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アフリカ・ルポの物語               「キリマンジャロの豹」・断章


 冒頭の写真は、新聞記者時代の私が初めて書いたノンフィクション『キリマンジャロの豹が目覚める』の口絵写真です。イラストはアフリカ大陸を駆けるシマウマのイメージを写真家・内藤忠行さんに描いていただいたものです。
 この本はアフリカ取材のあと、新聞には書ききれなかったアフリカルポの内面の物語を、1986年に本にしてまとめたものです。本はもう絶版になっていますが、絶版のまま埋もれるのは忍びなく、本の文章の一部をピックアップした「アフリカ・ルポの物語」として「断章」を、紹介することにしました。
 今でこそ近代化して発展を遂げているアフリカ大陸ですが、私が訪ねた1980年代のアフリカはまだ貧しく、欧米植民地からの独立戦争や内戦が頻発し、政治は不安定で、文明社会から取り残された異文化大陸という認識が強かったと思います。「サバンナを裸族が槍を持って走り回っている非文明地帯」「暗黒大陸」という間違ったアフリカ認識が日本には根強くありました。しかしアフリカを取材すればするほど多様性と土着の多文化が混在し、部族別に分類すると約800ほどの言語が存在し、隣接する部族間の言語でも日本語と朝鮮語の違いよりも大きな違いがあるということです。
 アフリカの民衆は、西欧文明諸国による植民地化と搾取に苦しみながら、自前の文明を立ち上げようとする「独立魂」と「生命のエネルギー」に満ちていることに強く惹かれ、その実像を描きたいと思ったのです。

 そこで、断片ではありますが、以下に一部を紹介します。
 写真家・内藤忠行さんの写真が、アフリカ美学の根源のイメージを捉えた作品を提供して頂いたので、その写真の一部も適宜、紹介します。

 実は、私のアフリカとの出会いは、アーネスト・ヘミングウェイの文学作品からはじまりました。
 今、この本を読み返すと、若い時代にありがちな生硬な観念論と情念の衝突を思わせる描写が多々認められますが、荒削な文章の中に、人間として生きる苦渋や存在の苦悩を思わせる生の感覚がみなぎっているように思います。気恥ずかしい気負いもありますが、あえて削除、修正することなく、そのまま紹介します。まるで自分の生意気な息子が書いた本を読むような心境でもあります。

『キリマンジャロの豹が目覚める』表紙




第1章 「ヘミングウェイ」のアフリカを求めて

 
 生命が凝縮された極限を生きる。 文豪アーネスト・ヘミングウェイが魅せられたアフリカはこれだった。
 キリマンジャロの豹のイメージは、このアフリカから発せられたのだ。『キリマンジャロの雪』の二人の主人公の運命に先んじて、到達しがたいものへと挑んで死んだ豹。その熱帯の高山の雪の中に凍結されている豹は、アフリカの生命力とエステティクスのシンボルなのだ。 しなやかな肢体、光る眼、美しいまだらの色あざやかな皮膚・・・。      この無垢の豹は、キリマンジャロの雪の中で、世界に蘇り飛翔する日をじっと待ちつづけてきた。
 ぼくは、アフリカン・エステティクスを求め、これがもつ人類に対する意味を発見したいと思った。
 それは、衰弱死しつつある現代文明の態様にかわる、21世紀への新たな予感に満ちていたからだ。

