第二部 大震災、世界最大の原発事故の 同時発生 (2)


『報道ウオッチ3.11』(緊急リリース版 第二部原発事故の同時発生その2)

 

 
 
 

ツイッターが告げた危機


 
 首相や官房長官や東電や経産省や文科省やマスコミが、メルトダウン情報を隠していたとしても、3.11の深夜にはツイッターでメルトダウウンの危機を指摘する情報はしきりに流れていた。原子力の素人だけでなく、相当な専門家や内部に詳しい人たちが実名、匿名でツイッターのTLにリアルな情報を流していた。
 3.11以降、ツイッター人口は昨年の約800万人から一挙に1700万人に増えたといわれるので、日本国民の相当数がNHKテレビとツイッター情報を注視していたと考えられる。
 
 独裁者の手で大人しく支配されていたリビア民衆の反カダフィ暴動は、食糧難や飢餓の恐怖から起こったといわれる。人間も生命の危険を感じると行動するのは動物的本能であろう。
 食糧難や飢餓はなくても、放射能の飛散は健康被害を起こすし、場合によっては生命にかかわる。
 生命の危険を感じたという点では、日本国民とリビア国民は同じ危機を共有したのだ。これは大げさでも何でもない、普通の人間の感覚である。
 
 ある女子大生が東電公開の原子炉のモニターをネットで見ていて、関連データを分析し、「これは危ない、冷却ができていない、水蒸気爆発の危険もある、大量の放射能が飛散する前に福島原発の近郊の人はすぐに遠くへ逃げろ!」とツイートしていた。出来るだけ遠くへ逃げろ、と。
 原子力事故は手の打ちようがないから、放射線を浴びないように遠くへ逃げるしかないのだ。
 こうしたツイートに対してはすぐに非難が巻き起こり、「デマに惑わされるな」と糾弾するツイートも多く流れたが、もししそれが本当だったらどうしよう、と思った人は多く、命にかかわる緊急事態に遭遇した民衆は「デマであることを願いながらも、サバイバルの道を考える」ものだ。
 こういうときの人間の生命維持心理は複雑な動きを見せる。
 

「安全神話の御用学者」を定義する


 しかしそれは必ずしもデマではなかった。いまになって思うのだが、理系大学生の科学的分析能力があれば、自力で集めた情報からメルトダウンを指摘できるのだ。
 
 あるいは、専門家たちがイデオロギー化した「原発安全神話」に縛られて、専門家自身がマインドコントロールされていたのだろうか。
 またはもともと安全ではないことは知りながら、どうせ大衆はアホだから、マスコミや三流学者を使えばすぐに国民は騙せると原子力村の住人は考えて、無理な安全神話を日本国民に流布させていたのだろうか。
 
 菅前総理の時事通信のインタビューで最も重要な点は、安全神話に関する以下のような発言である。
「想定すべきことを考えてこなかったことは否定できない。危険性への対策をするのではなく、危険という議論をいかに抑え込むかをやってきた。安全神話は『生まれた』のではなく『つくられた』」。(2011/09/17-19:43 時事ドットコム)
 
 彼らに学問的な良心のカケラもなかったのなら論外だが、何らかのバイアスによってメルトダウンを想定できなかった思考回路の欠陥が存在しているといえる。
 その思考回路の欠陥こそが、「メルトダウンなどあり得ない」と思う安全神話のバリアだったのではないか。素人でも容易に想像できることを、専門家は想像できない。既成概念や既得権益に縛られ、想像力が欠如した専門家が素人や学生の考えを非学問的、と否定する。一群のそういう人々のことを「専門バカ」と呼ぶのだろう。
 専門家は非合理的な観念の産物にすぎない安全神話によって、思考回路が破壊されてしまっているのだ。そういう学者のことを「御用学者」と定義できる。
 御用学者は東電のお抱えとしてテレビ出演や原稿執筆などを繰り返し、政府の潤沢な研究費と大学のポストを提供され、メディア界の御用コメンテーターや御用評論家は500万円もの原稿料を取っていたともいわれる。
 黙々と仕事に励んでみても、「じっと手を見る」しかない石川啄木のようなジャーナリストから見れば、羨ましい存在ではあるが、いくら金が入ってきても、嘘をついて騙して金を取るのは詐欺と同じだ。
 
