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自分のあさましさについて最近よく考える。
たとえば、わたしは涼のことが好きなのではなくて、涼のことを好きな自分が好きなだけなのじゃないかとか。わたしが涼に向けている言葉は、けっきょく自分が言われたいことをそのまま反射しているだけじゃないのとか、こうやっていろんなところに吐瀉物を撒き散らかすかのように文章を書いているのも、ただ自分が涼のことを好きだとだれかに認めてほしいだけじゃないのかとか。
思い出が欲しいとおもう。
もちろん、個人的な思い出なら、少ないながらも一つや二つでなく持っている。ファンサ的な記憶をないと言ってしまうのはさすがに涼に失礼だし、行き帰りの道を一人でさみしく、あるいはだれかといっしょに、歩いた情景もいまだに昨日のことのように思い出せる。以前は、そういう思い出がたくさんあればいいと思っていて、そういうものをはやく積み重ねたかった。
でも、、そうじゃなくて、もっと公共的な思い出が欲しい。あのときのあのコンサートこうだったよね、的な、自分じゃなくて特定のだれかじゃなくて、会場全体に向けられたステージの記憶が欲しいし、10年も20年も前の現場の思い出を話しているひとたちをみると、歴には勝てないってこういうことだなあと実感する。
いっぽうで矛盾するようなことを書くけれど、わたしにはそういう公共的な思い出がだれにたいしてもないから、何年好きでも全然意味ないなともおもう。ずっとひとりで、閉じた世界で孤独に生きてるだけだから。
ないものねだりばかりだな。

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