太陽とサバンナ、動物に囲まれた 
凌辱の大陸

 ヘミングウェイは、「いま、ぼくのしたいことは、アフリカへ帰ることだ」といって、アフリカの旅人になった。
 アフリカの広大な自然が、乾いたアルピニズムと似た感覚で、世界の冒険家たちの心をとらえたのは、ヘミングウェイの功績だ。そこには、かつての植民地主義の暗いイメージから切り離された自然、明るい 太陽が煌めき、平原を駆ける美しい野生動物たちが奏でる軽快なリズム、躍動感、フットワークがあった。それが、サファリのアフリカである。
 しかし、サファリの元祖ヘミングウェイは、アフリカでただ単に猟ばかりしていたわけではない。
 彼は、アフリカン・エステティクスを追求していた。 アフリカの美学の中に生きる理由の発見に、賭けていた。野蛮とか未開ではない、まるごとのアフリカに全身でかかわった。
 なぜ、 そうしたか。 未来に息苦しいものを感じ、この世界で、自分はもう生きられないと感じていたから。
『キリマンジャロの雪』のモチーフは、ヘミングウェイのアフリカン・エステティクスを見事に表現している。 それは何かというと、「雪に覆われたキリマンジャロの峰に、豹の死体が横たわっている。こんなに高いところに、豹は何を求めてやってきたか」という作品冒頭の文章に示されている。難解だが、その文章を解読してみよう。
 だいたい赤道下のアフリカにとっての雪のイメージは極小だ。 雪はキリマンジャロの高峰にわずかに存在しているのみだ。アフリカにあってキリマンジャロは遠い。その雪の頂は、さらに遠い。その異質なものに向かい、命を落とした豹の姿に、自分の運命を重ねていたのかもしれない。    

  その豹のイメージにロマンチシズムがもしあるとすれば、 キリマンジャロの雪という物語の中にではなく、雪に凍結されて若さを保ったまま残存している豹の死体の側にあるだろう。
 ヘミングウェイは、アフリカで狩猟をいっぱいしたかもしれないが、彼の本は、極小の可能性に賭ける行為の瞬間にあった。少なくとも自分が、キリマンジャロの豹になることはできなくとも、その姿を見届けるために、キリマンジャロの山へ、危険を賭けて登らなければならない。
 行為の瞬間に生き、燃えつくす。 これがニヒリズムの罠に陥ることなく人間が生きる条件だ。豹の死体のような清潔を保つには、これしかない。
 キリマンジャロの豹を求める旅を本気でやろうとしたヘミングウェイの動機は何だったのか。そのアフリカの可能性の中に彼が見ていたものを想っているうちに、ぼくはスペインへとゆきつかざるをえない。
 これは迂回ではない。ヘミングウェイにとってスペインとはなんだったかを知ることは、いま同じように西欧文明のゆきづまりを感じているぼくたちが、アフリカを想うための重要な手がかりになるはずなのだ。

バルセロナの絹の雨


「熱いアフリカから切り取られた断片、利口なヨーロッパにへたくそにハンダづけされた断片、河に刻まれた高原、ここでぼくらの思考は肉体を持つ」W・H・オーデン「スペイン」(橋口稔訳)
 アフリカを映す鏡が西欧であるならば、スペインは、その西欧の最先端にあって、アフリカを至近距離から映し出している。鏡の中に、実像すらまぎれこむほどに、近接した危険な位置だ。
 だからこそ、スペインの乾燥した大地にはアフリカの血とアフリカのエステティクスがたぎっている。西欧文化様式を作って花開く以前の、エネルギーの過剰な混沌は、スペイン大地の中に溶解しているのだ。
  フラメンコの踊りのルーツは、アフリカ・ギニアの海岸付近に起源をもつカリンダという黒人の舞踏だが、これは、白人宣教師が最も忌み嫌って禁止したものだった。女が腰を振るわせる動作が、 猥褻に見えたのだ。なのに、なぜこのカリンダがわざわざカトリシズムの国スペインへ流れ込み、フラメンコとなって今日に残ったのか。
 さらにまた、ピカソ、ゴヤ、ダリ、ガウディのスペイン美学は、西欧的な科学や方程式、ロジックを拒絶している。 非合理な線、シュールレアリスム、アナロジーの美学は、内面凝集力の束であるアフリカン・エステティクスのお家芸なのである。
 スペインにいると、アフリカとヨーロッパの双方をひとつの平面の中にとらえることができる。
 特に、地中海沿岸のバルセロナはそうだ。