 嘘をつけない学者やジャーナリストは、怪しい原発村の仕組みから距離を置くか、反原発の陣営に加わって原発の危険性を訴える市民活動に身を投じるしか方法はなくなる。
 ツイッターやネットのブログ、ニコニコ動画などで、随分多くの良心的学者やフリーのジャーナリストの言説に出会ったものだ。
 
小出裕章氏ら京大グループの原子力専門家たち
 その中でも際立ったのが、大阪・熊取にある京都大学原子炉実験所の小出裕章氏と同じ実験所の今中哲司氏ら熊取5人組といわれる原子力専門家たちである。
 間もなく定年を控えた小出氏は、ずっと助教という立場に甘んじて原発の危険を世論に訴え続けてきた学者だ。
 おそらく原子力村から排除され、大学ポストも与えられず、マスコミにも登場しなかった理由は、小出氏が反原発を唱え、原発安全神話の形成に異を唱える学者だったからだ。
 福島第一原発事故を契機に、多くの人々が小出氏という優れた学者を発見したが、彼が講演会で話し、書いた文章を読む機会の多くはツイッターを通じて生まれた。
 なぜならNHKや巨大新聞、テレビが小出氏を登場させることはほとんどなかったからだ。わずかに関西の毎日放送のラジオ番組で小出氏は危険メッセージを送り続けていた。
 小出氏がNHKや大新聞、テレビに登場するかしないかが、日本のマスコミの原子力村汚染度を見分ける上で重要なリトマス試験紙の役割を果たしていたのだ。
 
 地震学者で阪神淡路大震災を克明に記録した神戸大学名誉教授の石橋克彦氏の講演や文科省が子供の被曝線量の上限を1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに引き挙げたとき、抗議して委員を辞任した涙の記者会見、怒りの国会演説で有名になった児玉龍彦氏を見たのも、マスコミを通じたのではなく、ネットのYouTube動画だった。
  小出氏の著書『原発のウソ』を読んで、目から鱗が落ちたと感じた読者はくたくさんの小出ファンが現れた。私もその一人だ。
小出さんは原子力の隅々までを知り尽くした科学者だが、科学畑には珍しく社会的な背景をきちんと分析した議論を展開している。
 そういう社会的視点から原子力を観察する科学者は、原子力村住民にとっては最も危険かつ邪魔な存在だったのだろう。
 
 小出氏は科学技術への盲信がなく、疑う心を持ち続け、いち早く原発のリスクの大きさに気がついたパイオニアでもあった。大学内では助教という低い地位に甘んじながら、出世欲や野心に負けることなく、原子力の危険を訴え続けた小出氏を、時代が必要としたのである。
「原子力はメリットよりリスクの方がずっと大きいと気づいたときは、まだ日本には3基の原発しかなかった」と小出氏はいう。
それ以来、原発のリスクを訴え続けるうち、「あっという間に54基の原発が日本に出来てしまった」というのだ。
 
 小出氏は、同著書でこんな項目を論じていた。
 
「福島原発は進むも地獄、退くも地獄。
放射能は目に見えない。
安全な被曝はない。
原発の常識は非常識。
地震列島の日本に原発を建ててはならない。
核のゴミは誰にも管理できない。
火をつけることは出来るが、一度つけた火を消すことはできない。取り返しのつかない技術、それが原発」、
という内容がよく理解できた。
 
 比べて原発推進派の論理は、これだけの大事故を起こしながらなぜ安全なのか安全でないのか、論理的な脈絡の説明がないし、「事故が起ころうとも理屈の上では安全なのだ」と牽強付会な煙に巻く説得力に欠ける主張ばかりだった。普通人の常識から見れば、原子村学者の主張は常軌を逸していたとしか思えない。
 揚句の果に、「原発がなくなると電気が足らなくなる」とか、「経済が沈没して地獄を見る」とか、原発の安全性とは直結しない無関係な要素を持ち込んだ。
 今回の事故で地獄を見たのは国民の側である。普通の国民が原発に懐疑的になったのは、止むを得ない。
原子力村の大学教授たちが束になってかかっても、小出氏には太刀打ちできないかに見えた。推進派の論理はどう見ても破綻していたのだ。
 破綻の原因は自閉した原子力村の構造の中にあった。原発とは高度な科学技術の結集であり、理系の専門知識のない人間にはわからない、という上から目線の権威主義的思いこみが支配して、知識のない国民を原発から遠ざけていたのだ。
 

