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アフリカ・ルポの物語

『キリマンジャロの豹』・断章


第2章 西アフリカ奴隷貿易の拠点「ゴレ島」

 ヘミングウェイは、とりあえず自然の中のハンターとしてアフリカの旅人となった。ところが、ぼくがアフリカで見たものは、アフリカの負った深い歴史の傷跡だった。ぼくは、ヘミングウェイのような自然ハンターではなく、とりあえず歴史のハンターとして、アフリカの旅人になった。
 アフリカは自分の足で立つことができなかった。そこには、アフリカ自身の責任には帰せられない歴史の重大な事情があった。
 なかでも、西欧の異文化は、古代から中世、近代をへて現代に至るまで、アフリカ大陸を蹂躙し続けてきた。その集積が、いまもアフリカの文化形態に深い影を落としている。そのようにして、沈黙するアフリカ文化は、外側から押しつけられたのだ。
 いったい、西欧はアフリカに対して何をしたのか。いま蛮行のサンプルとして、古代のカルタゴ、中世から近代西アフリカの奴隷貿易、現代アルジェリアが経験した植民地解放戦争の跡をたどってみた。
 あるところでは、蛮行の足跡は跡形もなく消え去っていたが、あるところでは、まだ生々しく傷口を開けていた。
 このアフリカの傷口から、ぼくたちはさらに意外なことを知ることができる。それは、ぼくたちやぼくたちの先輩たちが学びの対象にし続けてきた、西欧文明のマイナスの側面についてである。
 しかし、ぼくたちはこの章を通過することで、アフリカはそういう負の歴史のたんなる被害者ではなく、現代世界に意味のあるイメージをくっきりと広げていることがわかるだろう。それがアフリ力の生命力である。
 ぼくたちは、そういうアフリカ文明ポジティブな側面と、西欧文明のネガティブな側面を、同時に知ることができる。
 このことは、ぼくたちが二一世紀を生きぬくための、果敢な心の根拠を与えてくれるはずだ。

  ゴレ島は西アフリカのセネガルの首都ダカールから約3キロの大西洋上、小船で約20分くらいのところにある。小船といっても、あのセーヌ川の遊覧船バトー・ムーシュくらいの大きさだ。
 ここはかつての奴隷貿易の拠点の一つであり、セネガルやガンビアなど西アフリカ捕えられた奴隷が、いったんここに集められ、欧米へ向けて「出荷」された拠点なのだ。
 ちょうど夕に近く、勤め帰りのサラリーマンや、学校帰りの子供たち、ダカールで買い物を済ませた主婦。赤ん坊をおぶった母親たちが、いっぱい船に乗っていた。 みなゴレ島の住人である。港には灯がともり始め、しい夜の海風も吹いており、なんの変哲もないごく日常的でのどかな風景だった。
渡し船の風景ははどこでも似ているのか、このゴレ鳥の様子も、遠くへだたった日本の淡路島あたりに似ているような気がした。
 島の周囲は一キロほどで、白茶けた土塀の、窓がない監獄のような建物が目につく。当時のままのこの古びた建物の中に、かつて奴隷として「出荷」された黒人たちが、この建物の中に幽閉されていたのだ。
  この建物の一角に、当時の歴史の一コマを再現した歴史博物館があり、「奴隷狩り」から「出荷」にいたるなまなましいドキュメントが、模型やイラストなどを交えて、展示されている。
 奴隷輸送船はいつも満杯で、狭い船室や船倉にギッシリと人間が詰め込まれた。 横になって眠るスペースもないくらいに肌をつき合わせており、何カ月もかかる輸送の道程で、多く黒人が死亡した。輸送時の死亡率は三割を超え、生きのびてアメリカなどへ到達できた黒人は、まだ運がよかったのである。


アフリカ版「インカ帝国亡史」


「奴隷貿易」とひとくちにいうが、それがどんな規模と実態だったのかは、まだ不明だ。 人数にしても、アメリカへの「輸出」が最も隆盛をきわめた18世紀初めからの100年間だけで、1000万から2000万人という数字があげられている。もっと大ざっぱには、200~300万から一億にのぼるという説まである。これほど、あてずっぽうに近い推計しか成立しない。 イギリス議会資料など、西洋側の資料は若干あるのだが、アフリカ側の資料が、決定的に不足しているのである。(註 その後、フランスのナントへ行ったとき、同市の博物館にアフリカから連れて来られた奴隷中継貿易の記録があり、目的地はカリブ海から北米方面との記述があったのを覚えている)

