エコーチェンバー現象

 引っ越しをするので自室にある様々な黒歴史を処分しようと色々なものを断捨離しているのだけど、本当に四ヶ月前に年末断捨離をしたのか?と思うほどの量の物が私の部屋にあって困る。しかも、アトリエには自室よりも多量の黒歴史創作物(絵、粘土、布、架空シリーズ、等)があるので、そっちも片付けなくてはいけない。どうしよう。

 私の様々な黒歴史創作物の中でも一番処分がやっかいなのが日記で、高校くらいから気まぐれに書き続けて来たので十冊以上ある。
 「その日あったこと」を書くというよりは「その日思ったこと」を日記に書いているので、物語というよりは思考のメモだったりお気持ち表明だったり、その日の気分によって様式も文章の雰囲気も違うんだけど、やっぱり書いているのは私一人だけなので、物事に対する捉え方や審美眼などに、ある種の視野の狭さや固定化された視点からくる、まあ良く言えば私らしさという一貫性がある気がして、読み返していて興味深い。
 自分を客観視するのは好きじゃないけど、過剰な自意識と時間を持て余してるせいで不得意ではないし、自分の思考はいつでも精度100%で汲み取れる(別に精度が低くても汲み取った時点で新しい私の思考として精度100%になる)し、私は私の乏しい感性が結構好きなので、自分の思考や感情の媒体としての自分の日記は好き。

 繰り返されるあるひとつのフレーズが、客観視点からの「その人らしさ」みたいなものを形成すると思う。私の日記にも同じフレーズが繰り返されていることがいくつかあって、その中の一つが「一年後にはどうせ死んでる(ので今思い切り暴れましょう)」っていうメメント・モリ的なものなんだけど、本当に一年後に死んでいたことは今までなかったので、繰り返し嘘をついてただ暴れながら生きている人になってしまっているね。しかしそのフレーズを書くとき、私はわりと本気で、「一年後にはどうせ死んでる」と思っているのだ。

 嘘になった物を選んだので、今からだいたい一年半くらい前(大学四回生卒業前冬頃)の「一年後にはどうせ死んでる」フレーズがある日の日記を読んでみる。どうしてその時「一年後にはどうせ死んでる」と思ったのかを記すとして、
1、社会適応への不安や拒否
2、自分のプライドと能力と社会的地位の間が埋まらないことへの焦燥
3、劇的なまでの不幸と幸福を経て麻痺した感性で、希釈された不幸と幸福(身の丈に合った、予見可能、なんとなく、などの普通の不幸と幸福)を退屈に感じることへの恐怖
の3つくらいに分類できるんじゃないかな。

 ここからその3つの死ぬための要因が、死ななかった一年後にどう変わってしまったのか考えてみる。

1、社会適応への不安や拒否
 社会的地位や収入は割りと本気で低いが、社会への適応能力の有無が文字通り「死ぬほど重要」だとは思わなくなった。社会から落ちてみると、落ちたところで割りと適応したって感じ。
 でもやっぱり社会的地位やお金があってこそ行ける場所や知れる場所も多い。しかしそういう人は私のようにならないために、収入や社会的地位を「死ぬほど重視」していて、私の世代ではその特権を駆使したり楽しんだりする時間のある人は少なそう。(そして今のところ私の世代が多く集まるその特権ってのは案外セキュリティ甘いので私でも忍び込める)
 でもやっぱりもう少し年を取ってくると、同世代内で社会的地位や収入の格差ががくんと明確になると思う。その時のことが怖くないと言えば嘘になるけど、社会的に認められることとお金を稼ぐことは、私には致命的にまで向いてないということが理解できる程度の聞き分けはこの一年で得られたのかもしれない。諦めでもある。

