7つのコスモス(6)20220418

7つのコスモス(6)

2022年4月12日から書き始める。

トリトコスモスについて書く。

人間という定義があまりよくわからない

 グルジエフの定義では、トリトコスモスは、「第六宇宙、トリトコスモス。<第三宇宙>。人間。」ということで、これは上から6番目のコスモス、そして人間について書かねばならないということだが、わたしはこの人間という定義がいまひとつ決められない。
 人間という定義は、時代によって変わってきたと思う。後アトランティスの7つの文化期のスパンでは、第一文化期から第三文化期くらいまでの人間と、現代の人間の定義はまったく違うものだと思われる。第三エジプト・カルデア文化期は、神と人が一体化していたと考える時、これは人間の輪郭が今のような肉体の輪郭の範囲のものを示しているわけではない。
 wikipediaの、光背の項目で、「形状による分類として、光を輪であらわした円光(輪光)、二重の輪で表した二重円光、またそれら円光から線が放たれている放射光、蓮華の花びらを表した舟形光背(舟御光)や唐草光、宝珠の形をした宝珠光、飛天が配せられているものを飛天光、多数の化仏を配置した千仏光、不動明王などのように炎を表した火焔光などがある[2]。」と書かれているが、こんにち、人を見ている時、肉体の輪郭しか見ていないので、これらはたとえだと思われている。
 だが、第三エジプト・カルデア文化期なら、この光背も、肉体としてはっきり視覚化される。それは見ている人が自分もそうだからだ。

 現代の見方で、2メートル以下くらいの肉体を持つ、手足のある生き物ということであれば、これは「人間の肉体」とは言えるが、これそのものが「人間」とは定義しにくい。しばしば人間を3分節にわけて、思考(御者)、感情(馬)、身体(馬車)と考えたが、この場合、思考も感情も、身体の範囲には収まっておらず、身体の周囲に漂っている雲、霞のようなものかもしれない。第三エジプト・カルデア文化期に、人を見て、仏教の光背のようなものを持っているのが見えるとすると、これを思考や感情の要素とみなしてもいいかもしれないが、こんにち的に、これが「目に見えるもの」として扱われないのは、思考や感情の振動の物質を「対象化」できないからで、つまり、相対的に、意識の振動密度が低いからだとも言える。振動が高いものは自分よりも低いものを対象化する。しかし、自分よりも振動が高いものに関しては、「目に見えない」ものと考えるしかない。

ここから先は

50,204字

¥ 600

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?