 ともかく、これがアフリカ社会に破壊的影響を与えたことだけはたしかである。 しかも、奴隷として好まれた年齢も、15歳から35歳までで、特に20歳代の男女が、高値で取り引きされた。
 このため、近代アフリカ社会は、労働力の中枢を奪われたばかりでなく、人口の増加すらできなかった。
 ガイアナ出身の経済学者ウォルター・ロドネー(後に暗殺された)は、英仏などによって奴隷貿易がめられた1650年から1900年までの二五〇年に、アフリカ人口はたったの20パーセントふえたにすぎないという統計を示している。この間、ヨーロッパの人口は4倍、アジア3.3倍もの人口爆発を経験している。いうまでもなく人口爆発は、近代化の原動力だ。
 ロドネーは「アフリカを今日の開発状況に置いたのは、貿易のためだ」とはっきり断言している(ウォルター・ロドネー「世界資本主義とアフリカ」北沢正雄訳)。
 それと、例えば、アフリカのダホメという国が行なった貿易を分析し、資本主義的市場経済や、その発展の形態とされる社会主義計画経済が、たんなる西欧的一変種の経済バターンにすぎないことを論託し、西欧社会科学の普遍性をはっきりと否定したハンガリーの経済人類学者カール・ポランニーは、次のようにいうのだ。
 まず、奴隷貿易の爆発的展開は、英仏などのサトウキビのプランテーションを契機にしている。 1664年に宰相コルベールが自ら管理するフランス貿易会社が設立され、イギリスでは1660年にロンドン・アフリカ貿易会社ができた。 植民地におけるサトウキビの大規模なプランテーションにとって、熱帯地方からの労働力は不可欠だった。
 もともと、北アフリカのイスラムの影響下に入った社会を除いて、ブラック・アフリカ社会に奴隷はほとんど存在しなかった、といわれている。
 そこへ、白人がやってきて、「アフリカ人は、眠りについている間に抵抗するまもなくとらわれの身となり、同時に年寄りと病弱なものは虐殺された。そうした悪魔のような掠奪が、象牙海岸からわずか数時間のところでおこった。これは戦闘でもなければ取引きでもなかった。むしろそれは、冒険好きな船長やその乗組員たちのスポーツであり仕事であった」
(カール・ポランニー「経済と文明」 栗本慎一郎訳)。
 そして、この白人たちの奴隷の取り引きに、アフリカ人の王国ダホメが巻き込まれた。奴隷を捕らえてきて、白人に売り、これがダホメの王の重要な収入源になった。奴隷を捕らえるために、近隣の部族に戦争をしかけ、捕虜を奴隷にして売った。
 ダホメは、右手に銃、左手に敵の生首をぶら下げた女の軍団アマゾンで知られるように、アフリカでは特殊な軍事国家になったが、銃や火薬などをヨーロッパの商人から買うためさらに大量の奴隷を捕らえなければならなくなった。
 ダホメは、結局、この奴隷と武器の経済の悪循環の回路の中で、衰弱死した。
 このころ、大航海時代の西欧では、奴隷狩りがヒューマニズムの衣に包まれて行なわれているかのような宣伝もなされていた。 「未開地アフリカには文明はない。黒人たちは、文明国へ行くために奴隷になりたがっている。アフリカ西海岸には、奴隷志願の黒人たちが群がって待機している」などというデマが流布していた。
 輝ける大航海時代 マゼランが世界を一周し、バスコ・ダ・ガマが喜望峰からインド洋へコロンブスがアメリカ大陸を発見したなどというぼくたちの世界史の授業を彩っできた海のロマンは、本当は掠奪と侵略の代名詞でもあったのだ。彼らは、平和的に航海していたのではない。アフリカの各地に寄港しては、町を破壊して歩いていた。その気になれぼぼくたちは、そこいらじゅうに、アフリカ版「インカ帝国滅亡史」を発見できるだろう。

「心」まで奪った西欧植民地主義


 悪夢にしてはあまりに忘れ難い過去を上まわるとも劣ることはない、新しい植民地主義が、奴隷貿易が廃止された後になってもつづく。
欧米の奴隷制度の廃止でアフリカ人は家畜ではなく、人間であることが認知されたので、奴隷貿易はなくなったが、動物とさほど違わない野蛮人であるという、西欧人のアフリカ認識の目に変化はなかった。
 西欧の植民地政策は、だんだん巧妙に展開されるようになっていっ
た。時代のようなむきだしの武力による支配ではなく、「精神の支配」を狙う文化・宗教による植民地主義が主流となる。 西欧の宗教や精神文化の押しつけに抵抗する者に対してのみ、武力がさし向けられた。
 精神支配のきわめつけが、キリスト教の布教を通じた同化政策であり、その代表は人道主義の仮面をつけたシュバイツァーなのである。 ひところ、会社の入社試験の尊敬する人物というところに、シュバイツァー博士と書く若者がたくさんいたというが、これは白人世界のご都合主義をまともに信じ込んだ日本人の無知以外の何ものでもなかったというわけだ。もとより、すべての植民地主義者が、アフリカ文化に敵意をもち、アフリカ人をもっと奴隷化しようと考えていたわけではない。彼らは、優れた西欧文明とキリスト教を未開文明地に普及にさせることで、アフリカ人を救済するのだと考えていた。宣教師たちは、いいことをしているつもりだったのだ。
 実際、シュバイツァーはそうした植民地主義者の強化にすぎず、宗教の布教には熱心だったが、医療については相当いい加減なものだったという。 ガボンで彼の経営する病院は、不潔なものだったらしい。というのは、病院内では犬や猫やニワトリなどの動物たちが患者と同居して暮らしているような、非衛生的なものだったと錯覚し、動物と人間の共存を地でゆくことがアフリカの伝統文化のだと思いこんでいたのだ。アフリカ的なものを、おくれた原始的な感覚だと短絡させて考えることこそ、じつは植民地主義者の植民地主義者たるゆえんなのだ。
 もともと清潔好きなアフリカ人の目に、シュバイツァーの病院はそう映っていたのだし、現在のアフリカでシュバイツァーといえば、顔をしかめられる存在なのである。

