大災害は新しいメディアを生む 


(緊急リリース版その3


 

草の根のツイッターがマスメディアを凌駕した


 阪神淡路大震災で特記すべきは、黎明期にあったインターネットの活躍である。大阪大学の学生が発したSOSのメッセージがホワイトハウスへ届き、米国からの地震の連絡が官邸に入ったといわれる。首相に地震発生情報が正式に伝達されたのは、地震発生から数時間後だった。
  当時は社会党の村山首相の時代で、自民、社会、さきがけ3党の連合政権だった。村山首相はテレビを見て初めて震災の事実を知ったという。
  村山氏は災害のリスク管理は全くの素人だった。自民党の後藤田正春氏が村山氏のもとへアドバイスに走り、「やれることは全て行うように」と進言した。
  村山首相は「責任は全て私がとるから、やれることは何でも現場でやるように」と現場優先の指示を行った。
   初動の遅れはあったが、権力の座に執着しなかった村山首相の現場に任せた姿勢が、災害地の多様なニーズを引き出すのに成功した局面があったといわれる。(註 上記、村山首相のエピソードは、ジャーナリスト鈴木哲夫氏がニッポン放送の「ニュースやじうま総研」2018年、1月17日)でのコメントを参照)。
 
  今回の東日本大震災では、インターネットのソーシャルメディア、中でも災害情報を個人レベルで送受信できるツイッターが目覚ましい活躍をした。
 3.11前の日本のツイッター文化は、個人の私生活的つぶやきや友人・知人間のコミュニケーションツールの意味が大きかった。
 米国でオバマ大統領誕生の原動力になったような政治的、社会的な変革のツールとして使われるようなことは、日本ではほとんど起こらなかった。
 またチュニジア、エジプト、アルジェリア、リビアなど一連のアラブの春の政変が拡大しつつあったにもかかわらず、そうした外国の政変にも日本人大衆は、おおむね無関心だった。
 ツイッターをやる若者たちは、個人的な友人のコミュニケーションで利用し、「いまどこにいるナウ」が流行り、何を食べた、コンサートに行った、サークルのPR,タレントの噂話、学校の授業や試験のこと、就活の様子など、交際ツールとして極私的関心事を交換し合っていた。
 政治的な話題をつぶやくのは、世の中に不満を持つ人や特定の考え方の人、政治運動家、プロ的な党派の政治家やフリーのジャーナリストに限られていたように思う。
 しかし、官邸前の金曜デモが象徴するように、3.11はこういう日本の政治状況を一変させた。特に福島第一原子力発電所の事故の深刻さを東電、政府は隠ぺいし、SPEEDIの公表はなく、マスコミも東電や政府発表の安全神話に追従したので、事故の実態が全く伝わらず、放射性物質の汚染は拡大の一途をたどる中で、国民の多くは正しい情報源をツイッターに求めた。
ツイッター人口は震災前の約800万人ユーザーから1700万人ユーザーに倍増したとの統計がある。
 この間ツイッターは既成のテレビや新聞にできない草の根の報道機関となり、巨大なメディアとして成長したのである。ツイッターは世界中のどこの地域場所、組織、家族、避難所、車の中からでも、電波さえ届いていれば投稿できる。不特定多数のユーザーが受信してメッセージを読み、すぐに拡散してより多数の全国ユーザーや世界の人々へ情報を届けることができる。情報はリアルタイムで交換できる。
  16年前にはささやかな駅の伝言掲示板だったのものが、現代では強力な発信ツールを得たことで、安否情報の有力な確認のメディアになった。
  しかもリアルタイムのスピードで、被災各地から安否情報、救援を求める夥しい情報がツイッターに集積していった。被災地から離れたユーザーたちがこれを見ていて、重要と思われる情報をフォロワーに拡散し、誤情報やデマと共に瞬く間に全国各地、世界各地へと拡散していった。
 
