輪郭    ノベル作品集               シナリオ&コンテンツ企画専攻2年鈴木智弥

 俺は盲目だ。でも、本当に目が見えない人みたいにずっと真っ暗なわけではない。朝に聴こえるさえずりの正体や、煩わしいほどに眩しい正午の日差し、沈みかけた太陽の放つ橙色は、毎日のようにこの目ではっきりと視認できる。視力検査だって人並みでメガネもいらない。

俺は、夜をまったく知らない。昼間よりも暗くって、どうやら星というものが輝いているらしいが、実物を見たことはない。

この目は、日が沈むと視力の全てを失う。そして、次の朝日が昇る頃にははっきりと見えるようになる。

 あの時間帯に盲目になるというのは非常に不便である。平日の昼間にはどう足掻いても高校があり、家に帰ればもう日の沈む時間だ。自分の自由な時間も与えられなければ、学校で出た課題なども全くできない。夕食は両親の力を借りて食べなければならない、そしてもちろん、風呂もだ。眠くもないのに暗闇になって、毎晩俺は苦しんでいた。

 そして、高校二年生が始まるはずだった四月、俺はとある施設に入れられた。どうやらそこには、俺と同じような不思議な特性を持った子供が大勢いるらしい。そしてそれを治すために研究を続ける科学者も在籍している。初めて施設へ行くという話がでたのは中学生頃だった。当時は正直それに反対だった。この盲目が治るわけなんてないと思っているし、いつ施設から出られるかの検討もつかないのに、ずっと囚われの身になるなんて御免だ、そう思っていた。でも、何度も何度も暗くて一人の夜を繰り返していくうちに、俺の気は簡単に変わってしまった。家族に対して、いつまでも俺の介護をさせるわけにはいかないという気持ちもあった。

 今のここでの生活は楽なもんだ。昼間は広い施設の土地で自由に行動できるし、飯は待っていたら美味いものが出てくる。夜になり、鮮明な視界が盲目に塗り替えられたあとは、施設の職員が全て手助けしてくれる。それに俺自身、夜は早めに寝るようになった。なにも見えないから、結局つまらないのだ。もしも全てが見えるようになったあと、それでもつまらないと感じてしまったのならば、俺の目が潜在的に、夜を拒んでいたのだろう。それが真相ならそれで別に良い。俺は、夜というものを知った時、どう思うのか。

それが知りたいだけだ。


 そろそろ、雪も降ってきそうな季節の色になった。この施設がある地域には雪というものはあまり降らないが、今日はとにかく寒い。白を基調とした、まるで保健室のような俺の部屋の窓には薄く氷が張り付いていた。

「おはよう、須藤くん。体調はどう?」

俺がその窓を眺めながら、白い息をベッドの上の体育座りの膝に当てていると、俺の管理担当である相澤匠先生が扉をノックして入ってきた。

「相澤先生。おはよう。特に変わったことはないけど、ちょっと寒すぎると思うんだ」

薄い生地の寝巻きに、精一杯布団を抱き寄せて寒さを凌ぐ俺の前に、暖かいコーヒを持って現れた相澤先生に、少し愚痴を垂れる。

「元々ここまで寒くはならない地域のはずだったから、暖房設備がちょっと不十分なんだ。昔からある施設だからね」

「そういえば、トイレもやけに古かった。また寒さ関係の愚痴になっちゃうけど、便座が冷たすぎる」

「あはは……それは僕も毎日思ってるよ。そろそろ設備の新調をしてもらわないとね。これからの夜は、もっと寒くなる」

「先生、夜はくそつまんないですから、早くあったかくしてください。これじゃあ寝つけません」

寒い夜は、ひたすらに孤独を感じる。俺は結局人間だから、人肌だって恋しくなる。昔は母親に抱きしめてもらっていたけれど、この年になって誰かにハグを求めるほど恥ずかしい人間でもない。