 シュバイツァーよりももっと同化政策に巧妙だったのが、フランスの方法である。フランスは、植民地に学校や文化センターをいっぱい建設し、フランス語とフランス文化をどんどん浸透させていった。現地のインテリをフランス的教養の持ち主にし、フランスが母国であるかのような感情まで育成した。
 仏領アフリカのインテリたちは、たえずパリの方向を見て、いつしか「黒い白人」と呼ばれるような存在になっていった。
 かつてのイギリス領とフランス領だった両方を旅して気づいたことは、イギリスが残した学校の文化施設の貧弱さに比べ、フランスのそれの豊かさ、豪華さである。宗主国のこの差が、植民地へのメンタルな影響力の差となって現れ、現在にも及んでいることを思い知った。いうまでもな
く、旧仏領のアフリカ諸国に対する宗主国フランスの影響力は、いまでも大きい。
 仏領マルチニック島(現在は仏海外県)出身の著名な思想家フランツ・ファノンが表明した「苦悩」は、まだ決して解消されてはいないのだ。
 白人を憎みつつ憧れるという、あのエディプス的とでもいえるほどの奥深い深層のコンプレックスのことだ。 それは、無意識の領域にまで及んでいると彼は述べる。
 例えば、ある黒人のインテリのこんな告白をぼくは実際に聞いた。
「私たちが、本気になって反植民地というとき、同時に自身の存在も消えてしまう。 第三者には、理解しにくいかもしれないが、私たちは、宗主国の言葉である仏語を学び、そのフランス的教養によって人格形成した。 だからこの黒い皮膚の中には、西欧がいっぱい詰まっている。この西欧を全面否定することは、とりもなおさず、自身の否定になってしまう」。
「日常会話は生まれた土地の現地語を使うが、深く物を考えるときは学校で習ったフランス語を使う考えるという発想じたいが、もうフランス的なのかもしれない。 長い時間をかけて養われた思考の展開のプロセスとか、美醜の感覚なども、西欧的基準に慣らされる。理性では「宗主国文化」を否定できても、感情ではそうはいかない。むしろ、フランスが母国であるか
のように、強く引きつけられる感情がある。 これをどうすることもできない」。
 旧植民地だった国の知識人のほとんどが、こういうコンプレックスをいまも心の奥に秘めている。
 在日韓国朝鮮人のある詩人が、「私は、日本語で最小限度の表現はしたい。でも、それ以上うまい日本語を使えるようにはなりたくない」と語るのを聞いたことがある。彼の日本語による詩は、選びぬかれた言葉の光沢に満ちているのだが、以後、その詩を読むたびに、詩とその告白の言葉の間を、意味が往復運動するようになった。 そうすることで、さらに鮮明にわ
かってくるのは、人間の精神の深く柔らかな、 手ざわりの感触とでもいうべ
きものである。外国語を発する、いや発せざるをえない人々のぬきさしのならない想いが、いったい何であるか。
 英語やフランス語がうまい、アメリカ人並みの語学力だとかいわれることが、ホメ言葉だというような、非白人、あるいは非西欧の国が、この日本を除いてそうざらにあるものではない。
 パリやニューヨークに素朴に憧れるぼくたちは、口では、西欧化の行き
すぎとか、過去の植民地主義への反省とかいうけれど、こうした言語問題にかかわる苦渋の表明考えてみれば、ぼくたちの生活だって、文化の形態はほとんど西欧スタイルだ。朝食はパンとミルク、昼のティータイムにはクラシックやポップスを聴きながら、胃にやさしいアメリカン・コーヒーを注文する。 マンションの生活の主流はカーペットのダイニングルームとスリッパだが、申しわけ程度に日本風の畳の部屋があるといった具合。
 そして、チーズを肴にウイスキーの水割りを飲む。合間に、米のメシをすこし食い、ついでにカラオケで演歌などを熱唱する。
 矛盾したぼくたちの生活ぶりを、べつにヨーロッパに植民地化されたとはだれも思わないだろう。むしろ、まだまだ率先してブランドのパリやニューヨークのマネをしたがっているのが、ぼくたちの文化だ。
この機に及んで、日本文化のアイデンティティがどうのというつもりは毛頭ないが、ともかくぼくたちの全生活は西欧文明のテイストの中にどっぷり浸り切っても、違和感はないまま存在しているのだ。
 ただ、アフリカの歴史は、ぼくたちの好きな西欧文明の奥にひそむ巨大な精神性の危険を浮き彫りにしている。そのメンタル危険に対して、ぼくたちは無知で無防備なままだと思う。
 といっても、ぼくたちの国が西欧によって侵略・植民地化されていることを恐れているのではなく、その逆だ。アメリカに次ぐ世界第二の経済大国になり、 金ぶくれで成り上がったぼくたちの側が、昔の西欧のマネをして、二番手の植民地侵略を企てる国になることのほうが怖い。
 実際、人種差別の南アフリカ共和国政府が日本人に対して「名誉白人」の称号を贈ったことも、無知につけこまれた「危険な罠」という思いがす
る。白人のマネをせよとそそのかされているようなものだ。
 西欧がアフリカに加えた蛮行とは、単なるモノや奴隷という肉体的収奪に止まらず、 人間にとって最も重要な生きる証明、つまり「自分は何者であるか」を考えるための心の証しまでも奪い去るというものだった。