地震のないフランスの原発管理


 
 雲の上に暮らすエリート専門家たちが制御しながら原子力を動かしている。原子炉は何重もの安全装置で防護されているので、どんなヒューマンエラーや天変地異が起ころうと、絶対に爆発することはない。
原発とは神の業なのだ。この世で最も安全なものだから、「もしも大地震が起こったら原発へ逃げ込めば最も安全」と言った専門家もいる。そして国民は、そう信じ込まされてきた。
 原発大国のフランスには地震はない。「フランスの原発にとって唯一の敵は戦争やテロだが、フランス軍が厳重に原発を守っているので、安全は確保されている」と子供の教科書には書いてあるという。フランスは細心の注意を払って原発を動かしており、細部の事故はあったが、世界が注目したような大事故は起こっていない。
 
しかし地震津波に遭遇した福島第一原発は、電源を失い、点火した原子力の火を消すことができず、建屋の屋根は無残に吹っ飛んで崩壊し、燃料棒がメルトダウンして、環境の中に直接放たれた放射性物質は、大気、地中、海中へと流出し続けることになった。
 神の業だったはずの原発だが、事故を止めるはできない。一体、誰がこの責任を取るのか。
 
 たとえ冷却に成功して放射能漏れは収束したとしても、燃料棒を取り出してどこかへ密封しておかなければならない。しかしいまのところ、密封する場所もないし、もし場所が見付かったとしても何十年、何百年に渡って管理し閉じ込める不毛な作業を、繰り返さなければならない。
 
 フランスの実存主義作家アルベール・カミュが書いた『シジュホスの神話』のようだ。神の怒りに触れて罰を受けたシジュホスは、巨大な岩を山頂から麓へ転がして落とし、落ちた岩を再び山頂へと押し上げ、さらに麓へ転がす労働の繰り返しだ。
 この罰を永遠に繰り返せ、という神の命令のために。
原発事故というのは、罰の不毛性において、この神話に似ている。考えてみれば、原子力とは宇宙的な「神の領域」にある技なのだ。神の技欲しさにその火を盗んで罰せられたプロメティウス以上の罪を、現代の人類は引き受けてさせられていることになる。
 
 われわれはなぜ原発の危険とリスクに関する簡単な事実を理解できなかったのだろう。なぜわけのわからない詭弁を駆使した「安全神話」に騙されてきたのだろう。
 
 原発事故という日本の未曾有の危機であるからこそ、これまで安全神話やすやすと騙されてどっぷりとつかっていた国民大衆は目覚め、小出氏の本をベストセラーに押し上げていった。
 
 同年9月19日、東京・新宿の明治公園に約6万人の市民が全国各地から集まり、原発再稼働に反対する国民集会が開かれ、都内をデモ行進した。このデモはやがて官邸前に約15万人を集めるに至った。
 明確な意思表示をためらい、なかなか立ち上がれなかった大人しい日本国民は、差し迫った原発による命の危険を感じて立ち上がった。
国の豊かさの度合いは違うが、食糧と命の安全と民主主義を求め独裁者に向かって立ち上がった北アフリカのエジプト、チュニジア、リビアの民衆と同じ立場立ったのだ。
 
 

ツイッターが運んだ「紫陽花革命」の日本


 
 チュニジアの「ジャスミン革命」に対して、日本では「紫陽花(アジサイ)革命」といわれた。紫陽花の花が咲く2012年6月、官邸前デモは一気に盛り上がったからだ。
 紫陽花革命を全国各地に伝達したツールはツイッターやフェイスブックなどのSNSだった。
 デマと嘘、情報操作等の中に事実と珠玉が混淆する情報ではあるが、全国1700万人というツイッター人口の大きさを考えれば、これは日本最大の送受信可能なマスメディアということができるのだ。
 時間をかけて総合的に読んで判断すれば、原発の現状はやはり危険だな、東電や政府発表やマスコミは信用できない政府宣伝の大本営発表に堕している、という大まかな方向性の見当はつく。
 マスコミが世論調査をやって、原発再稼働賛成と反対意見が鬩ぎあっていると記事にしても、ツイッターを見る限り、脱原発、再稼働反対を主張する人が圧倒的に多いことに気付く。
 