「改まっているのか怒っているのか……でも確かに須藤くんにとっては、辛い夜になるね、僕の方からも早めに相談しておくよ。他の子も同じ気持ちだろうし」

「俺の気持ちが分かったら、そのコーヒー、一口。ほら」

先生が手に持つ紺色のマグカップを、俺は凝視する。そのうち先生は、なにやら白衣の大きいポケットを漁り始めた。

「須藤くんもことだから、何か欲しいと思ってね。じゃーん、缶コーヒー。君の好きな無糖だよ」

「流石、よく分かってるね、俺のこと。先生が担当で良かったよ」

俺はそう、もらったコーヒを開けながら先生に微笑みかけた。

「全く……、僕はそういう顔に弱いんだ……。これからも君にそう思ってもらえるよう頑張るよ、それに便座のこともね」

先生はそれを言い残し、部屋の引き戸を静かに開けて部屋を去った。コーヒーを口にした俺の胸の辺りは暖かさを取りもどしたが、それと同時に寂しさもやってきた。

 さて、今日は特に勉強も予定には入っていないから、一日中自由だ。本当なら喜ばしいことだけど、あいにく俺はそうではない。友達がいないのだ。というのも、俺のように正気を保ったまま生活をしている人間は少ないという。それもそうだ。俺の抱えている特性はまだ軽い。ここにいる理由は、夜だけに盲目になるという特異性のためであって、ただ盲目というだけならば眼科にぶち込まれているだろう。

 他の施設の子が抱えている特性は、相澤先生から聞く限りだと酷いものばかりだった。とくに、本来生命活動ができなくなるような怪我を顔や内臓に負っても、変わり果てた姿で生き続けているという子。その子はもう、喋れなくなってしまったという。声帯が壊れてしまったわけではない。もうこの世界に、なんの希望も見出してはいないのだろう。そんな状態になっても死ぬことのできない彼女を、先生たちはせめて楽に生きさせてあげようと、日々奮闘しているらしい。まぁ、施設に来たのも昔のことで、これ以上姿を知られたくないという彼女の意向がずっと守られ、地下の部屋で隔離状態らしいから、きっと俺にはなにも関係のない話だ。

 そんな精神状態の子供が他にもいるもんだから、比較的心身ともに健康な俺は、いつも大人である先生や科学者たちに絡んでいる。

夜じゃなくても、俺は独りが嫌いだ。

 今日はどの大人も手が空いておらず、結局一日中本を読んで過ごした。最近外の世界で流行っているという、主人公が闇に包まれた世界を夜明けへと導くという漫画だ。俺の夜は来ることもないまま勝手に明けて行くぞと思いながらの読書だったが、案外面白かった。

 夕食、そして入浴も済ませた盲目の俺は、いつものようにベッドに入る。昼間は目が見えるおかげで、慣れた部屋を移動するのはさほど苦ではない。いつもよりも冷え込む暗闇の中、俺は今日の漫画ででてきた、夜景というものを想像しながら目を瞑る。

早く寝るのには慣れたが、どうも寒くて寝付けない。

羊を数えようとしたが、千匹まで登場してしまったら悔しいのでやめておく。

また、独りに襲われる。

早く寝なきゃ。夢の世界に行かなきゃ。

怖い。闇は怖い。

「二十一時……あと十分くらい……」

俺はその声を聞いた一瞬、闇に飲まれたことに対する恐怖心が一瞬にして崩れた。が、そこに謎の女がいることについての恐怖がまた押し寄せてくる。そしてそれと同時に、冷たい風が頬を掠った。おそらく、窓が開いた。