第3章 カルタゴ消滅史の衝撃

 
 チュニジアのカルタゴをはじめとする北アフリカの地中海沿岸は、古代地中海文明の中心地だった。ギリシアやローマは、アルファベットをはじめ、ここから多くの文物を摂取した。だいたい、西洋文明全体は、どうあがこうと後発なのである。
 ローマ空港から約一時間、シチリア島を越え、チュニス上空にさしかかると、船の錨のような形をしたカルタゴの半島が、なだらかな溝から、地中海へ突き出しているのが見えてくる。「地中海の女王」と呼ばれるカルタゴ遺跡は、その半島のつけ根のところにある。
 海の青は、もうアフリカの深い青で、あの前衛美術家イヴ・クラインの、ちょっと重い「インターナショナル・クライン・ブルー」の青を、はるかに凌いでいる。
 上空から想像をたくましくしていると、ずっとむこうに、ギリシアの半島や、エーゲ海が、その先には、クレタ島、キプロス島、はては、小アジアの大陸まで見えてそうな気がする。
 不思謡なことに、目と想像力は、東へ東へと向かっていく。そうなると、さっき飛び立った西のローマのほうは、もう眼中になくなるのだ。
 紀元前のはるか彼方の、日本などはまだ影も形もなかったころの、民族興亡と文明の形が、あの地中海の 色彩の中に、あやしい豹の絵模様のようにくっきりと浮かんでくる。神秘的で、熱く、幸福な瞬間が過ぎる。
 と、ジェット機の着陸音が、悲しいの末の声のように響いてきて、思わずシートベルトを握りしめた。
 カルタゴは、ローマの手で滅亡させられた。その滅亡は、跡に草木すらはえないほどに、徹底的なものであった。
 ローマのカルタゴへの蛮行には、先のゴレ島で垣間見た 「奴隷貿易」の発想の原初形態がある。このカルタゴ滅亡史をたどることで、ぼくはヨーロッパのアフリカに対する蛮行の古代史版を発見したのだ。それは、アフリカへの行が有史以来ずっとつづいていたことのレッキとした証明だ。
 空港に降り立ち、アフリカの光を浴びてフライパンのように熱くなったタクシーで、チュニス都心へ向かいながら、 カルタゴの遺跡との出会いが間近に迫っていることを思うと、長い旅の疲れも消えて、胸が高鳴った。
 早くカルタゴを見たい、とはやる心を抑えて、二、三日は、予定の取材に専念した。
 というのも、事前に、日本のチュニジア大使館を通じて連絡していたものだから、空港に政府文化省の担当官が出迎えに来てくれていて、そのまま文化省へ連れていかれる羽目になったからだ。プレス担当官は、ぼくに、おおまかなスケジュールを示したが、その中にカルタゴ遺跡の取材は、はいっていなかった。
 東洋の辺境のエレクトロニクスと車の先進国から来た記者だというので、経済や技術関係の話を聞きたがったし、また、チュニジアの近代化の様子をじっくり取材してほしいという気持からか、スケジュールは関係官庁や大学、研究所の取材にほとんどの時間が、 ついやされるようになっていた。
 それで、カルタゴへは一人でブラリと行ってみようと考えた。この地方の風習で、昼は午前11時から午後3時まで休憩時間になる。 役所、学校、商店やオフィスはほとんど閉まり、サラリーマンは家に帰って食事をし、そのあと午睡を楽しむのだ。
 アフリカの日射しの厳しさを思えば、この時間に仕事をするほうが、気違いざたなのだ。
 このシエスタの習慣になじみのないわれわれは、 特に働き中毒で
なる。 そこで、この時間帯を利用して、懸案のカルタゴ行きを果たそうと思ったのだ。
 しかしホテルのフロントにタクシーを頼んだが、運転手も同じようにシエスタをするから、この時間帯にタクシーを呼ぶのは、なかなかむずかしい。 「チップしだいさ」と、ボーイが教えてくれ、外に止まっているタクシーと交渉してくれた。

カルタゴは確かに存在した


エンジンが飛び出すほどにすさまじい音をたてて、車はカルタゴのビルサの丘を目指してのぼってゆく。音のすごさにくらべ、スピードは大したことはない。日本でだと、もう遠い昔に廃車になっていそうなオンボロ車だ。フンスの中古車だが、この町を走っている車のほとんどが、フランスの中古車なのだ。
 チュニジアは、隣国のアルジェリアに一歩先んじて1956年にフランスから独立した国。フランス保護領だったが、フランスがアルジェリア領有に執着したぶん、チュニジアの独立が早まったともいわれる。
 ブルギバ大統領は独立戦争の英雄だが、独立後もアルジェリアのようなフ
ランス敵視政策はとらなかったので、いまもフランスとの友好関係がつづいており、フランスの影響力はいぜん強い。街中はフランスの中古車だらけは、その一例だ。
 車窓の風景に、さまざまな想念が付着する。一コマ一コマの風景が、その場で、忘れがたい思い出へと転化していくのがわかった。過ぎていく風景と時間の流れが、奇妙に重なるのだ。ぼくは、時の中に風景を見、風景の中に時を見ていた。
 それは、滅亡したカルタゴ人の悠久のドラマを、ゆっくりと呼び戻してくるようだった。
 盛りの太陽が、漆喰で固めた白い家を、白昼夢のように照らす。 家が熱気のかげろうで揺らいでいる。揺らいだ白い家は、砂漠の蜃気楼のようだ。 そこから、あの文豪フロベールが描いたカルタゴの美女 「サランボー」やカルタゴの女神「タニット」が、妖艶な姿をあらわすかもしれない。それらの美女たちは、アフリカの到達しがたいヘミングウェイの「豹」のイメージをふたたび呼びさました。
 走り去る車の横を、悠々と行く羊飼いと羊の群れ。ハエのたかる小さなカフェ。道端に座り込んで、ビクとも動かない老人。裸足で駆け回る子供たちの、茶褐色の肌と大きな黒い瞳。肉屋の店頭につるされて、乾燥と熱気にむせんでいる牛の頭。
 白い伝統のベールで顔を隠し、男の目を避けるようにして歩いていく老婦人。 ベールを脱いで、素顔をさらし、ハイヒールできれいな褐色の脚線を見せながら、闊歩する若い娘たち。
 官庁や会社などのビルの前に、数人の男たちがたむろしている。失業者だ。大きな建物の入口の前には、必ずといっていいほど、働き盛りだが職のない男たちがたむろしている。
 路地裏の土を焼いて積み上げただけの粗末な家並みが、細い道にコントラストの強いを投げている。影は短い。
 人々の汗とほこり、それに羊の皮と香料の入り混じった特有のにおいが、車の開け放った窓から漂う。
 チュニス郊外を過ぎ、ビルサの丘をのぼりつめると、足下に青く輝く地中海が広がった。白い丸型屋根に、青い窓をあしらった大理石の高級住宅が点在する。バルミエ(棕櫚)の樹木に彩られた素晴らしい眺めの海岸線に沿って、高級なリゾート・ホテルが立ち並んでいる。このあたりは、フランスの金持ちの別荘地帯でもある。 これまで通り過ぎてきた貧しい町とはうってかわった豪華な西欧のムードが漂う。 白い砂丘には、白人の男女が裸でゆったりと寝そべっている。

