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まわりのひとはみな自分の誕生日なんてどうでもいいと言うけれど、わたしは自分の誕生日が好きだ。ほかのひとからしたらなんの意味もない日だけど、思い込みしだいでいくらでも特別な日にできる。
誕生日には毎年涼に会いに行っていた。会いに行く、というのはもちろんおたく的比喩表現でほんとうは遠くから姿を眺めているだけだけど。それでも不正(笑)しないで自分の産まれた日にそれができる権利を得られ続けているというだけで、勝手に祝福された気持ちになることができた。
いろいろあってあるとき涼は活動を謹慎になって、まあそのこと自体はもはやどうでもいいのだけど、ステージの上に戻ってくるその瞬間はぜったいにこの目で生でみとどけたいと思った。思ったけれど、その年の帝劇には最後まで出演しないことになったから、いるかどうか確定ではない少年収に賭けるしかなかった。ふつうの公演とちがって、だれかに入れてもらうとかそういうことができないから、頼れるのは自分のくじ運のみ。
そう、チケットが当たるかどうかなんてすべてはたんなるくじ運にすぎない。ただおたくが勝手にそこに意味をみいだそうとしてみるだけ。だけど、、わたしはちゃんと涼が戻ってくる瞬間に立ち会うことができた。しかも入りうるかぎりのいちばんいい席で。(しつこいようだが不正してないですよ!)それはわたしの誕生日だった。
そのときすでに不穏な気配をみせていた疫病がその後すぐに世界を覆って、けっきょくその年のいわゆる現場、つまり有観客の公演はその回と次の少年収の2回しかなかった。だから19歳の涼を生でみることができたのも、その2回に入っていたおたくだけ。
運命なんてすべては思い込みだけど、おやすみしていた好きなひとが自分の誕生日に劇的に戻ってくるなんて、そんなの経験しているおたくが何人いるだろうか。いったいあれを運命と言わずして、なんと言うのだろう?

それからいま、わたしはべつのひとの担当をしているけれど、降りた直後の今年の誕生日、開演の2時間前に公演が中止になったときには絶望的な引力を感じてしまってもしかして降りてしまったから?とか思い込みかけたこともあわせて書いておきます。
でも、そのかわりに今年は涼さまの誕生日をいっしょに過ごすことができる! わたしの少ないくじ運がぜんぶ涼に注ぎ込まれてるならそれはそれでかまわないな。

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