 水も食料もありません、助けてください。XXの簡易避難所にいます。病人が出ていますが、医者も薬もありません。救援お願いします。この情報を拡散してください。燃料がなく寒さに震えています。着衣が濡れて震えています。雪が降っています。着替えも毛布もありません。こうした被災者のメッセージの断片が3.11震災直後から、ツイターを駆け巡った。 
  民間のボランティア救援組織もツイッターを通じて立ち上がり、水、食糧、燃料を満載して深夜に、地震で寸断された道路をつなぎながら、車で出かけるグループもあった。
  新党日本代表の衆院議員・田中康夫さんが病院から退院した震災当日、仲間を募って深夜に南相馬へ救援活動に出発したことを、自身のツイッターで発信していた。途中の道路状況や震災被害の様子なども逐一、ツイッターで報告しており、震災当日夜の現地の様子の一端を知ることができた。
  こうしたツイッターを読んで、自分にも何かできないかと触発された人たちはたくさんいるだろう。
  かつて『朝日ジャーナル』の編集部で仕事をしたことのある私は、ツイッター上で思わぬ再会をした人たちがいる。
  当時の『朝日ジャーナル』編集部員で、最近まで『週刊朝日』編集長だった山口一臣さん、誌面で統一教会問題を追及していた衆院議員の有田芳生さん、ポーランドの「連帯」の取材を精力的にやっていた今井一さん、パレスチナ問題を追求していた土井年邦さんの消息も知った。
 また新聞社を辞めた後、教員を勤めたとき、同じ職場で勤務したことのある飯田哲也さんが、太陽光・自然エネルギー分野で大活躍する様子もツイッターで知ることができた。
 数年前、JAICAが主宰した「メディアが変われば世界も変わる」というテーマのシンポジウムでご一緒した映画監督・鎌中ひとみさんが、自作の映画「みつばちの羽音」の上映会を開催することをツイッターで知り、神戸まで出かけて再会することができた。
 そのとき、鎌中さんのトークイベントに出演していた中学生タレント 藤波心さんとも初めて会った。可愛く明晰な少女で、こんな若い人が原発に反対してる姿に感心して、彼女の著作『14歳のこころ』を購入した。
 

世界発信のツールになったネット


 SNSは、新聞やテレビのように編集部が情報確認や信頼度を判断して掲載するのではなく、あくまで個人ユーザーの判断で投稿するので、間違いや判断ミスもある。単なる間違いではなくて、意図的な情報操作や誤報、デマもあるし、愉快犯的な誹謗中傷もたくさん含まれている。
 しかしそれでもツイッターが届けてくれる情報は、情報の真空地帯におかれた人々にとって、藁をもつかむほど有り難いものだった。
  またある程度のスキルを持ったネットユーザーにとっては、YouTubeは有力な発信装置になった。
 桜井勝延・南相馬市長が「兵糧攻めの状態です」と世界中に救援を求めたSOSのYouTubeは有名になり、25万回のアクセスがあったという。CNNなど世界の有力報道機関がこれを見て、桜井市長への取材を行い、世界の時の人になった。
  このYouTubeの大反響によって日本の大地震に対する世界的な救援の手が差し伸べられるきっかけになった。


2011年3月12日、東日本大震災時の大津波で破壊された町=米海軍が公開した空撮写真(wikipedia より)



 
 マスコミ各社がセンセーショナルな災害報道を繰り返すなか、ツイッターは阪神淡路大震災時のときの西宮北口駅の手書き掲示板のよいうな役割を果たしていたといえる。。
 電気を断たれた被災地ではテレビは見られないし、電話も通じない。新聞も届かない。マスコミは遠隔地の安全圏内にいる読者、普通の視聴者へ被災地ニュースを届けることはできても、被災者の役に立つ情報を届けることはできない。
 
 巨大メディアの限界とは、社会インフラや通信施設が破壊された現地では役に立たなくなることだ。大災害や戦争時には情報の闇が広範な地域社会で出現し、人々はパニックに陥る。マスコミだけでなく政府も行政も機能しなくなる。被災した人々は自立した生活の糧や住居を失い難民になる。

阪神淡路大震災から何が変わったか


 阪神淡路大震災から16年、日本は変わっただろうか。約5000人もの人命が失われたあのときの教訓は生かされたのだろうか。
なるほど壊滅していた神戸や西宮の繁華街は、何事もなかったかのように復旧し、以前にまして眩く華美な都市になった。
  こうした外面の復興や人工の明るさに惑わされることなく、人々は心から幸せになったか。
   自分の欲望を満たす、金がすべての風潮を生んだ個人主義と、しょせんは虚構にすぎないうわべの豊かな社会を演出してきた。
 