突然、車がとまった。
「さあついた。このあたりが、ローマの遺跡だよ」と運転手がいう。そこで、予備知識があった「タニットの神殿跡」とか「アントナンの共同浴場」のことをいうと、 運転手は、「このあたりにあるのは、全部古代ローマのものさ」と答えるだけだった。
 車を待たせて、歩いた。案内の標識めいたものが、何もない。 海岸べりの遺跡にたどりつき、パリで買ったギッド・ブルーの観光案内でそれが、ローマ時代のアントナンのであることがわかった。
 広大な遺跡群が海水に洗われるにまかせてある。大理石の巨大な礎石や円形の石柱が、惜し気もなくごろごろと海に横たわっている。 これも、チュニス湾の岸辺にローマ人が建てたものだが、 五世紀にヴァンダル人によって破壊された。 現在は、下の部分だけが残っていた。
 どこからか男が近寄ってきて、手のひらに乗せた小さな水差しを買ってくれという。遺跡から出土した値打ちのある土器だというのだが、素人目にも新しく、ニセモノだとわかるような代物。 どこかの工房で作ったものだろう。
 ここから一キロのほうに、古代のフェニキアの軍港と商港跡がある。 カルタゴの遺跡として純粋なものは、これくらいしか残されていない。あとは、すべて、ローマの手で改竄さつくしているのだ。
 近くに「サランボー」という名の電車の停留所があり、そこから海岸のほうへ歩くと、やはり「サランボー」という地名のところがあるが、これは、フロベールの作品にちなんで、フランス統治時代につけられた名前だろう。           残念ながら、美女サランボーの面影をしのぶ遺跡はなかった。
 ここから、小高いビルサの丘を歩いてのぼると、やはりローマ時代の劇場や宮殿跡がある。

 その前に、ブルギバ大統領の目を疑うばかりの白亜の大邸宅が広がる。 金色の柵の巨大門の前に、正装した衛兵が二人、直立不動で立っている。そのむこうは、青い地中海だ。
 一幅の絵というが、この付近の光景は、絵よりも美しい。
ここの遺跡は、大統領官邸前ということもあって、かなりよく整備、保存されていた。 大理石の巨大な柱廊と、淡く上品な色模様のモザイクの壁画が、青空の下に、えんえんと列をなしている。主要な文化財やモザイク壁画などは、近くの国立美術館や、 チュニスのバルド美術館に収容されているはずだから、ここに残されているのは収容しきれなかったものだろう。
 実際、この付近は遺跡の宝庫で、何キロにもわたっていまも水が流れているローマ時代の水道橋跡に出会ったりした。源流のほうでは、付近の住民がいまもこの水を使っていた。その水道橋の礎君をこわして、白昼堂々馬車で持ち帰る人もいたが、これにはびっくりした。
 これらの圧倒的なローマ時代の遺跡群の中から、チュニス郊外のクラムという町で、ローの遺跡よりも古い、カルタゴ時代のものと推定される遺跡が発掘されたのは、最近のことという。ローマ遺跡にくらべると、スケールも小さく地味だが、 これがほとんど痕跡が残っていないといわれる真正のカルタゴ遺跡だとすると、世界史にとっての大発見なのだった。
 発掘にあたった若手考古学者たちがこれをカルタゴ遺跡と断定した理由は、以下のような調査結果による。
①クラム遺跡は、ローマ時代のカルタゴ遺跡群から離れたところから出土した。ローマがカルタゴを占領した際、ここは占領を免れたのではないか。防水施設の跡も確認できるから、ここは地の利が悪いうえ、水もつきやすいというので、ローマは占領しなかったのかもしれない。いずれにせよ、これはローマ遺跡とは、まったく異質だ。
②住居跡は、地表から最も近い約六〇センチのところから出土したが、この深さは通常ローマ遺跡があるところだ。しかし、この住居跡にはローマの影響がまるで認められない。
 木製の風呂桶が出たが、これはカルタゴ遺跡では初めてのこと。 しかも、その形は身体を横に伸ばして入る西洋式ではなく、日本の風呂と同様、縦に入る形態だった。
 紀元前2世紀ごろのカルタゴでは、ローマの侵入を防ぐ防壁工事が盛んだったが、クラム遺跡には、それと同様な工法が見られる。
出土した象嵌のモザイクには、焼いた土を土台に、象牙、金属板、白の大理石が、 交互に、規則的に散りばめられている。 この技術もローマのものではない。
 まだ仮説の段階にすぎないが、彼らが証明しようとしていること
は、「祖先フェニキア人の足跡は、ローマの侵略と占領、そしてカルタゴのアリバイ消滅の陰謀にも負けずに残った」ということである。
 この発掘現場を歩きながら、ぼくは思った。 ここの考古学者たちは、古代カルタゴ遺跡が出てきたという、遺物フェティシズムで騒いでいるわけではない。 そこには、民族のアイデンティティを賭けた学問の闘いが存在している。

