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わたしは・実存主義者です

哲学者・中島義道の哲学塾に参加してきた。

テキストはキルケゴールの『死に至る病』。

一人では読み解くのが難しい哲学書も、こうして正確に読んでいく訓練を施してもらうとそれなりにわかるようになるというのが、まず新鮮な驚きだったのだけれど、その上で改めて確認できたのは、僕がキルケゴール的な人間であり、それゆえキルケゴールがヘーゲルに対して抱いている反感がよくわかるということだ。

純粋に概念的な思考によって神に到ろうと考える、ある種の素朴な普遍主義に対して、僕はいつからか反感を抱くようになった。そうした認識は、辻邦生の『夏の砦』によって火がつけられ、今回のこのキルケゴールの読解によって完成されたように思う。つまり、キルケゴールが命を賭して伝えようとしているように、真実とは、2500年にわたる哲学の展開の先にあるのでもなければ、歴史それ自身の必然的な発展の帰結としての「歴史の終わり」――オメガ・ポイントのようなものでもなく、ただこの「私」の実存を通して認識されるものなのだ。

この「私」を経由しない間接伝達的な知の一切をキルケゴールは否定したのであるが、その底に流れている誠実性に、僕は強く共感する。

そしてその誠実性は、一方で、彼のイロニーにも通じていく。彼は言う。「私、キルケゴールは、この上なく絶望的な存在である」。それを聞いて、多くの人はこう思う。「しかり、神の前に、信仰に躓くお前は、絶望するよりほかにない」。しかし、彼の理解者である一部の読者のみが、心の内で、こう叫ぶのだ。「そうだ!その絶望のうちにこそ、希望があるのだ!」。

このイロニーは、僕のなかにもいつのまにか身についてしまった傾向である。昨日も同僚との飲みの席で、「僕は根が暗い人間だ」と言っていたのだが、そのことによって僕は同時に、僕がこの自分の人生をどうしようもなく愛してもいるのだということを、ひそかに打ち明けてもいたのだから。

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