あと十分? 十分後に何があるんだ? もしかして目の見えない俺を狙って……

そんなことも考えたが、そこにいるであろう女は、次の言葉を発さない。なら、こちらから探らなければ、そう思った俺は、口を開ける。

暗闇に、話しかけた。

「誰だ、ここは俺の部屋だぞ……!」

その時、大きな物音が部屋に響く。窓が勢いよく閉まる音だろうか。それとともに、過呼吸だろうか、女の息が、苦しそうだ。

「や……人がいるなんて……あの……見ないで!」

女はそう言って、俺の目をおそらく手で隠した。触れるか触れないか、微妙な彼女の体温が、目元に伝わる。

「見ないでって言われても、俺は盲目だから。君のことはどう頑張っても、見れない。あ、夜だけね」

「夜だけ……? どういうことか分からないけど、とりあえず見えてない、んだよね?」

その女の声は、か細く、今にも消えてしまいそうなものだった。あるいは、声を出し慣れていないか。

「見えてないよ。俺は夜を知らないんだ。ところでなんでこの部屋に? まさか泥棒?」

俺は、見えないその女が、ベッドから少し離れて行くのを空気で感じた。

「泥棒なんかじゃないよ、何も言わずに入ってごめん。昔はこの部屋、空き部屋だったからさ」

「え、昔って、いつのこと? 俺は今年の春からここにいるけど。もう半年以上になる」

昔とは、いつのことを言っているのだろうか。少なくとも俺の前には誰もこの部屋にはいなかったのだろう。

「四年くらいは……自分の部屋から出ていなかったかも。それだけの時が経てば、空っぽの部屋にも、一人や二人くらい増えるよね」

声質的に、大人だろうか。細いその声の奥には到底子供とは思えない落ち着きを感じる。

「四年も籠っていたのに、どうして今?」

「今日は、流星群が流れる日なんだ。しかも、大きいの。この部屋は星の眺めが良いから、いつも来てた」

彼女はそう言うと、ベッド、良い?と俺に問い、おそらく足元あたりに座った。マットが凹むのと、少し身体がつま先のあたりに触れるのを感じた。

「へぇ。星ってそんなに良い物なのか」

「私は好きだよ。写真とかでもみたことないの?」

「ああ、ない。自然と目が逸れるんだ。夜を認識しようとすると」

「それは不思議」

「だろ」

「夜が嫌いなの?」

「いいや、そう言うわけでも」

俺がそう言うと、彼女はふーんと言いながら、ベッドから立つ。その数秒後、窓が開く音が再びする。冷たい風に混じった知らない匂いは、彼女のものだろうか。

「あ、ほら。一つ流れた」

「だから見えないって。あと寒い」

「私がさっきまで包まっていた毛布、足元に置いといたから……あ、掛けてあげたほうがいいよね」

彼女がそう言ったあと、俺の身体は暖かさに包まれた。もふもふで良い素材だが、静電気が発生しそうだったが、この毛布には、俺のまだ感じたことのない温もりがあるように思えた。

「暖かいな、これ」

「私の体温かな」

「そう言われるとなんかな」

俺に毛布を掛けたあと、声の距離的に彼女は変わらず窓のところにいる。そして流星群というものを見ているのだろう。

「知ってる? 流れ星が流れているうちに三回願い事をすると、それが叶うんだって」

「ああ、なんとなく知ってるよ。その話。でも迷信だろ?」

「うん、私は叶わなかったから」

そう言った彼女の声は、どこか物寂しく感じた。冷たい風とともに、また知らない匂い、いや。彼女の匂いが流れてくる。

「なのに、好きなのか。星」

「諦めきれなくてさ、また願いに来ちゃうんだよね。君のも代わりに願おうか?」

「いいよ、俺は。見えないもんに頼るほど弱ってない」

沈黙が、数分続いた。彼女がそこにいるのは分かっていても、俺からみたら真っ暗闇。急に孤独になる感覚に負けそうな俺は、先に声を発する。見えないのに、素性も分からないのに、自分が声を求めていること驚いた。

「名前、なんて言うんだ。あと、歳」

「そうだね。じゃあチカって呼んでよ。年齢は十八歳。君は?」

「嘘、一つしか離れてない。俺は須藤凪斗。ナギトでいいよ。歳は十七」

「じゃあ、ナギト。疲れたからまたベッド座るね」

そう言って、今度は枕の近くが凹むのを感じる。

「チカ、もしかして超細かったりする?」

「げ、なんで。軽いのバレた?」

「俺の担当医が低身長の低体重だけど、そいつが座った時よりも凹みが浅い」

相澤先生は、男の中ではかなり小さい方だと思うし、飯もいっぱい食うイメージがない。この前職員室で昼食を共に食べた時も、俺がしっかりカレーを食べているのに対し、先生はコッペパン一つだけだった。

「もしかしてその人、コーヒー好きでしょ」

「え、相澤のこと知ってるのか」

「まぁ、ちょっとね」

彼女は、あの先生のことを思い浮かべたのか、少し笑った。

「私、多分40キロもないんじゃないかな」

「もっと食べたほうがいいぞ」

「食べれたらね」

チカとの時間が、ゆったりと過ぎて行く。今まで一人ぼっちで空っぽだった暗闇の世界に、まるで明かりがひとつ灯るような感覚が脳内に舞い込んだ。

「ナギト」

「なに」

ゆっくりと、静かに体温が、顔の方に近づいてくる。冷たい、おそらく吐息であろうものが俺の頬にかかり、少し動揺する。多分、近い。見えないけれど、チカのことは。

「夜、教えてあげようか」

そう言ったチカは、そっと俺の頭に手を乗せた。

「い、いきなりだな……」

「独りで、怖かったよね」

「え?」

チカの細い声は少し、涙ぐんでいた。今日初めてあったばかりの俺に、同情でもしてるのか。

「暗闇は、底がないんだよ。だからきっと、辛いんだろうなって」

「怖いけど、生きてるから」

「私も、夜が怖いよ。でもね、星だとか明かりだとか、そういう物のおかげで、生きる場所を見失わないで済んだ」

夜の分かる奴が、この俺の気持ちを分かるはずがない。中学や高校の教師も、家族も、こうやって俺に同情をしてきたことがあったが、それが響いたことは一度たりとも無かった。