 秋。地中海は、靄に煙っていた。ぼくは、マドリードには目もくれず、ダイレクトにバルセロナを目指した。 フランコ独裁政権の崩壊直前のことだ。
 海は紺碧色ではなかった。このむこうに熱砂のアフリカ大陸が存在することなど、信じられないような、細い絹の雨がバルセロナを濡らしていた。
 アフリカを思うよりも、ショパンとジョルジュ・サンドが恋の逃避行をしたマジョルカ島のことを思った。マジョルカ島は、バルセロナ沖の海のバレアレス諸島の一角にある。 ショパンは、この島で病いをさらに悪化させたのだ。 マジョルカ島は、かつての北アフリカの雇い兵の補給地だった。このいっそうアフリカ的な島嶼群にあって、ショパンのあまりに抒情的なピアノ音階は、その病みはてた心とともに砕け散ったことだろう。
 マジョルカ島では、すでに一四世紀ごろ、アフリカの地図が白人向けに作られていた。 皮紙にカラー着色され、サハラのオアシスや西アフリカのマリ、トンブクトゥなどの黄金の都市が書かれていた。アフリカの金を求めてラクダに乗った白人商人の姿も、イラストになっている。当時スペインは、すでにアフリカの金を求めるヨーロッパの前線基地なのであった。
 陽気な地中海の国、情熱と解放、フラメンコのイメージをもって、ぼくはスペインを訪ねた。しかし、それは違った。世界中の悲しみを背負ったかのように、ファシストの海は沈黙していた。

「もう二週間も、こうして待っているのよ」と、海のむこうを見つめながら、バルバラがいった。船員の夫は、アフリカの赤道ギニアに出かけている。 石油を運ぶタンカーに乗っており、アフリカからヨーロッパ向けに帰ってくるタンカーは、バルセロナ港に入港する。 彼女は、その夫をむかえに、ドイツからやってきた。「地中海は嵐なんですって。 それで船が孤立しているらしい。船会社のエージェントが教えてくれたの」
 バルバラは、ブルーのちょっと翳った美しい瞳をこちらに向けながら、
「あなたは日本からなにしに来たの」
「ここに来るとアフリカの山の頂の雪が見えるかと思って」
「で、アフリカは見えた!」
「まだ」というと、バルバラはおかしそうに笑った。
「アフリカは見えないわ。そのうえ雪だなんて。 もしあなたが希望するなら、夫に頼んでアフリカ行きのタンカーに乗っけてもらってあげましょうか」
「そんなことできるのかい」
「できるわ。私も今度はアフリカに行くつもりで六ヶ月の休暇を取った。途中、マジョルカやフォーメンテラにも寄るの」
「君にとって、アフリカは何?」
「必要なところ。夫の職があるし、第一、私の好きな金やダイヤモンドがあるわ」
 しなやかでぜいたくに生きるヨーロッパ的ブルジョアの化粧道具として、
バルバラのこんなアフリカ観は、ヨーロッパのそれを代表する。 太陽と貴金属の輝くヨーロッパの裏庭。しなやかで贅沢に生きるヨーロッパ的なブルジョワの化粧道具として、アフリカはいまも存在し続けている。
 「ぼくはスペイン市民戦争の跡が見たい」というと、バルパラはちょっとびっくりした表情をした。
「美術館やカテドラルやガウディやピカソがいっぱいというのに、なぜ?」
「うん、すぐには説明しにくい」
「でも、説明してくれなきゃわからないわ」
日本も、そして君の国もヒトラーの時代を経験しただろう」
 バルバラは、うなずいた。
「そういうファシズムの問題のオリジンがスペイン市民戦争の中にあると思うんだ」
「よくわからない。 でも、たぶん重要な問題ね」
 バルバラは、巨大なカテドラル裏にある小さな広場の一角に残されていた、市民戦争時代の銃弾跡の場所へ案内してくれた。壁には無数の銃弾跡が刻まれていた。 子供たちが、その跡をなぞって遊んでいた。思わず映画「禁じられた遊び」を思い出した。
 ヒトラーと結んだファシスト軍団と共和派連合軍の激しい戦闘の跡だ。またその銃弾跡は、アルジェリアの貧民窟カスバを訪ねたときに見た銃弾跡を思い出させた。1960年代のアルジェリア独立戦争時代、フランス軍と解放戦線が戦った無数の銃撃や爆弾跡が、カスバの狭い路地裏のいたるところに残っていた。
「君は、アルジェには行ったことがあるかい」
「この壁の隙を見ていて、アルジュのカスバを思い出したんだ。 アルジェリア独立戦争の」
「あれはフランスの内戦のように受けとめられていたわ」
「いや、ヨーロッパとアフリカの戦いだったんだ」
「大戦後の現代になって、ヨーロッパがなぜアフリカと戦う必要があるの? 植民地主義は絶対の悪よ。それに戦いはヨーロッパの中にあるというのに」 
「ヨーロッパの中に?」
「そうよ、ベルリンの壁をご存じでしょう。あれは、ヨーロッパの戦いの証明よ」
 いいながらが、バルバラはバルセロナの市街戦跡を見つめた。
彼女は何回もアフリカへ行ったかもしれないけれど、彼女の視野の中に、まだアフリカは入っていない。
 しかし、こういうアフリカ観は現代ヨーロッパには普通なものである。
  それほどに、ヨーロッパというところは、いまもなお自己中心的重力のただ中あり、自身を相対化することをためらっている。バルバラのブルーの瞳は、たしかに美しい。 白い肌の輝きもまだ失ってはいない。 だけど、そのきれいな肉体が宝石のようには永続性がなく、やがて朽ちたとき、彼女には何が残るのだろうか。ドラキュラのように、他者の若い血が必要になるときが、やがてまたくるのではないか。

