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「ブギウギ」と淡谷のり子

 戦後の昭和に青春時代をすごした私は、かなりの懐メロ好きだった。しかし、そのことは隠していた。
  というのも、学生時代には周囲の仲間に合わせてビートルズやモダンジャズを聴き、虚勢を張って、音楽喫茶通い、クラシックもかなり聴いていたものだ。そのおかげでビートルズもジャズも、いっぱしに好きになった。
 しかし巷によくいる音楽通ぶったディレッタントに、私はとてもなれないと思っていたので、その裏で昭和の懐メロやフランスのシャンソンを聞いていた。いわば音楽面の二重人格だ。懐メロといっても単なる流行歌ではない、実際、懐メロには人生の情と本質が詰まっていると私は思っていた。
  新聞記者になってから、音楽や映画の取材をしたことがあるが、フランスのテレビ局が公演したロリン・マゼールの楽団を取材したり、パリの教会で開かれた現代音楽家メシアンの公演を聴きに行き、彼にインタビューしたことがある。
 その当時はいっぱしの音楽記者を気取り、パリの名門コンセルバトワールに留学中の日本の音楽家の取材をしたりした。ある日、フランス人の音楽プロデューサーが、私のつけ刃を見抜いたのか、「あなたは本当に音楽専門記者なのか」と尋ねたことあり、冷や汗をかいたことがある。やはり海外は怖い、と思ったものだ。
 黒スーツに蝶ネクタイ姿で、イタリアのヴェローナの野外円形劇場の伝統演目「アイーダ」を見物したこともあった。夕暮れ時の開演で、舞台上空の夕焼け空に鳥が飛ぶ風景に、さすが本場のオペラの凄さに感動したのを覚えている。
 また、若き日の坂本龍一さんのインタビューに出向き、かなり難解だった現代音楽の話しを聴いたこともあった。
 映画では南仏のカンヌ映画祭を取材したり、戦後の昭和を代表する俳優の高倉健さん、佳人薄命だった女優の夏目雅子さんにも何度かお目にかかった。日曜版の連載「世界シネマの旅」シリーズの担当記者をやったこともある。 
「世界シネマの旅」では、カンヌ映画祭やアカデミー映画祭、ベネチア映画祭のほか、往年の名映画のロケ地になったアメリカ、フランス、スペイン等の世界各地を取材して回った。記者時代で唯一の楽しい取材の旅だった。
 しかし、新聞記者と取材先の関係は、ある日突然の「異動」によって終わる。
 好きで音楽記者や映画記者になる人、宝塚ファンが嵩じて宝塚担当記者になり、一生をそれで過ごす記者はいるが、新聞記者の仕事は異動転勤と共にある。だから、職場の異動を境に前の仕事とはきっぱり縁を切る。そこから次の一歩がまた始まる。まるで人生のやり直しのようでもあった。
 「別れ」とは、新聞記者の生活スタイルの本質なのである。ベテランになりかけると、振り出しに戻される。この繰り返しだが、そのうちデスクになり、部長になり、局長になり、社内階級が上り、役員や社長になる人が出てくる。日本全国、どこにでもある会社の仕組み、官庁の役人と同じサラリーマンに過ぎないのだ。人生の目的とかキャリアの専門性を考えている余裕はない。

 命にはやがて終わりがくる。その運命の「別れ」を歌うのが懐メロの本質だろうか。誰にでもあり、誰にでもわかるのに、人知れずこっそりと聴く。あるいは孤独な夜道で涙をこらえて、口ずさむ。なぜだろうか。

懐メロといえば、好みはブルースだった


 淡谷のり子の「別れのブルース」。「窓を開ければ、明かりがみえる、メリケン波止場の灯がみえる、 夜風 潮風 恋風のせて、今日の出船はどこへゆく、むせぶ心よ はかない恋よ、踊るブルースの 切なさよ」
と歌い出すのだが、その張りのあるソプラノの音色と抒情に心を奪われた。

