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早稲田のじゃんけんの問題について

早稲田の次の小論文の問題が話題になっている。

「じゃんけんの選択肢『グー』『チョキ』『パー』に、『キュー』という選択肢も加えた新しいゲームを考案しなさい。解答は、新ゲームの目的およびルールを説明するとともに、その新ゲームの魅力あるいは観点も含めて、601字以上1000字以内で論じなさい」

問いとしてはおもしろい。実際、僕もこの問いを読んでさてどうしようかと自然に思考が働いた。でもやっぱり、大学入試というのは、もっと教養を求める課題であってほしいなと思う。

これまで子どもたちの論理的思考力の育成に携わってきた経験から言えば、僕は、この手の思考力テストに終始することは、ただ単に小賢しい人間を育てるだけだと考えている。

たとえば、フランスのバカロレアの試験問題(「理性はすべてを説明することができるのか?」といったような)では、明らかに、論理的思考力に加えて、その論理の内容にどれだけの教養が反映されているか、が問われている。これは、先の早稲田の小論文とは全くレベルの違う問いである。早稲田のじゃんけんの問題が、単に「思い付き」が求められているだけであるのに対して、バカロレアのような試験は、その学習者がこれまでの人生で蓄積してきた知識や経験の質が、その解答のなかに必ず反映されてしまう。だから、ごまかしがきかない。このようなごまかしのきかないテストこそ、単なる偶然に左右されるテストではなく、その努力が正当に報われる、公平なテストであると言えないだろうか?

問いの形式が、単なる選択式から、このような論述形式にシフトしていくことには僕は賛成だ。しかし、そこで考えさせる内容には、それなりの深さを求めるのでなければならない。「形式」と「内容」を分けることが問題なのだ。その意味では、早稲田の問題は、形式的には悪くないけれども、内容が稚拙であると僕は思ってしまう。なぜなら、この程度の発想力を問う課題ならば、小学生でも解くことができてしまうのであって、それは決して大学が問うべきことではないからだ。

たとえば、仮にも学問を学ぶ場である大学の入試問題なのであれば、まだ次のような問いにした方がマシではないだろうか。
「じゃんけんの手が3通りであることの合理的な説明を示せ」
「じゃんけんの起源とは?それはどのような必要から生まれたコミュニケーションであると想定されるか?」
「ジャンケンのような習俗が生まれ、一般に広がる過程とは、どのようなものであると想定されるか?」

こうした問いは、学問的な探究に極めて近接した問いである。同じじゃんけんの問いでも、こうした問いの方が、その解答の深さを測ることがずっと容易であり(採点者が知的に訓練されていることが前提ではあるが)、その学習者が、その大学で学ぶことにどれだけの見込みがあるかということを、直接的に知ることができると思う。

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ハンナ・アーレントは、learningをplayに代え、教師の教えることが、内容も深みも伴わない単なる形式に堕していることが教育の危機の本質であると喝破したが、アーレントが指摘した問題が、今、日本の教育のなかで特に先鋭化していると思う。

事実、教育に教養は必要ない、ということが、日本の教育の世界ではすでに常識となりつつある。でも、僕は、日常の何気ない生活の質を支えているのが、この「教養」の世界だと思うのだ。教養とは、一部のエリートの頭のなかだけに仕舞いこまれている何かではなく、市民生活の全体に浸透しているものであるという意識を持つこと。そのことに気付くべきだというのが、僕の教育に対する意見である。

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