  阪神淡路大震災で目撃した阪神間を覆う瓦礫の荒野。大火災が起こり、都心の高速道路の橋梁がひん曲がって地面に陥落し、繁華街のデパートの巨大ビルが崩壊し、生活インフラが絶たれ、人々が悲嘆に暮れている風景があった。そんな中、大規模に破壊された神戸とは目と鼻の先の大阪の被害は、比較的、軽度なものだった。
  その夜、ゼネコン不況がいわれていた大阪の業界関係者が、大震災の先にある復興景気を予想して、夜の街で祝杯を挙げたという話を聞いた。他人の不幸を利用する人間の欲望の悪魔性、それは戦争で兵器産業の繫栄を喜ぶメンタリティに共通する。
  人間は神にはなれないが、欲望を膨らませた人間なら悪魔になることはできるのだ。
 
 もう決して見たくはなかったあの時の光景が、東北の三陸海岸から福島にかけての太平洋沿岸に広がっているのだ。
 復興を叫ぶのはいい。民放テレビの公共広告CMのように、頑張ろう日本!と拳をあげ、pray for Japanと合唱し、「ガンバレニッポン」と書いたTシャツを着て叫ぶのもいいだろう。
 しかしそれで被災地の艱難辛苦を言い表しているかというと、嘘っぽさと偽善は透けて見える。自分たちは飽食し、安穏にスポーツを楽しむ生活をしながらでは、本心が籠らない「偽善のポーズ」ではないのか。
 
 
 

 3.11、「日本が変わった日」


 
 日本人は形から入るのを好む人々が多い。格好をつければ物事に参加した気分  になる。
  しかし真に悲しむべきことは、ほかにある。日本は強い国、きっと立ち直ろう、などと抽象的に国家の行く末を案じることで、個人の生活者の現実の苦しみをネグレクトしてしまう。「偽善のポーズ」とは、そういう意味である。
 国家の運命よりも、本当はひとりひとりの国民の命が大事だ。国民あっての国家なのだから、国民の苦しみを救えない国家には、存在意義はないというべきだろう。それが「国民主権」の意味だ。
 夥しい被災者、家屋を流され、思い出を流され、孤独な避難生活を強いられ、亡くなった犠牲者の方々の家族や友人たちの悲しみと辛苦を共有しながら生きてゆく決意。それがなければ、どんな美辞麗句を並べたポーズをとろうと偽善の嘘になってしまう。
 
 同じ悲劇が繰り返されたのはなぜか、人間が生きる幸せとは何か、復興とは前と同じキラキラしたビルが並び、煌々と電気が灯り、車やエアコンやモノに囲まれた豊かな生活に戻ることなのか、根本から考え直す必要がある。
 
 三陸地方には、「ここから下に家を建てるな」という古い年代物の石碑が丘陵の高いところにしばしば建っているという。「波分け神社」という名の神社もある。押し寄せる津波が止まった場所を表している。
   何度か津波被害に会って、そのたびに家や家族を失った辛い先人たちの歴史の記憶がこうした形で残されているのだ。
 苔むした丘陵の道端にある石碑や「波分け神社」を非近代的な迷信の産物と退けることは、もはやできないだろう。
  高さ10メートルクラスの防波堤がやすやすと津波に突破されたのだから、われわれはひとまず近代文明や近代技術の今をうめきながら見直すしかない。それが震災の歴史が教えた教訓だ。 
 
 3.11。それは、日本が変わった日である。これから先、どう変わるかはまだ判然としない。やってみなければわからない。しかし今までと同じ生活が続くことはあり得ない。今までと同じ心と生活の状態はもう続けられないのだ。そういう決意があってこその、「頑張ろう!」だろう。この期に及んでなお、過去と同じ未来を見ようとする精神はありえない。
 
 ひとつの命には終わりが来る。慣れ親しんできた懐かしい時代の空気も変わる。「今日と同じ風景が明日も続くと思うなよ」、という冷厳な事実を日本人は敗戦の66年ぶりに学んだのだ。
 この風景の変化は、私たちの親や祖父母たちが1945年8月に激しい痛みと共に経験したことだった。    太平洋戦争では300余万人もの国民が犠牲になった。今から少し前の、「悲惨な苦しみの体験」と引き換えに手にした「平和と豊かな日本列島」に安住した戦後の国民」は、すっかりあの時の体験と教訓を忘却していたのだ。

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