 彼女の歌声を「宝石のよう」と評した人がいたが、なるほど、日本でこれほどに透き通た声で歌える歌手が他にいるだろうか。まるでヴェローナの円形劇場で見た歌劇「アイーダ」の歌姫の声のよう。
 彼女は東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)出身で声楽を学んだというから、音楽の基礎教養がある。歌がうまいのは当然かもしれない。
 目的だったクラシックの道を歩まず、大衆音楽の世界に入ったのは、そういう運命の人だったのだろう。
 人生とは様々な偶然が重なり合い、連鎖することで目的どうりに進行しないのは、人の世の常である。人間はAIとは違う。そこが人生の魔訶不思議さと面白さだろう。思いがけないことが起こり、人生の曲折が起こる。運命に殉じて生きた人の歌が世に出て、歌われる。
 この歌は、服部良一・作曲、藤浦洸・作詞、昭和12年に発表された歌だが、古いレコードを何度、聴いてみても、彼女の「宝石の声」に乗った生の歌声が胸に迫ってくるのだ。その踊るブルースの切なさが、、。「人生」とはブルースを儚いブルースを踊っているようなもの、その心の傷を少しでも癒してくれるのが、淡谷のり子の「別れのブルース」だった。彼女の歌は他にも「雨のブルース」「小雨が降る径」などのヒット曲がある。
 80年以上も前に作られた歌が、「今でも」胸に響いて、聴こえてきたのはなぜか。

人物相関図を公開! - ブギウギ - NHK


 それを考えるきっかけは、今のNHKテレビ番組にあった。NHK人気の昼ドラ「ブギウギ」シリーズである。NHKの番組宣伝をみていると、かなりの頻度で「ブギウギ」の宣伝や再放送をやっている。昼ドラは見たことのない私でも発見したくらいだから。
 「ブギウギ」は日本の戦前から戦時、戦後を貫く激動と苦難の昭和史が舞台になってる。全編を通して見ているわけでなく、劇の断片を繋いで理解している程度だが、東京ブギウギで戦後の大スターになった笠置シズ子をモデルにしたドラマで、昭和のど真ん中を生き、生と死のはざまを彷徨った厳しい戦争体験を持った親たちに育てられた私らの世代にとって、二度と体験はしたくないが、それでも懐かしさが一杯になるドラマなのだ。
 笠置シズ子が歌った「ブギウギ」は、敗戦の廃墟の中で、貧窮にあえぎながら立ち上がった日本人大衆にとって、大いなる勇気と救いのエールを送ったことは間違いない。
 流行歌にはそういう大衆のエネルギーを動員する力がある。アメリカの超人気歌手テイラー・スウィフトの動向が大統領選挙に影響を与えると、トランプ候補が大いに気にかけているのを見ればわかる。

朝ドラで注目される“ブルースの女王”淡谷のり子の貴重な音源がCD&デジタルで蘇る (msn.com)

「ブギウギ」人気が呼んだ、ライバル「淡谷のり子」の再評価



 NHKドラマ「ブギウギ」のモデル・笠置シズ子のライバルとして登場する菊池凛子扮する淡谷のり子(仮名で登場)が出てくる。
 このドラマでは、当初、笠置と淡谷は反目し合うが、やがて年上の淡谷が笠木を理解するようになり、良好な関係を築いたという設定だ。しかし実際をよく知る人は、二人は良好な関係ではなく、淡谷は笠置を受け入れていないと指摘している。
 NHKドラマは笠置シズ子をモデルにしているが、上記の相関図にあるように、登場人物名は仮名になっている。現実とドラマは異なるので、フィクションとして描かれたドラマだ。
 笠置と淡谷の音楽観や育った環境はずいぶん異なる。青森出身の淡谷は東京の音楽学校で生真面目にクラシックを学ぶうち、学費に困ってモデル等のアルバイトをするうちに大衆音楽の世界に入って行った。しかし関西出身の笠置は最初から関西の大衆音楽とショービジネスの世界で活動しており、大阪的センスの持ち主だった。
 若かった二人の女性歌手の共通点は、戦前から音楽活動を行っており、軍国主義日本が「戦争」へと突入してゆく時代背景のプロセスを、普通の音楽が「戦時音楽」へと急変してゆく姿を通じて見ていた点だ。
 音楽とは弱いもので、戦争という時代の流れに抗うことはできないことを二人の芸能人はよく分かっていた。
 だから、戦時中は兵隊への慰問音楽公演をやり、軍歌の一つも歌はざるを得なかただろう。淡谷にはこんな話がある。16歳の少年特攻隊兵が出陣する前の慰問に出かけたことがあり、公演の途中で三人の少年兵が立ち上がり、「これから特攻出陣します」と敬礼して、笑顔で去って行ったときの体験談を語っている。
「私は歌の公演で感極まって泣くことはないが、そのときばかりは号泣した」と。その少年兵の面影は一生、心から離れなかったという。淡谷にとって、それは本当に「辛い別れ」だった。