ヨーロッパの「本能」が歩き出す


 地中海最大の北アフリカの都市、カルタゴは紀元前3世紀のあるとき、忽然と姿を消した。 その消滅ぶりは、アトランティスの大陸にもくらべられるほどだ。
 カルタゴの語源は、セム語の「カルティ・デシュト」で、「新しい町」という意味である。 フェニキア人の新興植民地として繁栄し、世界のを羨望を集めていたのが、紀元前650年ごろだと、ヘロドトスは記述している。
 カルタゴの宗教は、ギリシア・ローマ人にとってとりわけ理解しがたいものであったらしい。
 人間、 それも子供を神の生けに捧げる習慣があった。
タニット神殿跡からは子供の骨が入った骨が何個も出ている。
 紀元前四世紀末は、名門の子供五〇〇人が生けにえとして火に投入されたという記録が、西欧の歴史書にもある。 特に、戦争前夜に、生けにえの惨事が起こっているらしい。
 カルタゴには、バール・ハモンという男神とタニットという女神が存在した。生けにえを要求する軍神ハモンと違って、女神タニットは、柔軟で親近感があったので、 カルタゴ以外の北アフリカの現地人にも浸透した。 多くの神殿が建てられて、住民の信仰の対象になった。
 しかし、生けにえは、ヨーロッパにカルタゴの野蛮を宣伝する絶好の素材だった。 後世には、人間ではなく動物があてられるようになった。
 現在のわれわれの常識からすると、生けにえは残酷なものかもしれないが、当時のカルタゴのモラルからすれば、そうではなかった。 カルタゴだけでなく、アフリカには死を悪と見る思想はなく、むしろ崇高な死を善と見なす死生観がある。 そのうえ、カルタゴには共同体のために命を捧げることは、最大の至福だというモラルがあった。
 しかし、この生けにえの存在を文化の相違と見る視点は、ギリシア人にもローマ人にもなかった。だが、戦争好きのギリシア人、ローマ人は、カルタゴ人とは比較にならない数の人間を戦争で殺した。ローマ人のように、コロセウムで人間の殺し合いを見物する風習も、カルタゴにはなかった。

 フランス作家フロベールの『サランボー』を読むと、カルタゴ人は、なかなか好戦的で奇異な民族のように描かれている。 しかし、実際は、ギリシア・ローマの侵略を防衛するための軍備しかなかった。カルタゴは、金力があったので、兵をリビア、スペイン、シチリア、ローマなど近郊の国から雇い、戦時に使っていたが、平和時には軍事予算を節約するため、軍を解散していた。軍に重きをおかず、将軍などの地位も、政治家や貴族、商人にくらべて低かったといわれる。
 海洋民族のカルタゴ人は、こと防衛に関しては合理主義に徹していて、もっぱら通商・経済活動にはげんでいたわけだ。
 紀元前3世紀の第一次ポエニ戦争で、カルタゴは敗北した。 そのときローマは、カルタゴの武装を解除し、ローマの承諾なしには、アフリカの地元であっても戦争をすることを禁止した。このため、カルタゴは、背後のスミディア人の侵略にも怯える弱い立場になった。
 のち、第二次ポエニ戦争で、ハンニバルの戦隊がアルプスを越えて侵攻し、ローマを脅かしたという武勇伝があるが、これなども、カルタゴが好戦的であることをフレーム・アッブするローマ側の情報操作説が現地にはある。
 カルタゴのハンニバルのアルプス越えは事実だが、戦争を仕掛けたのは、三回ともローマであり、カルタゴはこの戦いによって失墜、滅亡した。
 カルタゴの滅亡は、ローマの野望によってもたらされたものだ。なんの記録や痕跡も残さないような用心深さで、カルタゴは壊滅させられた。ローマとの戦闘に敗れたカルタゴは、ひとり残らず殺されるか としてれ去られた。建物という建物は、破壊され火を放たれた。こうして、無人の荒野と化したカルタゴの丘には、永遠の呪いがかけられ、不毛を願ってって土に塩が埋め込まれたという伝説がある。
 ドイツのジャーナリスト、ゲルハルト・ヘルムは、
「カルタゴという名は、暗鬱な光に照らし出され今日なお親しみある連想を呼び起こさないとして、敵であったギリシア人とローマ人の目で見ているの
だ。ギリシア人は彼らを憎み、呪い攻め、中傷し、ローマ人は同じことをしたあとで、彼らを地上から抹殺した。 このときのローマ人のやり口は、その進出をさまたげた他のいかな町に対するよりも残忍だった。 カルタゴに関しては、歪んだ記憶しか残すまいとしたのである。事実、その通りになった」と、ヨーロッパ人の視点で書いている。(ゲルハルト・ヘルム『古代海洋民族のフェニキア人』関楠生訳)。
 カエサルは、征服した領土をわがものにするてだてとして、必ずその土地の博物館や歴史記録を焼き払ったという。それによって、その歴史を抹消するのだ。 これが、 文字記録によって文明を築いてきたヨーロッパの歴史偽造の方法だった。
 カルタゴは、そのヨーロッパ的歴史偽造方法の源流にある。しかしこの歴史は、まだまったくといっていいほど掘り起こされてはいない。 今世紀に出版されたカルタゴ関係の著作を見ても、世界で数十点に満たず、専門の研究者となると10人といないだろう。日本で翻訳されている書物にいたっては、数点にすぎない。
 遺跡も記録も、まったくといっていいほど残されてはいないので、研究したくてもとっかかりがない。だから、カルタゴ史をやるのは専門の歴史学者ではなく、好奇心旺盛なアマチュアの仕事だった。
 作家アラン・ロイドは、ノンフィクションで書いた『カルタゴ』(木本彰子訳)で、「このけだるい(ハンニバルの) 黄褐色の海岸から、船乗りが、 北海の霧にとざされた謎の地チュールをめざして漕ぎ出し、商人がピグミーの黄金をもとめてサハラへとおもむき、 武将たちが戦ゾウをひきいて、はるかなる戦場へ出発した風景など、想像すべくもない」といっているが、カルタゴの港に立って眺めていると、まさにそのとおりの感慨を抱く。
 カルタゴ滅亡の物語は、いまも、亡霊のようにこの地をさまよっていることに、だれも気がついていないようだ。
 カルタゴ滅亡史は、いまだに西欧の野望と陰謀の陰に隠れたままである。

