でキリカの自殺の意図なんかを諸々考えていきましょう。
まず、どうしてこのタイミングで自殺したのかを考えてみましょう。正解はないものとして自由に考えていきます。
自殺する直前の描写を見てみると、気になる点が一つ。
その日の夕方、僕らがその本を支えずに読み切ることができるようになると、先生はいつもの笑顔で僕らの頭を撫でて、言い聞かせるように繰り返す。
この『僕らがその本を支えずに読み切ることができるようになると、』の文言ですね。単に、成長を表現する文章としてはいささか凝りすぎでは、と思ったんですが、これが文字通り「支えなしでは本が自立しなかった」という意味ではどうでしょうか。
片方が人形、というのはもっともらしく話してきましたが、なぜ人形が作られたのかを考えてみましょう。神官は「外に出るのはあぶない」とも言っていました。これは、一人での歩行が困難な身体であるのでは無いでしょうか。であれば、ニンゲンの方の双子の片割れは手が不自由もしくは無い、のではないでしょうか。そしてその補助として人形の方の双子が作られていたのではないでしょうか。
リイとキリカが二人で教会を出た後にどうして廃劇場で新興宗教を立ち上げたのかはわかりません。しかし、リイが復讐ではなくキリカの信仰の対象であろうとしたのは分かります。
二人の間に子供が出来ていても別に不思議はありません。しかし、その子供に身体の不自由があったとき、リイはどうするでしょうか。その時、命を形として取り出せる遺物を自分が手にしていたら。
リイがキリカの寿命を人形に与えたとすれば、1話で主人公が自分の具体的な寿命を把握しておりそれが年齢の割りに少なすぎることや、キリカの寿命は人形に分け与えたことを考えるともともと残り少なかったのではないか?など、色々考えが膨らみます。
遺文の各話のロゴの謎
遺文の各話にはロゴがそれぞれ割り当てられています。実はここに大ヒントが隠されていると思っています。こじつけていきましょう。
まず、おたまじゃくしと小さい丸の組み合わせがどの話数でも存在していますね?
1話では黒いおたまじゃくしが2つと白いおたまじゃくしが1つと丸が2つ。
2話では白いおたまじゃくしが沢山と丸が1つ。
3話では白いおたまじゃくし2つと黒いおたまじゃくしが1つと丸が2つ。
ではこのおたまじゃくしを人形、白いおたまじゃくしを人間。丸を遺産だと考えてください。
1話で登場する人形は主人公とフユの二人、人間のおじいさんが一人。
2話では沢山の人間と一つの遺産。
3話では一人の人形と一人の子供とキリカを表しているのかなと。
そして人形が寿命を分け与えられて動いているのだとしたら黒い丸の中にある丸は『錫の心臓』なのかもしれません。
“あぎらさま”とは
アガルタ・マカブラの中で最大のキーワードとなるであろう“あぎらさま”ですが、その文言がでるのは叙文の一部分のみです。
本書を読み解く上で重要な前提となるのは、旧夜野田区周辺に伝わる、俗に“あぎらさま”と称される出自不明の神にまつわる民話である。
前提、とまでしているあぎらさまですが、3話までに公開されている遺文集の中で“あぎらさま”の文言は存在しません。もっぱら「女神様」という表現にとどまるばかりです。現時点では可能性の域をでませんが以下の3つの推論を立てました。
1、「あぎらさま」という呼称はシェルター内でのみ使われ、シェルター外では使われていないためシェルター外の生活を書いた遺文には登場していない可能性。
2、女神様が「あぎらさま」と呼ばれるようになるのは第4話以降に起きる「なにか」がきっかけであるため、2232年時点の遺文には登場していない可能性。
3、原文では「あぎらさま」であった文章を、遺文を再解釈する過程でAfterImageが女神様と翻訳した可能性。
1か2、それか1と2の複合バターンであった場合はこれから投稿される4話、5話で回収されることが予想されます。
3の場合は4話以降もあぎらさまの文言は遺文中にでることはない。このため、読み手が頑張るしかないパターンです。いや、恐ろしい。
とりあえずおわりに
正直、上に書いた妄想も根拠とするには弱い部分を、精一杯かき集めてなんとか勢いで文章を書いているので4話5話が叙述トリックの種明かしパート的な構成でなかった場合は、幾人かのオタクが悶々とした思いを抱えながら「アガルタ・マカブラ」の楽曲群を延々とリピートしてなにか無いかと嗅ぎ回る考古学者になることでしょう。生殺与奪は小宵さんに握られているわけです。
また、上記以外にも音源を購入すると読むことのできるポエトリーも3話以降に読み返すとダブルミーニングみたいになっていたり、「おい学者ってなんだよおい!!!!!!!」とツッコミたく成るようなタイトルが付いていたりと、どんだけ考えて作ったんだと思うくらい妄想の余地があるのでぜひ購入して楽しんでください。というか、こちら側に来て4,5話を一緒に怯えながら待ちましょう??????
以上、一笑に付すには長い、小宵さんファン二人の会話を永井が覚えている範囲でまとめたものです。もし全部読んでくれた人がいたらあなたの考察も聞かせてください。というか、小宵さんにぶつけてください。
ほんとに最後になりますが、完結した暁にはなにかの形で答え合わせして、うわ~全然違うじゃん!!はずかち~という回もやりたいと思います。でも、7,000字じゃたりないくらい楽しめるコンテンツを作ってくださってる小宵さんとAfterImageの皆さんありがとうございます。あと1カ月ちょっと?(もう?)ですが、最後まで楽しみにしております。では!!
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