俺にしか、分からないんだ。

お前らが、夜を知っている代わりに、俺は本当の空っぽと、闇を知っている。

でも何故だか俺は、盲目から水滴を数粒流していた。

 俺はそれからしばらく、チカから夜の話を聞いていた。花火というものが空に咲く話だとか、月がはっきりと見えることだとか、真っ暗闇でも目が慣れれば物が見えることだとか、色々聞いた。

夜の話は、今までは聞いている途中に自然と耳を逸らしてしまったりだとか、塞いでしまったりしたこともあったが、チカというフィルターを通してだと、自然と聞くことができた。

「どう、夜」

「いいな、早く治したい。そう思ったよ」

「それなら良かった」

「花火とか、星とか、俺が治ったら一緒に見て、また解説してくれよ」

「……うん。きっと。あ、私もう少しで担当医が部屋に戻るかもしれないから。今日はさよならだね。毛布はそのままでいいよ、明日の夜、また」

彼女が、立ち上がる。離れるのをチカから吹いた風で感じる。

「そっか。色々話してくれてありがとう。あのさ、明日の昼、外の公園でまた聞かせてくれないか? 夜の話」

「ナギト。最初にさ、盲目は夜だけって言ってたっけ」

チカの声色が低くなる。怒っているようではなくて、少し怯えているような。

「ああ、うん。言ったけど」

「ごめん、それはできない」

「ええ、どうして」

「そうだね、それじゃあ」

私は、夜にしか喋れない病気だから。

チカはそれを言い残して、俺の部屋から去っていった。彼女が置いていった毛布を、俺は自然と抱きしめながら眠りについた。

 カラスが騒がしくなった頃、俺は目を覚ました。はっきりと眼球に入り込んでくる光が染みて涙が出る。

「おはよう、須藤くん。よく眠れた?」

毎朝の日課。相澤先生との会話。それは目を潤した水滴を拭く暇も与えられないままやってきた。

「とてもよく眠れたよ。昨日は情報量が多かったからさ」

チカ自身も、部屋を抜け出したことを先生にはバレたくないだろうから、俺は濁して伝えた。

先生は一瞬、俺が抱いていた毛布の方をチラッと見たが、すぐにこちらに視線を戻した。その顔は少し、笑っているように見えた。

「それは良かった。はい、コーヒー。今日は先にあげとくよ」

先生はまた、あつあつのコーヒーを白衣のポケットから取り出し、俺に投げる。それをキャッチして、火傷をしてしまわないように缶の上部を指でつまむようにして移動させ、机の上で開けた。

「最高の朝になりそうだ。ありがとう。今日は一日中仕事?」

「仕事もなにも、今日は君の検査だよ」

「あー、そうだった……また、夜の情報無理やり見せられるやつ」

検査というのは、俺の夜に対する耐性などがどれくらいついたのかを調べる物で、夜の映像や画像、夜にまつわる話などを半強制的に吹き込まれる。大体、俺は倒れてしまう。

「科学者の方々は厳しいかもしれないけれど、気分が悪くなったらすぐに僕が連れ出すから、言ってくれよ」

俺はチカのおかげで、少し夜が好きになった。彼女はとても楽しそうに夜の話をする。

だから俺も、チカが教えてくれた夜のことを、ちゃんと理解したい。

「まぁ、ちゃんと頑張るよ。夜、少し興味持ったんだ」


 俺は、全ての検査をクリアした。夜景の画像、星の画像、全てをこの目で見ることができた。若干見る時に霞んでいたりして、はっきりとはしなかったが一応、今までのように倒れてしまったりということは無かった。