「二〇世紀」への絶望の戦争


 「人間の尊厳」という言葉が、西欧ヒューマニズムの生んだ最良のものであるとすれば、それは、スペイン、とりわけスペイン市民戦争(1936年-39年〉の中で発揮された。人間の尊厳、つまりは「欧米型民主主義の擁護」という大義のために、反ファシズム、反フランコの人民戦線は、国際的な広がりを見せたのである。
 スペイン市民戦争とは、スペイン総選挙で人民戦線派が勝利し、左翼連合内閣が成立したあと、フランコ将軍のひきいるファシスト軍が反乱を起こしたことに端を発する。 フランコ反乱に対し、労働者や農民は共和国政府擁護の為に武装して戦った。
 これに呼応して、国際的にも反ファシズム世論が巻き起こり、共和政府に対する圧倒的な国際世論の支持が英米仏諸国を中心に寄せられた。ヘミングウェイ、アンドレ・マルロー、ジョージ・オーウェル、ピカソといった今世紀を代表する作家・芸術家たちが、この戦闘に国際義勇軍として参戦したりしてファシスト軍と闘った。 1985年に ノーベル文学賞を受けた東アフリカ圏マダガスカル島生まれの作家クロード・シモンも、この戦争に参加体験をもつ数い生き残りである。
 当時、スペインのヴァレンシアで開かれた第二回国際作家会議には、黒人詩人ラングストン・ヒューズやキューバのニコラス・ギリェン、メキシコのオクタビオ・バスなどがいた。
 いまでいう「第三世界」が、スペイン市民戦争のプロセスの中で形成されつつあったのだ。
 しかし、ぼくが思うには、この内戦には、今世紀の人間の希望と挫折の総量が書き込まれている。
 そしてまた、同時に西欧ヒューマニズムのお題目、「人間の尊厳」なる言葉の墓場でもあった。
 ぼくが、 なぜこのスペイン市民戦争にこだわるのかというと、20世紀の最大の成果といれていた社会主義 への希望がすでにこの時点で崩壊しており、西欧文明も存在理由を失っていたと思うからだ。西欧文明は自らの手で、輝く未来をもつはずの初々しい赤子を扼殺してしまっていたのだ。
 ぼくたちの周辺でも、スケールは小さいけれど似たようなことがあった。だから、このスペインの歴史体験は自分の体験からも押さえることができる。  ぼくたちは、6〇年代の学生運動の中に発生したイデオロギー主導型の暴力主義と相次ぐ内ゲバ事件の中に、また前衛政党の全共闘つぶしの中に、社会主義神話の日本的崩壊の様子をつぶさに見ることができたはずだ。
 スペイン戦争以後の西欧の歴史は、ぼくにいわせれば情性にすぎない。
  ヒトラーやムソリーニに支持されたフランコの軍事力は強大で、最後には自由主義国のフランス、イギリス、アメリカは、スペイン共和国と人民を見捨てた。
 人民共和派の内部にも内ゲバやリンチがあった。モスクワのお墨付きのスターリニスト共産党と、モスクワがトロッキストとして排除したノンセクト・ラジカルズとの抗争である。共産党は、ファシストとの戦闘を中止してまでも、トロっキストへの弾圧を行なった。
 このおかげで、スペインのフランコ将軍の権力はなんと1975年まで続いたのである。人民戦線の戦闘に外人部隊として加わったジョージ・オーウェルはこの事態に憤慨し、ヘミングウェイやアンドレ・マルローが、西欧コミュニズムへの疑念を確固たるものにした体験は、ここにあった。
 絶望したマルローは、たとえ腐敗した資本主義であっても、まだ人間の自由と尊厳を守りうるチャンスはあると考えて、フランスのヒューマニズムの再生という枠組へ逃亡し、ピカソは黒人芸術に活路を求めた。
 そして、先に書いたように、ヘミングウェイは、「いま、ぼくのしたいことは、アフリへ帰ることだ」といって、いきなりアフリカの旅人になった。

