20230407

先日書いた日記を知人に読ませたら「面倒くさい文章だ」との感想を頂いた。心外だった。僕からすればあくまであれは日記で、ある程度まともな文章であったのだ。狙いすぎていたから。ただ、よくよく考えてみれば、僕がnoteを開いてテキストを打とうとしている時には、いつだって頭の中には面倒くさいことが転がっているのだった。隙間が沢山なので、転がっていられるスペースがあるのだ。僕は今、絵を描いている。

Discordサーバーがある。Twitterの相互の人だけが入れるようにしている、私のテリトリー。鍵垢をマイルドにしたような場所にしたいと思っている。正直、Discordのような相手ありきに見える(本当にそう見えるだけで、そうとは限らないうえ、主観である)SNSは苦手で、あまり使えない気もする。でも、そんなことを言っていたらTwitterを出た時どこにもいけないだろうから、慣れておいたほうがいい気がする。がんばる。

昨夜というか今朝、本を読み返していた。半年ぐらい前に買った本で、やっぱり面白かった。何年か前に読んだ本も読みたいなと思って、また読んだ。こちらもやはり面白かった。私は、数年経っても見返したいと思えるものを作りたかったのかなと考えたりもしたが、プロの書く文章には抗えず興味を文の意のままにされていた。先に読んでいた本のほうはもう大まかな肝の部分すら忘れてしまっていたから、ここはどうなるんだったかなあと初見に少し近付いて読めたのが、なんだかこの上なく嬉しかった。眠れなかったから読み始めたのか、読み始めたから眠れなくなったのかは、私にはわからずに、本に訊いた。本は、私に読まれるだけで、特に何かするでもなく、私は本に文章だけを与えられて生きていた。その他にはなにも無かったのだ。解釈は、私の妄想だ。後に読み始めた本のほうは、数年越しだというのに未だ展開を覚えていた。初見の感動に価値があるのは言うまでもないが、覚えていてなおかつ、感動できるというのは同じくらい価値があるのかもしれない。でも、なにも生み出していない、それどころか揺り動かされたという限りなく受け身なこれにつく価値というのはいかほどなのかは、私にはわからなかった。私はまた本に訊こうとしたが、続きを読みたい気持ちが勝って辞めた。結局訊けずじまいだった。訊いたとしても答えは返ってこなかったであろうことは知っていた。その数年越しでも覚えていた本は、おそらく推理ものにカテゴライズされる内容であろうが、私はそれには毛頭興味がなかった。その作家の書く推理ものはある程度読んでいたが、それらのどれもまともに推理して読んでいたものはなかった。そのうちの一冊に私のような読者が増えていることへの指摘や揶揄があって、ばつが悪い気分になったのも覚えている。ただ、その本は、推理ものではあれど確かにキャラクタ性の描写がひどく好みであったのだ。許してほしい、偏屈なインターネットユーザーとして。犯人の動機がいやに陰湿で、根暗で、気持ち悪いもので、多少共感し得るものであった。その描写が淡々としていて、その不気味さと生々しさを際立たせていた。大好きだった。何度も読んだ。私という若者からすれば長い長い、数年もの年月を経ても覚えていた。内容も展開も、私にしては珍しく、正確に。本当に珍しい。それほどまでに好きだったのだ。今も好きだ。あの本でなく、あの本の登場人物の動機が好きだというのは、一種冒涜であるのかもしれない。斬首。

お題箱の存在を思い出し、覗いてみると、当時の画力と気力では到底無理だとあきらめていたお題が山のように……はなく、ほんの少量あった。そもそも私のような下手糞にリクエストをする時点で奇特であるのは確か──過度な謙遜は失礼に価する──失敬。
最近デジタル描画でも無理のない、気楽な塗り方を発見したので早めに描きたい所存。

日記。


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