 結局その日も、夜の盲目が治ることはなかったが、俺はずっと聞きたかった声を、また聞くことになった。

「一日ぶりだね、ナギト」

その声を聞いた瞬間、真っ暗だった俺の世界にまた一つ、明かりが灯る。

「今日の昼、俺検査だったから、どっちにしろ会えなかった」

「検査じゃなくても会えないよ。言ったでしょう。夜にしか喋れない病気だって」

「せっかくの喋れる時間を、俺に使ってもいいのか」

俺にとっての昼のように、チカにとっての夜もかけがえのない大切なものなのだろう、そう思ったと同時に、俺のために、それを使ってくれていたらという余計な思いが浮かんでしまう。

「ナギトの夜を、埋めるための声だから」

予想もしなかった返答に、胸の鼓動が少し加速する。うん、とかいいよ、とかでも言ってくれれば良かったのに、やけに言葉が重たい。

でも実際、俺の夜はチカのおかげで、これからも埋まっていくことになるのだろう。

「ありがとう。それじゃあ俺も、自由に動ける昼に、喋れないチカのそばにいたいけど……」

俺がそう言うと、おそらくチカの指先は、俺の唇に触れた。

「言わないで、求めちゃうから」

「別にいいのに」

「ううん。だめ。さ、今日も夜を教えてあげるよ」

そう言うとチカは、また枕元に腰を掛けた。見えないけれど、今日は俺もベッドに座っているから、目線は同じくらいだろう。

「あ、夜といえばさ俺、夜に関連する情報、この目で見れるようになったんだ。星も、見たよ」

「ほんと? どうだった」

「綺麗だった」

チカが微笑む小さな声が、隣で聞こえる。

「でしょ、暗い夜にも、光はある」

「あったよ、ちゃんと。早くこの目で実物を見たい」

「ね、私がナギトの顔動かすから、目開けて」

そう言ってチカは、俺の顔を片手で下からつまんだ。俺はどんな顔をしてしまっているのだろうか。

「目開けて……いや、何も見えないよ」

「私が一緒に見るから! 場所とか細かく教えるから、想像して」

今まで、チカから聞いたことのなかったようなトーンの声が聞こえる。まるで、はしゃいだ子供のような。

 俺たちは、二人で星を見た。俺が想像しやすいようにチカは、頑張って説明してくれていた。

「窓を一枚の画用紙だと思って、それを縦にして横線で四等分して……」

「細かいな」

「えぇっ、でも、分かりやすいでしょ? 続けるね……」

情景が、思い浮かぶ。チカが伝えてくれた細かい情報を、何一つこぼさずに受け止める。

そうしているうちに、外の星だけではなくて、隣にいるチカの姿までも思い浮かべてしまう。

髪型はどんなだろう、笑顔はどんなだろう。

もしも俺の盲目が治ったら、会ってくれるだろうか、夜に。

「チカ」

「どうしたの」

「綺麗だ」

「……そうだね。伝わった?」

「はっきりと」

俺たちはこの夜という時間の一秒一秒を今、誰よりも噛み締めて生きている。体勢を直そうとして、手を動かしたとき、チカのおそらく手に触れた。

「寒いね、ナギト」

俺には、何も見えていない。見えていないのに、今チカがこちらを向いていたのが分かる。

手が、結ばれたのが分かる。ひどく悴んだ俺の手のひらは、体温の高いチカの手によって温められる。離さないまま、空を眺め続けていると、ゆっくりと手の甲を指でなぞられる感覚が走る。それに呼応するように、チカの小指あたりを親指で撫でる。

「ナギト、怖いでしょ」

突然、チカが俺から手を離す。裏切られたかのような感覚が脳裏を走るが、それもいずれ杞憂に変わる。

「え? どうして」

「見えない人間と手を繋ぐなんて、普通はしないよ」

「今更だよ。それに俺は別に姿は気にしない」

「輪郭、確かめてもいいよ」

そう言われた瞬間、俺は感じたことのない温もりに包まれた。おそらく、ハグをされているのだけれど、母親からのものや、友達からのものとは、感覚が違う。

身体の芯が熱くなっていくのを感じる。

「やっぱり、相当細いでしょ」

「確かめないの?」

照れ隠しで言った言葉だったが、自爆だった。

俺は、姿の見えない彼女を、優しく抱擁した。そして初めてしっかりと、そこにチカがいるのだということが身体で分かる。何よりも暖かくて、何よりも光な彼女から、俺は離れることができなかった。暗くて怖くて独りで寒くて、どこに行けばいいのかも、本当に生きているのかすらも分からない、俺の最悪の夜は、今日終わった。今はただ、俺を包み込む輪郭がそこにいてくれるだけで、生きるための道標だ。