2、自分のプライドと能力と社会的地位の間が埋まらないことへの焦燥
 根本的解決はしてないけど、これはわりとプライドがズタズタになったことで死に至るほどのものでもなくなった。バランスがとれたという感覚かも。
 相変わらず自分の実力のなさは痛感するけどでもなんか、贅沢なことに自分よりずっとすごい人を見すぎちゃって、私がなにか努力をしてその人たちを追いかけても全然かなわない。だから楽しいことだけを楽しむためにやれたらいいかな。
 でもやっぱりプライドはズタズタになっただけで高いままかも。他の人が適当にやって完璧に仕上がるものを、自分がやっとの思いでギリギリ形になるくらいで仕上げることほど、滑稽なものはないとは思う。
 衝動的に何かに必死になったり強い感情を示したりする自分に対して、「あほくさい」と思うことも結構たくさんある。
 私にしかしない、やらない、できないので何をやっても百店だというものが見つかって、それを好きになれたらいいなあとは思うけど、そういうものが見つかっても、すぐ飽きたり、結果が自己満足に達しないと悟ると怖がって止めちゃうと思う。
 焦燥感は刹那的な楽しさと安定しているっていう錯覚でごまかしていくのが良さそうかも。最近は与えられる安定に甘えてしまっている。他人に迷惑をかけているという意識はある。

3、劇的なまでの不幸と幸福を経て麻痺した感性で、希釈された不幸と幸福(身の丈に合った、予見可能、なんとなく、などの普通の不幸と幸福)を退屈に感じることへの恐怖
 これはひとつ認識が変わってしまっていて、たぶん一年前の「劇的な幸福」というのは「劇的な不幸からの救済」だと思っていたのだけど、これは疑ったほうが長生きできる価値観だと思った。なので私はまだ「劇的な幸福」は未経験なのかもしれない。そんでもって「劇的な幸福」というのは、私が想像してるよりずっと穏やかなものの可能性もある。
 あと希釈された幸福は案外楽しい。退屈なことがあったら自分で面白くなるように改竄してしまえばいい。独善的かもしれないけど。

 自分の破滅願望が他の人のそれよりも軽いのは、身近な人間の自殺未遂を幼少期に見すぎたかもしれないとは最近思う。見なくていいものを見たと思う反面、そこで自分のアライブへの期待を殺しておいたのは正解だった。夢見がちでいる幸せと引き換えに、自分が好き勝手した結果誰かに恨まれて強姦されて殺されてバラバラにされるかもしれないという切迫感と受動性を得たと思えば、得られなかった一般感覚も惜しいとは思わないと強がれる。
 こないだ駅でばったり鉢合わせた元アレと少し話したのだけど、「もっと自分を大事にしなよ」みたいなことを私に助言してて面白かった。面白かった理由を書くと、私がみなさんが思うよりずっと自覚のある意地悪なのがバレるから書かない。

 あんまり過去のことばっか思い出してるのも馬鹿らしいのだけど、忘れることって意識しないでも勝手に忘れるし、思い出すってことは一番の忘却の証明だと思う。それに、まだそのフレーズに飽きてないっていうことなのかも。
 繰り返されるフレーズにでるその人らしさってのは忘却と追憶を行ったりきたりするそのインターバルにあるのかもしれない。飽きてないなら楽しくサ走るしかない。

 あとサバイブって言葉が好きだなあ。逃げても、ずるして戦っても、生き抜いたらそれでオッケー!というかんじがして。
 ゆるい切迫はいつでもしていたいし、やっぱり死ぬ瞬間も受け入れるんじゃなくて自分で決めたいとは思う。これが一般的な倫理観を持った人からは受け入れがたい価値観なのは理解できるけど。

 今日はこれから忙しいのに色々考えて眠るタイミング逃しちゃった。
 面白いことしたい。いちごに練乳いっぱい浸して食べたい。トレインスポッティングが好き。ひとりでどこにでも行けるようになりたい。煩悩と欲望で動いてたい。ダサい人間と内輪のコミュニティはくそだるいから嫌い。死んだほうがマシなんだったらとっとと死にたいし、そうじゃないなら不幸も幸福も愉快なら全部やりたい。可愛い服いっぱい欲しい。自由な人たちを見ていたい。同調圧力には屈しない。誰にも嫌な思いしてほしくないけど、そのために私が何かを我慢するのは嫌。
 とりあえず朝ごはんは雑炊にする。

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