自分本位に情報を吟味して原発事故の危険度を見極めることで、自分はどう行動すればよいか、その指針を自力で作ることができる。自分の考えを確立しないと、半信半疑のまま流されるだけ、真偽の判定が出来ない。これがツイターでもあった。
 
 日本は教育レベルが高い国だから、マスコミ報道を鵜呑みにせず、国民一人一人が情報を吟味して何が正しく、何が間違っており、情報操作はどう行われているかを分析、判断するベースを作るには、ツイッターやフェースブックを使いこなすことが一番良い方法だと思う。
 
 先にも書いたが、震災後飛躍的に日本のツイッター人口は増加し、大震災前の昨年秋に比べツイッター人口は二倍になったといわれる。
この数字を活字メディアの大新聞と比較すると、読売新聞1000万部、朝日新聞800万部に対して、ツイッター人口は読売と朝日の発行部数を合計したサイズの数字になる。
 一回のツイートでは120字しか書けないが、誰でも何回でも投稿できる双方向のメディアである。
 その意味ではもはやツイッターはニッチなニコミでは決してなく、使い方次第では巨大マスコミに匹敵する影響力を持っているのだ。
 

 


 
 「テレビと新聞の様子が余りにもおかしいので、震災後からツイッターをはじめました。幅広い情報がとれるので、ツィッターの良さを実感しています。 」
というようなコメントをしてツイッターを始めた人がたくさんいる。
 まずは「マスコミへの不信感から本当の事実を知りたい」という個人の思いが、ツイッターを始めた大きな動機になっているのだ。
 
 世の中でそれほど恵まれた立場にはないが、「中産階層」のサラリーマン、学生として真面目で真摯に自力で生きている大勢の人たち、国や大企業の恩恵もさほど受けず、マスコミにもあまり取り上げらない地味だが堅実な生活を送る人々がたくさんいる。これが日本のマジョリティだ。
 ツイッターに参加して、日本はまだ大丈夫、という思いを強くした。しかし残念ながら、これらの中産層の人々の満たされない思いが、日本の政治、経済や文化に正しく反映されてはいない。そこに日本の最大の問題点がある。そんな思いを深めた。
 経済界や政界、官界の上層部にはツイターを公然と嘲笑い、唾棄すべき不満分子たちのつぶやきを監視しようとする政治勢力があるが、恐らくそういう企みは早晩、頓挫するだろう。
 

時代が求める新しいメディア


 「新しい時代には新しいメディアが登場する」。新しい社会的に適応し生成する新しいメディアの誕生は歴史の真理である。グーテンベルクの印刷技術発明で、近代世界は「ニューズペーパー」を持った。
 新聞や出版が担った活字文明は、この世から文盲をなくし、欧米市民革命や産業革命を起こし、自由と民主主義の市民社会を作った。
 しかしラジオと電波の発展は、独裁国家とヒットラーを生み、民族主義戦争のツールと化し、テレビの発明が、不完全なサウンドバイト民主主義と言われる不完全な民主主義を広めたことも判明している。
 ツールとしてのメディアの発展には、良いことばかりではない。当然ながら便利さの裏面の負の要素を伴う。
 今後、ツイターやネット、ソーシャルメディアがどういう働きをするかは、これを使う人間の知能の動向にかかわっている。
 
 すべてが不確実に見える。まさに「不確実性の時代」だ。そんなとき、国民はどっちを信用するのだろうか。やはりNHKの9時のニュースがいったことが正しいと思うのか、ツイッターの120字のメッセージに真実を見るのか?
 報道された事実に関して、マスメディアよりツイターのメッセージの方が正しく見えることも度々あるだろう。
 かつて全国紙記者としてマスメディアの中に身を置き、それなりに身を粉にして事実報道への努力をしてきた人間として、このたびの大震災と原発事故報道の堕落ぶりを見ることはまことに不本意だ。
 