 淡谷のり子は1907年生まれ。大正時代の大正デモクラシー期に青春時代を過ごしている。写真で見ると若いころの淡路は妖艶な美貌の持ち主で、明治のしかつめらしい維新藩閥政治が終わり、日本の憲政政治の神様といわれた政党人尾崎幸雄が指導した日本初の民主主義政党政治と憲政政治確立しつつある時期だった。戦前日本では最も素晴らしかった文化の時代だった。
 そんな自由な雰囲気の中で、大正文化は花開き、学生に人気のあった旧制高校の先生は「自由こそ最も素晴らしい」と教えていた。大正ルネッサンス時代ともいわれ、文藝活動がさかんになり、ドイツでゲーテが活躍してワイマール時代にも準えられた。
 竹下夢二の絵画が流行し、若き日の淡谷のり子は夢二の画のモデルにも起用されたといわれる。
 淡谷が謳歌した青春時代は大正デモクラシーと共にあった。
 しかし軍国主義へと急傾斜した日本で、政党政治やデモクラシーは弱体化し、尾崎幸雄は孤立し、大正デモクラシーの文化は消滅した。それは「ほんの一瞬の光芒」であったかのように、大正の夢は軍靴の音と共に終焉した。

 淡谷のり子が「ブルースの女王」と言われるようになった「別れのブルース」は昭和12年に発表されている。以降、淡谷の「別れをイメージさせる一連のブルースが相次いで発表されている。
 大ヒット曲といわれた「別れのブルース」は、港の別れを謳い、もう「二度度会えない人」との別れのブルースを踊る切なさを歌う。「雨のブルース」は、「心の青空を失った悲しみ」に雨の夜を彷徨う歌だ。
フランスのシャンソンをアレンジした「小雨降る径」は「小雨降る並痛む心が癒えることなく歩く」という歌。
 雨降る道や暗く寂しい夜道を一人で歩き、彷徨うというイメージの歌ばかりだ。そんな暗い歌が流行った昭和12年とは、太平洋戦争開戦、日本の真珠湾奇襲攻撃の4年前のことだ。
 さらに、昭和12年といえば、  軍部青年将校の反乱5.15事件で犬飼首相が暗殺された後、再び青年将校の反乱2.26事件が起こった。さらに 盧溝橋事件によって、日中戦争は拡大の一途、太平洋戦争へと至る重苦しい戦争前夜の時代だった。
 
 この時期に、淡谷のり子が好んで歌った一連の「ブルース」は、大正デモクラシーから一挙に、軍国主義へ突入し、自由な希望と文明開化への目を摘まれた大衆音楽界の人たち、淡谷のり子や周辺の人々による精一杯の抵抗だったのではないか。
「青い空」を奪われたアーティストたちのレジスタンスの歌だったのだ。そこからが日本の「ブルース」が生まれたのだろう。 
 淡谷のり子は大正の時代の「青空」と別れたくない、あの時代への懐かしさと思いを謳い続けた稀有な歌手だったと思う。

  近年、世界情勢の緊迫の影響で、日本の中には「新しい戦前論」が横行している。
  時代の雰囲気が「昭和戦前」に似てきたという。日本は「新しい戦前」を迎えたというのだ。
 NHKドラマ「ブギウギ」人気とも無関係ではないだろう。
  しかし、あの戦前戦後時代の苦しさには、決して再び向き合いたくはない。
「別れのブルース」は、あの時代の苦悩が生んだ「珠玉の懐メロ」として記憶するに止めておきたい。




 
 
 
 

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