8月8日の満月と20年前の自分②結婚に行きつくまで

結婚について色々考え方があるだろうけれど、1度は他人深く向き合う期間があっても面白いかな~と思う。他人の家族も、紙切れで親族になって、他人と血を分け合って子供が出来て。経験として。良いか悪いかは別としてね。

結婚願望がめっぽう強かった高校時代。恋愛に敗れ、親の不仲を見て結婚に夢を持たなくなった大学時代。社会に出ると、結婚より経済力wとか思い、もし誰かとお付き合いするなら、経済力重視で妊娠するリスクも出てくるならば、結婚も視野にいれた、マジメな付き合いじゃないと嫌だという前提。但し、選ばれるより、選びたいと思い、お見合いや親の決めた人との結婚が嫌で、強引に家を出る。家出だなw

因みに前出のS教授は資産家だったけれど、結局恋愛には興味がなかった?ようで卒業して2度目の大学院受験の頃には疎遠に。

少し話は戻ってパリから戻って半年後、22歳年上の父の様な存在としか思っていない実業家に求婚されるも、数名の愛人のチラつき私も若かったのでぽしゃる。

 で、家を出てからお付き合いした人は、私より7つ上の人で後でわかったのだけれど、仕事を転々としていた。付き合う条件も「結婚を前提に」の真剣交際だったので、相手の親にもちゃんと会っていた。数年後には結婚という約束の元、仕事を長く続けるかな~と思ったら色々理由をつけて半年くらいで辞めてしまい、父の会社で雇ってもらおうという安易な考え方や、コンビニ経営等「俺は人を使う立場になりたい。」とか言い出したので、呆れてしまい、環境を変えようと、2001年、6月にフランスへ、この時は方位は無視して、兎に角遠くへ行こうと10日間程パリに滞在。その間に関係をどうするか考えました。

西に一白水星が年で回っている年。

 パリ滞在中に彼に電話したけれど、帰国したら一番会いたい人が、当時まだ友達だった、旦那だった。

帰国後彼に別れ話、途中拉致られそうになりましたがそこを切り抜けましたが、「結婚して~って煩くて、重い女だった~」とか色々共通の友人に吹聴されて、大変しんどかったのを覚えています。

でも、後を引く事無くすっぱり別れられて良かったのと、人間関係を清算できたのでOKって事で。

今度は学年では7歳年下になる旦那と付き合いが始まります。旦那とももち、結婚前提ですw。そう言えば諦めてくれるだろう~と思ったのに、これが意外や意外、まだ20歳だったので塾講師のバイトをしっかりして、お金を稼いで年上の私に、態々背伸びしたプレゼントをしてくれます。

 嬉しいやら気を遣ううやら…。なんだかんだ人生の一番しんどい時に、結婚はしていないけれど、傍に旦那がいてくれたので乗り切れた部分もあります。しかし2003年、そんな旦那の力では無理なくらい、もういっぱいいっぱいで死のうとした時、

実は当時横浜の有名なサイキックリーダーに会い、どんな言葉をくれるのか期待しました。

でも、今でも思い出せないくらいフワフワした内容で、さらに絶望したのだけは覚えています。その後、等々力にお住まいだった藤木相元先生に、死ぬのを見抜かれて3年我慢して生きます。この間、なんどか自宅へ訪れてある時

「好きな男の写真あるか??」と言われ、旦那の写真を何枚か見せます。

「おお、いい顔やな~。ええ男や、絶対離したらあかん!!」と言われ結婚するしない関係なく、この人(旦那)は自分の経験値になる人なんだ~と思いました。

 本人は(旦那は)全然そうは思っていないようですが、結構束縛しいです。でした??電話やメールをマメにしてくるし、ずぼらな私がしないと、拗ねて面倒臭く、電話やメールは私には時間が物凄く勿体ないし、仕事に集中したい事も、そして何故かモテ期が30越えて再びやって来たので、まだ社会人なりたての面倒臭い旦那より、仕事ができる大人の異性と、ガンガン手広く仕事をやりたい自分がいました。

凄いやり手の若手起業家にもお誘いを受けたのですが、兎に角自分の時間が欲しくてお断りして、タイミング良く??仕事を辞める事になった旦那との恋人という関係も清算して、仕事に生きようと思い始めます。

 この間、体調はすこぶる悪く、仕事やプライベートは3歩進んで2歩下がる、時には5歩後退する事もあるようなジェットコースターな日常でしたが、倒れて死ぬその日まで、何かで絶対「父を超える」それが私の目標でした。

結婚とか恋愛とか後回しになり始めたのです。仕事終わりに、1人で飲みに行くようになると、母の友人Mさんと居酒屋さんで何度か会うようになり、年は親子ほど離れているのですが、仲良くなって、1週間に1、2度一緒に飲みながら、お互いの恋バナをするのです。Mさんは、若い頃にレーサーの方と結婚し離婚。その後お父様の会社を継いで、主にイタリアとの取引があったようで、ミラノコレクションの前になると、日本と海外を行き来して忙しい人でした。

彼女には私より年下の気になる彼がいました。「優しく接してくれる彼に、お店をプレゼントしようと思う…。」と言う彼女に、私が「今はそれは早くない???」とか同級生のような会話で、私は、もう1度時間を戻せるならやり直したい、初恋の忘れられない彼がいて、その話をしていたら「今すぐ、その彼に連絡してやり直すべき。そうじゃないと絶対幸せになれない。」とか言われ、お酒を飲みながらの話なのですが、あの神戸の地下鉄のラッシュで1人オーラの違う彼を見た時の衝撃が蘇り、「連絡しようなか~」とか本気で思い始めた頃の妊娠発覚でした。

