実験2日目。「いいねに踊らず、よくないねに悲しまずの境地」について
今日はいつにも増して長い。自分の35年間の半生の中で「最も大きな気づき」について書く。
果たして、このようなことを書いていいのかと思うときがある。実はこれとは別に、実験2日目を書き続けていた。何度書いても気持ち悪くて、書き終わることがなかった。
話題は、35歳、というものについて。自分が芥川龍之介の亡くなった年齢になったことから、人生の凝縮、若くして亡くなった方への思いを述べるという構成。
自分にも色々と武勇伝はあれど、今までのところ、才能は開花させていないような気がする。遅咲きであればいいなとも思うし、そう言いながらもすぐ死んでしまうかもしれないという不確実性ももちろんある。悔いなく日々を生きていきたい。
推敲して推敲して、読まれるに値するものをと思うほど、袋小路に入るようだった。
最近若くして亡くなった俳優さんにまで触れると、もはやシュウシュウガツカナカッタ。
「推敲にも程がある」とは、書き出したときに考えていた仮のタイトル。書いていたことだけは、言っておきたいというのもあり紹介した。
楽しく生きればいいし、楽しく書けばいいことはわかっているけれど、何故かうまくできなかった。
しかし。実はもう答えは見えつつある。「評価されたい」と思うから出せなかったので、自分の心に語らせるなら、ただ書きただ語るだけなんだと思う。
「いいねに踊らず、よくないねに悲しまず」の境地。頭ではわかっているようで何度も陥ってしまう。本当に体得できれば、本当に充実した日々を暮らせるだろうな。
誰かに評価されるかではなく、自分が心から納得できるか、こんなに大事なことを、どうして忘れて生きてきたのだろうか。見失ってしまえたのだろうか。
自分の臆病さがハッキリと見える。心の声に素直に耳を傾け、自分を信じて歩んでいくことを恐れている。もう答えは本当に見えつつある。
自分を臆病にしているのは、妻でもなく娘でもない。自分なりの「恥の意識」であり、「ありがちな恥の意識」だ。
それはこんなものだ。心の声を聞いて何か挑戦をする。思ったようにいかない。そのことを恐れている。いや、不十分。思ったようにいかないことで、家族に愛想を尽かされるのではないか、捨てられるのではないか、親しい友人に哀れまれるのではないか、自分のことをかっこ悪く感じるのではないか、惨めに思うのではないか。悩みもがく姿を、(評論家のような)学生時代の友人に見つかって馬鹿にされるのではないか、何か嫌な気分になるコメントされるのではないだろうか。もう二度と「明るい道」には戻れないのではないだろうか。とんでもない間違いを犯そうとしてるのではないか。「誰か」に求められる自分と、永遠に決別してしまうことになるのではないだろうか。怖い。そんな惨めな姿を見られている自分を想像すると、言いようもなく恥ずかしい。きっと自分は立ち直れないだろうと思う。傷ついてしまうだろうと思う。などなど。
こういった恐れと恥の意識は、何に基づいているのか?と自分に問いかければ、これもすぐに答えは出る。「自己肯定感の低さ、(歪んだ)プライドの高さ」。これまた痛いほど知ってはいるのだが。
何が自信を失う要因なのか。過去の自分を振り返って、うまくいっていないときに立て直しが効かなかったことを思い出していた。またきっとそうなると決め付けていた。「自分自身を信頼していない」ということだ。何という自己不審。
自分だけは自分を信じればよさそうなのに。劣等感、自己肯定感の低さを、「いいね」を集める半生の中でいわばコーティングしてきた。スポーツ、学業(特に大学受験)は最たる例。「いいね」を集めることで、自分は正しい道を歩いている、と安心してきたところがある。
SNSで他人につける「いいね」とは「(どうでも)いいね」だというのを聞いたことがあるが、これまさに同じだなと。自分は正しい道を歩いているんじゃない、やってきたことに対して、どうでもいいね、と言われて喜んでいただけ。
よくないね、に傷ついたり悲しむのはどうか。自信を失うこともあった。それらを「克服課題」と見立てて、一つ一つ解消しては、「いいね」をもらえるように頑張ってきた。そのため、その後よくないねをつけられると本気で怒りをすら覚えていた。
今、ここで。自分がどうしたいかを「すごくわかっている」のに、よくないねがついて自信を失うことを恐れている。落ちこぼれること、うまいことやっている友人を見て身の境遇を比較してしまうこと、惨めに感じてしまうのではという恐れ。
しかし。別に周りからどんな評価が下されようとも、自分の生命には価値がある。値段ではない。価値。高いとか低いではなく、ただただ価値がある。たとえどんな習性があって、弱点があって、がんばっても同じ過ちを繰り返してしまうことがあったとしても、それで命の価値は下がらない。自分の価値は上場企業の時価評価額ではないのだから。
「いいねに踊らず、よくないねに悲しまずの境地」。すでに今、頭で理解できているところから、日々の実践に繋げていく。いいねを集めるための、ピンとこない意思決定をしそうな自分にちょい待てをかけて、怖くても、恥ずかしくても、本当にやりたいことをやる。思ったようにいかなくても、自分がいいねと思えない人生よりずっといい。自分が自分を、時価評価額から離れたところで、思ったようにいっていても、いっていなくても絶対的に認めること。仮にどんな非難を浴びても、炎上しても、誰かに見捨てられても、目に見える何もかもを失ったとしても、自分自身が価値を失うことなどない。生きている限り、自分にとってのその価値は続く。だから生きる。
「いいねに踊らず、よくないねに悲しまずの境地」の実践。ゴリゴリの評価ワールドの中でいかにやっていくか、今後たまに紹介してみたい。
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