大作『誰が為に鐘は鳴る』のモチーフ


『誰が為に鐘は鳴る』のモチーフは、ジョン・ダンの次のような詩の一節に託されている。
「誰が死のうと、人が死ぬのは、自分が死ぬのと同じだ。ぼくも人類の一部なのだから」。。

 主人公のアメリカ青年ロバートは、義勇兵としてスペイン共和国軍に参加する。鉄橋爆破の密命を与えられて、ゲリラに加わる。そこで、マリアという娘と出会い、恋に陥る。マリアの両親はファシスト軍に殺害された。
 物語はここからスタートする。
ロバートは、アメリカでのいい仕事を捨てて戦場へやってきた。その目的は人間の希望のためだ。その希望の実体を、戦いの中に見出そうとする。だけど、彼がスペインの戦場で見つけたものは、永続性のある希望ではなく、ただの恋であった。戦場にはそれしかなかった。
 ロバートは戦場でいろんなものを見てしまった。共和国軍の指揮の乱れと混乱、味方に充満する厭戦の雰囲気、裏切り、処刑とリンチ、、。暴力は敵の専売特許ではなかったのだ。
 彼にとって、西欧や進歩やマルクス主義やヒューマニズムといったお題目は、もうどうでもよかった。現に、戦争、それもいたく不毛な内戦で人間が死んでいくことが問題だった。

 これがため、『誰が為に鐘は鳴る』は当時の左翼から激しい攻撃を受けた。物語はたった三日間のドラマに凝縮されてしまっている。 恋といっても、瞬時の火花がスパークするだけだ。恋人を救おうとして、 ロバートは戦死するが、死にのぞんだ彼は、自分の死体を明日の希望の中へと投げだそうとする。
  敵の銃口に身をさらしながら、彼の心臓は、希望の鐘の音のように高まるのだった。そこには、ごく個人的な人生の、純粋で美しい幕切れがあった。
 いまの時代にはありえないような物語だが、半世紀前にはまだ存在していた。ヘミングウェイは失敗を恐れていなかったのだ。
 この小説のマリアは美しい。 ファシスト軍につかまり、髪を短く刈られて暴行された過去を、泣き泣き告白したあと、太陽の熱い光を浴びてヒースの草原を駆ける。褐色の肌が輝く。その顔に笑顔が戻ると、さっきの話は作り話ではなかったかと思うほどに生命力が蘇るのだ。このスペイン娘の内面に、ぼくはヘミングウェイが求めたアフリカを見つける。いかなる
不幸をもすぐさま忘却のへとたたきこみ、その不幸を超えてしまう。それがアフリカ大陸だ。
「もしおれの人生が、七〇年を売って、七〇時間のそれを買うというのでも惜しくはない。これを知ったことは、実に幸福だった」「誰が為に鐘は鳴る」 大久保康雄訳)
 希望や正義や愛の感情に裏切られることなく、瞬時の中にすべての生を、凍結させる。 その永遠に至る方法を、あのキリマンジャロの豹は、知っているに違いない、とヘミングウェイは考えた。
「美しい空や自然ならほかのところにもあるが、ぼくはアフリカでないとダメなのだ」と、語っているのだ。