 今回、情報の乖離錯綜から浮かび上がったことは、東電だけでなく、関電、中電、東北電、九電、北電などに分割されている日本の電力会社は政府以上の力を持ち、政治を牛耳り、霞が関官僚を操り、経済界のドンになり、金力にあかせてマスコミと広告業界を買収し、学界に研究費をばら撒いて「原発安全神話」を作り、日本の影響力のある大組織を電力会社の配下に置いていたことだった。
 かつて「鉄は国家である」という時代があったが、いまは製鉄会社の力は衰え、金くい虫の原発を抱えた「電力会社こそ国家の中枢だった」ということに日本人はやっと気がついた。
 原発はコストがかからないという話は大嘘で、発電コストそのものは安いかもしれないが、それ以前に原発には数兆円という膨大な国家予算、つまり税金が注ぎ込まれている。しかも原発に注入される税金にたかる中央と地方の癒着した社会システムがある。
 原発を支持していれば政治家や官僚には「おいしい話」が転がり込んでくる。与党自民党には東電本体から、野党民主党には企業の労働組合や電気事業連合会等の組織から政治資金を得ることができる。
 政権交代しても原発に対するスタンスは、自民党も民主党も変わらないのはそのためだ。
 
 マスコミには広告費と称して膨大なカネが入ってくるので、新聞もテレビも原発批判は簡単にはできない。
 また日本一といわれた東電株は安定株で知られ、有産階級の娘さんが嫁ぐときに持参金代わりに親から譲りうけた東電株を持ってゆくことが多いといわれる。
 銀行や大企業も優良株の東電や電力会社株を持ちあっているだろうから、東電が今回の巨大な原子力事故による損害賠償で倒産するようなことがあれば、日本の大企業全体の一大事になる。
 
 マスコミが原発報道で腰が引け、批判的報道を控えた理由は政治的な圧力だけではなく、「東電(他の地域電力会社も含め)の潤沢な広告費」が目当てだったのである。
 
 なぜ東電にそんなに有り余る金があるかというと、電力は独占企業で競争がない。電気料金は自由に設定できる。
 また原発建設には国の税金が大規模に投入されるので、原子炉を一度作れば、ウラン等の燃料調達さえすれば、施設は半永久的に使え、以後の原料コストは石油を燃やす火力のようにはかからない。環境にも優しい。原発にかかる全コストを計算すれば、水力や火力より高いコストになるが、電力会社だけは儲かる仕組みになっている。
 電力の利益はどのように算出するかというと、総資産の比率によって決められ、東電が尾瀬の大湿原を始めとする高価な不動産を随所に所有しているのは、総資産を増やして電力の利益を増やすためだったこともわかった。
 

「福島を国際管理せよ」という国際世論


 マスコミはここ一番という大事な時に嘘をつく、という属性があるのだろうか。確かに、大新聞は戦時下の大本営発表という嘘のオンパレードで、国民を騙した苦い過去がある。その過去を乗り越えて戦後のジャーナリズムを先導してきたのが、大新聞だったはずだ。
 しかし事故発生時に奇麗ごとは通用しない。大新聞とテレビ局の報道がいかに間違っているか、福島原発事故をきっかけに露呈された問題は大きく、マスコミ不信が日本社会を覆うようになった。
 
 加熱した燃料棒冷却のために、崩れ落ちた建屋の上空から「自衛隊軍用機」が上空から水を撒き、「東京の消防決死隊」のメンバーが放水車を使って海水を撒いたが、そんなことで収まるはずはない。
戦時の特攻隊のような精神主義で、制御を失った放射性物質の放出が収まるわけはないのだ。
 
 フランスの元大統領補佐官のジャック・アタリ氏は、福島原発事故が収束できず大気中や海中に放射性物質を垂れ流している現状にいら立ち、「日本国が自力で収束できないなら、国際社会が代わって事故を収束させるべき。そのためには、たとえ日本の主権を侵害しても仕方がない」という主張を米国の有名ネット新聞が発行するフランス語版に掲げていた。(The Slate )
 事故直後には、状況視察のサルコジ仏大統領が来日している。
 
