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「立派な」大人について

息子が小学校を卒業することになって、
コロナが終わってから初めてのフルコースの卒業式に出席しました。 

その中で、何人もの人が挨拶の中で「立派な大人になってください」という話をしてくれました。 ふーむ、立派な大人って何を指してるんだろうな。

学業を収めるとか、夢中になれるものを見つけてそれを熱心にやったらどうだとか、周りの人に感謝して とか、中学生としての自覚とか、

まあおよそそんな話の流れの中で立派な大人を求めているのですが、

25人しかいない小さな山の小学校の6年生、一人一人全然違うタイプで、
将来どんな大人になりそうかなあと、大人になってそれぞれの未来で世の中のネジを巻いていく様子を想像し、
頼もしいなと思いながら、退場を見送りました。


そこで 思ったのは、
大人になるのは年齢を重ねれば誰でもそういう立場になるけれど、

立派な大人になるというのは何が違うのか…わたしの考えは

他人のことを他人の立場に立って 思いやれる量の差ではないのかなと。

自分では想像できないような事情や立場や考え方の背景を相手が持っているかもしれない、と思いながら

自分の尺度で相手を判断せずに、
おもんばかることのできるだけの、
想像力、洞察力、思いやり。

それがさらに拡大するなら、
相手の文化圏に対する知識、文化や言語や宗教、地政学的知識、それらを総合して相手のことを深く想像する力を、教養と呼ぶのかなあと。
そんなことをぼんやり思いました。


学校で集団生活を学ぶとよく言われますが 、
人間が種として生き延びるために集団を形成し、その担い手を育てる仕組みが教育だとすると、

教育の目的は、お隣の人を思いやって助け合って暮らしていくことのできる、共に生きるフルメンバーを形成することなのではないのかなーと。

かっこよく言えば 成熟した市民とでも言いましょうか。それが、「立派な」大人ではないかと。

私はそう思いましたが 皆さんはどう思いますか?


うちの子は立派な大人になれるでしょうか ?
私は立派な大人でしょうか?


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