抱きしめあった手は、やがてその輪郭を細部まで確かめ合うようにゆっくりと身体を巡って行く。チカの髪は、相当短いようだった。耳にすらかかっていないんじゃないか。でも、繊細な手触りで、伸びたらきっとさらさらの髪になるだろう。チカの手も、俺の頭へと伸びる。

「あ、また撫でた」

「ぬいぐるみを抱きしめる時の癖でさ」

「俺ぬいぐるみだと思われてる?」

「……そんなわけないじゃん」

チカはそう言うと、腕を俺の首へとかけた。包帯だろうか、彼女の腕には布のような感触がある。それも、両腕だ。俺は強く抱き寄せられる。さっきよりも熱が伝わる。俺たちは、いつのまにか星を見ることも忘れて、お互いを確かめあっていた。

その中で、何度か吐息を眼前に感じることもあったが、唇を交わすことは、直感的にないと思っていたし、やはり結局なかった。

「私は、誰かの星になりたかった」

「いい夢だと思う。いつか叶えて」

俺とチカは、互いの心音を大きく奏でたまま、二人で横になっていた。

「ナギトの星に、なれたかな」

「ああ、チカは輝いてるよ。俺の中で。一等星ってやつよりも強く」

「そうだといいな。これからも」

このまま、暗くて明るい夜は静かに終わりを迎えた。まだチカの温もりは、この胸の奥にあると思う。

朝起きると、チカの姿はそこにはもうなかった。そして俺の目元には、一枚の星柄のハンカチが被せてあった。おそらく、チカのものだと思う。次会った時に返すため、俺は枕元にそれを置いた。


 結局あれから、俺はチカに会うことは一度もなかった。俺はそのまま施設を卒業して、高校生活に戻っていった。遅れた分の勉強を取り返すのは大変で、居残りで夜まで学校に残ることもあった。そういう日はだいたい、同じく居残りで残った友達と、夜飯に出かける。

 俺がチカに会えなくなった原因は、なんだろうか。嫌われてしまったのだろうか。

色々と考えたが、真相により近いと思われるものが、一つだけある。

俺はチカと輪郭を確かめ合ったあの夜の次の日から、盲目が治った。

あまりに突然の出来事に、俺も先生も科学者たちも呆然としていた。すぐに両親がやってきて、施設退所の手続きを行なった。そこから全てが円滑に進んでしまったため、先生にチカのことを聞けずに終わってしまった。

両親の仕事の都合も重なり、俺は治ってからも五日間だけ、その施設にお世話になった。

相澤先生は、どうやら他の担当の子の容態が急変したため、手を離せないということで会うことはなかった。

毎晩、チカを待った。

毎晩、星を見た。

一人で見る寒空の星たちは、輝きの奥で、どこか寂しさを放っている。

ある夜、流れ星が降った。チカも言っていたように、こんなもので願いは叶うわけがない、そう心では思っていたが、自然と、俺の口は開いた。

「チカの夜が、ずっと幸せでありますように」

俺がそう口に出した時、部屋の扉の窓の後ろで、白い何かに纏われた人間が、一瞬姿を見せた気がした。それに不思議がっていると、中に相澤先生が入ってきた。

「大丈夫なの、この前言ってた子」

そう俺が言うと、先生は軽くこくりと頷いた。

「今、星に願い事をしてたのかい?」

「見てたのかよ、はずかし」

「あはは、須藤くん。きっと、叶っていますよ。これからも願い続けてあげて」

言われなくても願うさ、なんてことを言おうとしたが、俺のチカに対する思いは、俺の中だけで留めておこうと思う。

 最後の夜、俺は意外にも早く眠りについた。これから家に戻るんだと考えたら、計り知れないほどの安堵に襲われ、俺はリラックスしきった状態で暖かい布団に包まれた。

寝ている間、俺は少し手に、握られたような違和感を感じて、目を開けようとしたが、ハンカチのようなものが目元に掛けられていて、結局そのまままた眠りについた。

俺は、チカと星を見る夢を見た。

また、夜を俺が嫌ったら、チカが救いにきてくれるだろうか、なんてことも思ったが、それじゃあチカの思いを踏み躙ることになる。

もしかして、俺に夜を教えるための幻だったんじゃないか、そう考えたこともあった。でも、あの夜確かめあった互いの輪郭が、それを否定する。

盲目のなかの光の記憶。

あの時の感情をいつか忘れてしまっても

俺を照らした星のことは、絶対に忘れない。

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