 ブラック・アフリカの奴隷貿易と同様な闇に包まれている。いまのところ、ヨーロッパの、輝ける表層の裏面に堆積する歴史のガレキにすぎない。 それが、 カルタゴであり、さらにはアフリカである。どのように複雑なヨーロッパ的歴史記述方法の蓄積によって、今日の偏見が形成されているのか見届けようと思えば、カルタゴにいきつかざるをえないのだ。ぼくはこのことに気がついた。
 さらにまた、ヨーロッパ中心主義が、キリスト教文明によって形成されたというのは、事実ではない。カルタゴの滅亡史を通じてわかることは、ヨーロッパがキリスト教を持つ前からはぐくんでいた自己中心主義があったことだ。これによって、ヨーロッパの自己中心主義は、ほとんどヨーロッパの本能であることが了解できる。

アルファベットやヨーロッパの名の起源


 ローマの手ですべての痕跡を絶たれた結果、カルタゴ人自身の手になる歴史は残らなかったのだ。ハンノというカルタゴの航海者の日誌が残っているといっても、それはギリシア語に翻訳された形でしかない。カルタゴは、ヨーロッパの偏見によって塗り固められてきた。
 なぜそうなったかというと、カルタゴはヨーロッパをしのぐ〝先進国"だったからだ。
 ヨーロッパが先進国のフェニキア人から継承したものはたくさんあるが、なかでも、大きな「文明史的意味」をもつものは、ヨーロッパという名前の起源とアルファベットであろう。アルファベットについていえば、ギリシアには、エジプトのヒエログリフという象形文字に影響された「線文字B」という文字があった。 しかしこれは複雑で、文字の専門家でなければ、到底、使いこなせないものだった。
 そこに、フェニキア人が発明したアルファベットが導入されたのである。 「線文字B」が、100もの音節文字と表意文字の複雑な構成で成立しているのにくらべ、フェニキア人のアルファベットは、わずか23文字に単純化された表音文字だった。しかも紀元前1500年ごろ、フェニキア人は、すでに完成度の高いアルファベットを持っていた。
 なぜならフェニキア人は、商用でアルファベットのような単純化した文字を必要としたからだ。相手との交渉内容を素早くメモするには、「線文字B」 のような複雑な文字では間にあわない。 大大衆レベルで使いこなせる文字が発明されたのは、フェニキア人が、通商の民族だったからだ。
 しかしギリシア人が、この便利なフェニキア文字をどのようにして導入したかは、まだ明らかではない。 しかし、フェニキア人の先生について授業によって学んだらしい。 その学習の舞台はクレタなどの島だったことも、推定されている。 その後、ギリシア人は、αアルファ、εイプシロン、 ιイオタ、ωオメガなど、フェニキアの音にはない子・母音を作って、 借りもののアル
ファベットに加え、わがものにした。 このアルファベットのおかげで、ギリシア文化は未曽有の発展を遂げた。紀元前8世紀には、文盲もいなくなったといわれる。
 いち早く文字大国化した西欧とは違い、 中国や日本のように、漢字という複雑な文字体を持ってきた国は、必然的に読み書きできる知識階級が「知の特権領域」を独占する時代が続いた。科挙の登用試験などは、複雑な文字体系を持つ国ならではの特権階級を作る制度だった。
 これにくらべ、西ヨーロッパ近代の民主主義や市民社会、大衆社会がめざましく発展したのは、フェニキア人のアルファベットのおかげだ。 近代化が地図上のどの地域と比べてもぬきんでて早かった理由
も、ひとえにこの問題に帰せられよう。
 ところで、こんなにも恩恵にあずかりながら、ギリシア人は、アルファベットをフェニキア人から導入したことに対し忸怩としている。 認めたがらないのだ。逆に、フェニキア人の野蛮さや劣等性を、声高な口調で後世の歴史に書き込んでいる。ほかならぬ、フェニキア人から学んだその文字によって、そうしたフェニキア人の悪口を残しているのである。
 さらにヨーロッパの名前の起源だが、これも複雑にギリシアや中近東の神話にからんでいて、真相解明に乗りだすとなると、藪の中なのだが、はっきりいえることは、ヨーロッパの名は、フェニキア人の王の娘のエウローペーの名前から発しているということだ。

 エウローベーが、牡牛に誘拐された。誘拐犯人は、あのギリシア神話の最高神で、牛に化けたゼウスであった。ゼウスはこのフェニキアの美女に惚れ、妻に知れないように、彼女をクレタ島へ連れていった。
 クレタには、観光案内にもエウローペー神話の誕生地がある。 エーゲ海を泳ぎ渡ってきたゼウスが、彼女とともに上陸したあたりが神話の中心だ。 ゼウスはクレタの森の中で、エウローベーを犯した。
 ヨーロッパの語源が、よりによって、なぜこんないかがわしい神話に端を発するのかについて、ヘロドトスも戸惑っているようだ。後世のヨーロッパの研究者たちは、さまざまな解釈を試みているが、真相真意はわからない。
 ローマ(ヨーロッパ)がフェニキアからあらゆる物を盗用したからこそこの名がヨーロッパの語源となった。にもかかわらず、盗用を認めず、 しかも雄々しいコーロッパのイメージを増幅させるために、あえてゼウスがフェニキアの美女を犯したという神話を作りあげているのではないかとぼくは思う。 つまり、この神話には、コーロッパのフェニキアに対するコンプレ
ックスの裏返しがあらわれているのだ。
 神話や文字だけではない。 農業もそうである。 カルタゴは農業の研究が盛んだった。マゴという学者が書いた論文が、のちのヨーロッパ農業の教科書になったといわれる。
 ヨーロッパ人は、これらに我慢できなかった。ローマが軍事的にはいかに強大になっても、文化の領域 ではカルタゴに頭があがらなかった。そのヨーロッパのコンプレックスが、カルタを滅亡させた根源のエネルギーと