「アフリカでないとダメなのだ」 ヘミングウェイ


 なぜアフリカなのか。その、アフリカを舞台にした小説には、アフリカの匂いがたちこめている。 猛獣 大地、森、 サバンナ、夜の深い闇、そういうものが奏でる生命のオーラ(気)が迫ってくる。
 彼が「アフリカでないとダメなのだ」といった理由は、わかる。 本来の野生の意味、生命力が放つエステティクスの宇宙を知ること。 それは、人工を排した世界の無垢な姿を知ることでもある。
 アフリカに行けば、ぼくたちがハイテクと呼んでいるもののほかはなんでもある。もちろん、ハイテクもすこしはある。だけど、おおかたは、ぼくたちがいまだかつて見たことも聞いたこともないものだ。そこにはもちろん、飢えもある。

 アフリカのヘミングウェイは、太陽とサバンナと動物たちに囲まれて、きっと幸福だったに違いない。昼間は、猛獣や鳥、草木と話し、夜は、キャンプの深い闇に吸い込まれるようにして、眠りにおちていったのだろう。女も酒もそんなに必要ではなくなった。 朝目覚めるときは爽快だった。
 小説『キリマンジャロの雪』の主人公は、酒と女に明け暮れる自堕落なパリの生活を捨て、金持ちの女と、アフリカにやってくる。ヨーロッパの生活で、魂にまでへばりついた、ぶよぶよの脂肪をそぎ落とすためだ。
 しかし、彼は狩猟の際の傷口から、壊疽という病気にかかり、キャンプで死ぬ。死の前、救援の飛行機の中から、キリマンジャロの頂上の白い雪を見る。その雪の中に一匹の豹が眠っている。 その瞬間、彼は、それが自分の探し求めていたものだと感じる。
 もうひとつのアフリカを描いた短編は、もっと単純だ。
『フランシス・マコーマーの短い幸福な一生』の主人公は、巨大な水牛と格闘中、かたわらから救援した妻の銃弾に頭を撃たれて死んでしまう。だけど、その死は、不幸でもなんでもなかった。なぜなら、彼が最後の瞬間をともにした水牛は、申し分のないほどに強く、美しかった。
 二人の主人公の死を悲しむべきものと感じるのは、死が見えにくい文明社会にいるぼくたちの側の思い入れにすぎないのだ、きっと。
 なぜなら、アフリカには死を悪と考える人間の通念はない。ユーザン・パルシー監督の映画「マルチニックの少年」にもあるように、素晴らしい死は、人生の至福であるし、そういう死を死ぬことができた人々は、いつでもたやすく霊界の住人となり、生者たちと交わることもできるというのだ。
 アフリカの死生観に関して、ごく単純化していうならば、そこには、生と死のすさまじい葛藤、あるいは格闘がある。
 熱い太陽、猛獣たち、おびただしい種類と数の生物群、焼けただれる大地、乾燥して風に吹き飛ばされるサヘルの土、泥水をたたえた大河、ブッシュ、ジャングル。そうした圧倒的自然は、人間を特別視する根拠をまったく与えない。万物の営みと流転は、人間の営みと、同じレベルの世界だ。
 生命は、容易に無機質へと解体する。腐敗のスピードはものすごいのだ。  有機体は、エーテルのように、またたくまに宇宙へと揮発してゆく。
 アフリカにあって生きるということは、例えば、複雑な心理という不純物をさっぱりと除去したところから、スタートすべきだと考えることもある。  死に向かうスピードに直面しつつ、それに抗するのは一種の身体感覚だが、そこに生きる醍醐味とは、たぶんギリギリのスピードと死の感覚を見つめるカーレーサーにも似た気分だろう。

 生命が凝縮された極限を生きる。 ヘミングウェイが魅せられたアフリカはこれだった。
 キリマンジャロの豹のイメージは、このアフリカから発せられたのだと思う。 二人の主人公の運命に先んじて、到達しがたいものへと挑んで死んだ豹。 その熱帯の高山の雪の中に凍結されている、アフリカの生命力とニステティクスのシンボルなのだ。しなやかな肢体、光る眼、美しいまだらの色あざやかな皮膚······ この無垢の豹は、キリマンジャロの頂きの雪の中で、世界に蘇り飛翔する日をじっと待ちつづけてきた。
 ぼくは、アフリカン・エステティクスを求め、 これがもつ人類に対する意味を発見したいのだ。

次回第2章 「凌辱と大陸ーー奴隷貿易の拠点、ゴレ島ルポ」へと続く。






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