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般若心経と手塚治虫の八百比丘尼と生きること

20代の頃、一心不乱に般若心経を書いて、30代の始めは成田山の写経等に行き荒ぶる心を抑えていた私。

多分集中できるならば、なんでも良かったのかもだけれど、般若心経は、小さいお経をランドセルにしまい、お守りにしていたし、中学生になる頃にはほぼ暗記しているくらい身近なものだったからかもしれない。しかし、まだこの時点では、般若心経の意味をよく知らず、20代手前くらいで、般若心経に書いてある意味を知り、ぐんぐんと惹かれていく。

 脱衣所に、何故か『火の鳥』の鳳凰編が置いてあり、間違いなく息子の仕業なんだけれど、お風呂の中で再読(もう何十回と読んでいるけれど)。

我王や茜丸の才能は、仏教を広める為の道具に使われ、良弁和尚は、仏教が政治の道具になる事を嫌い即身仏になる。命が失われ、生きる事に迷った時、何故人が生きていくのかを見つけた我王は、両手を失ってもなお生き続け、彫り続ける。

 般若心経の面白いところは、この世界さえも空かもしれない、と、存在の否定をしている所で、それでも自暴自棄に生きるのではなく、希望をもって生きる事で、迷いは少なくなって、安らぎを得られる。と、言い切るところ。

我王により利き腕が再起不能になった茜丸は、火の鳥に「地球が亡くなるまで人に転生する事はない」と告げられ、鬼瓦対決の後、我王の残った片腕を奪う。ところが大量殺人犯の我王は、この後も人として転生する。

フィクションの世界だけれど、自分が茜丸だったら??あんな仕返しをするだろうか?人して生まれる事ができないから、今世で敵討ちをしたかったんだろうか?色々考えさせられるけれど、40過ぎて思うのは、それでも何かに生まれ変われるならば、良いかな~って。

と、いうのも、火の鳥の「異形編」の八百比丘尼は、無限の時間の中で、何度も自分に殺されながら、産土神の治療をしていく。

 死ぬ事の恐怖より、今生を果てしなくやり直さなければいけない方がしんどい。

ならば、いつ死ぬかわからないけれど、それこそ今この時間が「空」かもしれないし、滅びる身であることは確実なので、1分1秒を大切にしなければと思う。

 魂の記憶は融合していくのかもしれないし、素粒子の塊になって、ビックバンで散り散りになって、また生き物に合成されるかもしれない。

気の遠くなるようなループで姿を変えられる方がいい。(という考えも空かもしれないけれど)

未来永劫に続くのは、命が生れ滅びる事。

だから、今私の人生を大事に生きたい。





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