ペンは剣よりも強しー カルタゴの歴史の教訓


「カルタゴは滅亡されなければならない」とローマの指導者たちは、熱心に演説した。
 やがてカルタゴを抹殺したヨーロッパ人は、世界歴史の覇者、発明の王者として登録されることになる。 すべての近代文明がコーロッパを母体にして生まれたというのは、結局、ヨーロッパサイドで作られた俗説にすぎない。
 ほんとうのところ、ヨーロッパ史そのものが、ともにと高文明に対するジェラシによって築かれた巨大な体系であるのかもしれない。 それ自体が、後進性を覆いかくすためのシステムだったのではないか。
 というのも、ギリシアの詩人ホメロスは「オデュッセイ」で、すでにフェニキア人の悪口を書いている。 フェニキア人は航海術は優れていても、その性格は邪悪で、欲深く、 恥知らずな略奪を平気で行なう、と。 しかし、そのギリシア人たちが商売の競争に負けると、 海賊に早変わりしたことについて、ホメロスは何の心をも払ってはいない。
 ついでにいうと、やはりホメロスはカルタゴより南のアフリカについて、 「サハラから南のアフリカには、黒い顔の人間が住み、太陽が昇らない国」などと嘘言を書いている。
 さらにヘロドトスが書いているようなリビアにおける沈黙交易は、市場経済を旨としたヨーロッパ人から見れば、珍しい光景だった。しかし、この光景も、ブラック・アフリカに行けば、通常のものにすぎないのだ。
ヘロドトスは以下のようにかいている。
「『ヘラクレスの柱』以遠の地に、あるリビア人の住む国があり、 カルタゴ人はこの国に着いて積荷をおろすと、これを波打際に並べて船に帰り、狼煙をあげる。 土地の住民は煙を見ると海岸へきて、商品の代金として黄金を置き、それから商品の並べてある場所から遠くへさがる。するとカルタゴは下船してそれを調べ、黄金の額が商品の価値に釣合うと見れば、黄金を取って立ち去る。釣合わぬ時には、再び乗船して待機していると、住民が寄ってきて黄金を追加し、カルタゴ人が納得するまでこういうことを続ける。双方とも相手に不正なことは決して行なわず、カルタゴ人は黄金の額が商品の価値に等しくなるまでは、黄金に手を触れず、住民もカルタゴ人が黄金を取るまでは商品に手をつけない」。(ヘロドトス『歴史』松平千秋訳)
 実は、この沈黙交易経済の方式は、最近、ハンガリーの経済学者カール・ポランニーが、西欧型の市場経済に対して、非市場経済としてクローズアップした経済の方法の原形だ。前にも書いたとおり、ポランニーの経済理論は、西欧合理主義の観念が、実は、ヨーロッパという地球の辺境に咲いたアダ花にすぎないことをはっきりと示している。
 付け加えると、リビアという地名は、「現地人」の意味でギリシア人がつけた名で、これが、ラテン語の「バルバロス」、つまり「野蛮人」の意で、それがさらにベルベル人などに変わった。ベルベル人という部族呼称はいまでも使われている。
 このようにしてギリシア時代から、ホメロスだけでなく、ヘロドトス、プルータルコスら著名な歴史家たちが、残酷で、野蛮なフェニキア人の像を描きつづけた。ローマ人もギリシアのカルタゴ像を継承した。そして陰険、臆病、感情的無関心、冷淡など、ありとあらゆる呪いと中傷の言葉を投げつけた。後に、奇特なローマの詩人ウェルギリウスが、弁明の試みを行なったりしたけれど、すでにできあがっていた固定観念を払うことはできなかった。
 そうしながらヨーロッパ人は何をしていたかというと、カルタゴ人が通商という平和的手段によって、西欧やアジアだけでなく、ブラック・アフリカからはてはアメリカ大陸にまで到達していたといわれるのに対し、地中海世界にとどまったまま、近隣諸国を戦争によって征服して、支配下におくことしか考えていなかったのだ。
 結局、軍事国家のローマは、軍事を軽視したカルタゴを滅亡させた。そのローマがヨーロッパの基盤を作った。ヨーロッパのレゾンデートルは、以来アフリカやヨーロッパ世界に対し、もっぱら軍事によって示すことに主眼がおかれた。

  結局、 カルタゴ滅亡史がいま語っているものは、カルタゴの先進性とヨーロッパの後進性以外の何者でもない。ヨーロッパが、いかにアフリカや他の近隣世界から文物を奪い、それによって文明という名の張りぼて社会を作ってきたかが了解できる。そして、ぼくたちの金科玉条ともなっているハイテク社会というものは、こういうヨーロッパが近隣を脅かし、征服するために精出してきた武器開発のおこぼれにすぎないことを、認識すべきではないか。
 いまも、欧米やソ連の核軍拡のエスカレートの様子を見ていると、彼らが元祖ローマ帝国の嫡子であることを、互いに競い合っているようにしか見えない。
 ぼくたちも、残念ながら欧米型軍拡競争に巻き込まれてしまっている。しかし文は武よりも結局は優位にあったことを、カルタゴ史ははっきりとぼくたちに告げている。 それが、カルタゴの沈黙のメッセージだ。

次回第3章は「アルジェリア独立戦争」です。
往年のフランス映画「シェルブールの雨傘」はアルジェリア戦争に仏軍兵士として出征した青年とカトリーヌ・ドヌーブ演じる若い女性の悲恋物語です。


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