 これと同様のことを9月下旬にニューヨークで行われた国連総会で、潘基文事務総長は東京電力福島第1原発事故に触れ、「原発事故は国境を越える。地球規模の行動が必要だ」と述べた。日本が「想定外の地震津波」と釈明しようと、福島原発事故の危機が国際問題化したことは間違いないのだ。
 
 しかし同じ国連総会の場で、野田首相は「日本の原子力をさらに安全にして、今後も原発を推進し、世界に原発を輸出したい」との趣旨の釈明演説をして、世界の懸念とは真逆のことを述べた。泥の中のドジョウは、自分が住む泥の世界しか知らないのだろうか。
 
 フランスでは戦争やテロが原発の最大の脅威だが、今のところ、戦争やテロがない日本の原発の最大の脅威が地震・津波でなくて何だったのか。歴史的にも大地震と津波を経験してきた土地なのに、巨大地震と津波の危険を想定していなかったのか?
 フランスの子供むけの原発教本には、原発のリスクの最大のものは戦争と飛行機事故(ないしはテロ)と書いてある。要するに国と政府が「戦争とテロさえ防げば、フランスの原発は安全」という意味なのである。
 
 「非核三原則」の国是で核兵器を持たないと決めている日本は、兵器用のプルトニウムを必要とはしない。
 ウラン枯渇や核燃料枯渇の未来を見据えてという理由で、プルサーマルという合成核燃料を製造し、核燃料サイクル計画を動かして、高速増殖炉「もんじゅ」が、関西の水ガメの琵琶湖に近い日本海側の福井県にある。
 国際的にもずっと疑問視されてきたことだが、日本は陰で核武装するつもりで、ウラン燃料を貯めているのだろうか。先述した小出氏もそうした懸念を述べている。
 問題の「もんじゅ」はたびたび不測の事故を起こし、自殺者が出るなどして稼働が何度も止まってきた。地震帯が地下を通っているという「もんじゅ」が、福島第一原発並みの爆発事故を起こせば、関西どころか日本全体がアウトになるほどの超危険な存在なのである。
 さらに、免震棟やベント施設もない大飯原発は再稼働されてしまった。ここの地下にも活断層があると学者は指摘している。
 
 
 

チェルノブイリを笑った日本の安全神話


  1985年、チエルノブイリ原発事故が起こったとき、原発関係者は日本ではあり得ない事故、と笑っていた。ずさんなソ連の技術ならではの事故だったというわけだ。窮乏するソ連には原発を維持管理する金がないので、メイテナンスも不完全で事故は起こるべくして起こったと分析していた。
  日本はソ連からの食品や農産物輸入に厳しい制限を課して、汚染値の高いキャビア等は輸入禁止になったが、この事故から日本が学ぶ教訓はないと考えたのだ。従って日本の原発推進への影響はまったくなかったといえる。
 
 石油ショックの経験もあり、資源の乏しい日本では原発こそ新エネルギー救世主で、原発は原子力の平和利用という平和理念にも合致している、という理屈だ。
 ヒロシマ、ナガサキの被爆国日本は核兵器へのアレルギー反応が強いが、原子力の平和利用という名の原発事業には抵抗感が弱く、海外以上に、日本には原発安全神話を受け入れる土壌が作られてきた。

 
 原発に消極的だった原水禁などの被爆者団体も、官民マスコミが一体となった原子力平和利用キャンペーンに負け、原発推進に舵を切った。
  福島第一原発の事故の最大の要因は、「イデオロギー化した原発安全神話」によって、事故を想定出来ずにいたために起こったことがわかる。絶対に墜落しないと信じて作られた航空機が墜落したようなものだ。
 「科学技術への信仰」がミックスした不可思議な原発安全神話がまかり通っていたのである。

 以下は、メルケル前首相の脱原発政策により、2023年10月、福島第一原発事故の教訓から脱原発の道を歩み、2023年に脱原発を果たしたドイツ市民の喜びを伝えたNHK報道から。
 能登半島大地震を受けて、緊急リリースした『311報道ウオッチ』電子版は、震災直後の2011年に刊行したので、オリジナル版には含まれないが、この誌面を借りて掲載した。

参照 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230416/k10014039901000.html



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?