妊娠が分かった時、旦那は働いていたクリニックを辞めて就活中でした。私は駅前にお店を出すか、二子玉川にお店を出すかで迷った時で、体調不良から、結婚より実績とそろそろ別れを切り出そうと思っていた頃でした。

体調不良は妊娠が原因で、元々妊娠が難しい体だったので「この子は何がなんでも産もう」と決めて仕事をあっさり辞めました。

さぁ、旦那との結婚…ここは迷いましたw妊娠した事を伝えた時。「え??」と言った後に、おめでとうかありがとうかを言われたのですが、「え??」に引っかかり、旦那は私じゃなくても、他の人と結婚した方が良いかも…。まだ若いし、負担かけてもね…とか思い、黙って産むのは子どもが可哀想で嫌だったので、兎に角旦那の両親には妊娠を伝えるだけ伝えて、私が育てればいい~という考えでしたので

「ご両親に子どもができた事伝えたいねんけど。」というと「え??まだ就職できてないから就職するまでちょっと待って。」と言われ、妊娠を伝えたその日に面接した病院の就職が決まるのですが、「働いて1カ月過ぎるまで待って」と言われ、仕事もないし、オーラソーマや松村先生の講座等もあったので、取り敢えず横浜の浅間町のマンションを借りてその日が来るのを待とうと思いました。地元の国立病院から、横浜の国立病院の産婦人科への紹介状を書いてもらったりバタバタでした。ただ

2006年この年横浜は暗剣殺方面、6月は本命殺が回ってました。

取り敢えず、台湾・台北へ、年は九紫火星 月は七赤金星 2週間近く滞在し、

台湾から見た横浜は、年は六白金星 月は四緑木星 そのまま横浜に行こうと妊婦ですが台湾へ旅行。

ホテルは色々迷ったのだけれど、どうせなら台北を見渡せるホテルで落ち着いた場所と思い、高速道路ができたあと一度火事を起こした事があって、その後色々手を施したと聞いた圓山大飯店に止まろうと予約。

七赤方面なんですが、スイートより一つ下の部屋が長期滞在になる為か安くステイできました。専用のパソコンルームや朝食は同じクラスの宿泊客専用のラウンジで朝から結構豪華でした。ただ一つ、ここは中心街から遠く、ホテル専用のクッションの悪いマイクロバスに乗るか、歩いて最寄りの地下鉄までいかなければなりません。

 ホテル代は安く済んだのですが(それでもちょっと高め)、タクシーフル活用なんで、交通費は結構使いましたw

 台北にある有名な廟は全部周り、結婚云々よりも「子どもが元気に生まれて幸せになりますように。」そっちが優先でお願いばかりしてましたw

台北101の展望台の更にその上に登り、「ここが世界で一番高い建物だよ~」と話しかけたりした。(2005年12月30日 年一白水星 月四緑木星 が回っている時に 旦那と台湾へ1週間旅行して、ホリデーインに宿泊、その時101からの花火を見ている。一白水星回っていて、3月末にできた子だから4か月目ですね…方位って凄い) 

 横浜での生活は講座が無い時はする事がなく、「苦w」
旦那は働いているし、会えるのは休みの日だし、私は取り敢えずさっさと伝えて地元に戻って子供を産む準備がしたかった。成田山へいって写経したり、プライスコレクションの若冲展へ行ったり、母が時々やって来て一緒に日本橋へ行って食事したり、おばさまに会ったりで、えらくのんびりした日々を送ってはいたのだけれど、旦那が内心メチャメチャ焦っているのがわかって、「もうお腹も大きくなって来たんだけど~~」と私もイライラ。1カ月が過ぎて「どうするの??」って聞いたら「もう少しもう少し」と伸び伸びになり7月末頃に、学会で海外出張中お父さん不在の時、ようやくお母さんと話ができ、「この子多分ロコさんと結婚するんだろうな~と思っていたの。でいつ籍入れるの??」と言われたので、プロポーズ無しにお母さんのその言葉で、結婚してみるか~と言う気持ちになった。

もし、ダメでも家があるし、無くてもこの子の為なら何としてでも生活するし。そんなこんなで、あっさりと結婚する事になり、9月に入籍。10月に挙式、12月出産でした。

旦那様は2006年、四柱推命では空亡という時期で、西洋占星術では土星が10ハウスに入って、仕事や社会的立場で苦しい思いを強いられる時でした。しかもまだ25歳だったのでサターンリターン(29歳頃:西洋占星術的厄年)前に結構な正念場がやって来たわけです。因みにサターンリターンの時期に、旦那のお父さんが亡くなっています。

本当はもっと細かく色んな出来事があったのですが、まぁ簡単に。

 1人で生きるのも2人で生きるのも選択は自由です。結婚が良いなと思えたのは、幸いお互いの親を自分の親の様に大事に思えた事で、一緒に同じ時間や思い出を共有できる事、笑ったり、愛おしんだり、悲しい時、寂しい時ほど何も言わなくても、傍に居てくれる存在である事。

愛の見返りを求めたり対価を求めるのって、商売女がする事だと思う。

愛は尊い学びで、相手に答えを出してもらうもんじゃないかも。

 FBで面白可笑しく旦那をdisる時もあるけれど、感謝もしている。お腹から笑ったり、思いっきり泣いたり、だらしない格好をみせられる。自分と言う人間と親以上に長い時間共有する他人。不思議な関係。また親と違って解消するのもアリなんで、紙切れ一枚の問題ですが、家族と言う形で親密になれる他人の異性との経験値も役に立つかは別として、面白いので一度は結婚も悪くないと思います。

私は良かったけれど、旦那が先に逝って再婚はないかなw







 

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