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小さな町の風景

出張で滋賀に来ているのだけれどどこで何をしたらいいのかわからない。次の電車まで時間があるので駅前で唯一開いていたお好み焼き屋に入って料理が来るのを待っている。客は僕一人。店内に流れる何だかよくわからないJ-POPを聴きながら、地方にいると感じる独特の哀しさにとらわれている。

この哀しさの正体は何だろうと考える。

地方にいて哀しくなるのは、そこに生きてきた人たちの情念のようなものが風景に溶け込んでいるように感じられるからだろう。そして、馴染みのない地方にいて寂しさを感じるのは、この場所に自分を知る人は一人もいないという事実に、人は本質的に孤独であるということを思い知らされるからである。

地方の風景は都会のそれに比べて変化が少ない。それだけに、地方の風景はそこに生きてきた人たちの生活を強く想起させる。その生活感は、どことなく哀しみを誘うところがある。

同じ地方でも、自分がよく知っている場所であればその哀しさは愛着を伴う。その哀しみのなかでは、あたかも自分の家のなかにいるかのように寛いで過ごすことができる。しかし、見知らぬ土地において、その生活感は僕に対しよそよそしく振る舞う。そこにある「生活」は、僕とは全く無関係の人たちによって営まれるものであるという印象を受けるのである。

こうして僕は見知らぬ場所において孤独を感じる。しかし、都会における生活もまた孤独ではないのか。お好み焼きの店を出て、電車に揺られながらそんなことを考える。電車の外に見えるのは深い闇であり、時折、通り過ぎる車のヘッドライトと家々の明かりが頼りなげに明かりを灯しているのみである。

そう、都会の風景とは基本的に、そして今僕が見ているこの外の景色とは対象的に、全てが人間の手によってつくられたものである。その空間の全てが人のために用意された場所であり、全ては光で照らされている。そのようにして人間が切り拓いた空間が多ければ多いほど、その場所は僕たちに愛想よく振る舞う。それは僕たちのニーズを中心に構築された空間であり、そこにおいて僕たちはつねに環境から期待する通りの応答を得ることができる。

このような空間において、人は孤独であったとしてもそれを意識することは少ないだろう。

対して地方のこの風景からは、自然のなかにかろうじて人間のためのスペースが用意されているといった印象を受ける。地方の寂しさは、そうした人間の空間に対して、自然が圧倒的に優位であることから生じるものであるかもしれない。

それはそこを訪れる人に孤独の感を与えるけれども、しかしそれは同時に孤独を感じるこの自分というものを相対化し、人間本来の、孤独と共にあるあり方を思い出させてくれるものでもある。

そしてそれが地方の美しさではないかと思うのである。

***

今日の昼間、滋賀の田舎道で畑仕事をしているおばあさんが何だか美しくてしばらく見入ってしまった。彼女はこの土地の風景に完全に溶け込んでいるように思われた。というよりもむしろ、おばあさんそのものがこの場所におけるひとつの風景であるように感じられたのである。

そんな風に一個の風景として生きることができたらどんなに美しいだろうと僕は思った。その場所と分かち難く結びつき、もはやそこには自分という意識すらなく、全てがあるべき場所にあるというような、そんな生き方ができたら。

それは僕のエゴが望む生き方ではないかもしれないけれども、確かに美しい生き方ではあるだろうなと、そんなことを感じながら、僕は一向に目的地が姿を現さず、どこまでも続いていくように思われる一本道をただひたすらに歩み続けた。

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