タブー化した死のリアリティ


 
 

『報道ウオッチ3.11』緊急リリース版 第一部その2

           
 
 
遺体を避けた日本の報道
 
 当たり前のことだが、災害とは残酷で悲惨な人間の命が失われる現場があり、それは戦場と同じことだ。日本のマスコミが好む美談はまずない。普通の生活者が突然、予想だにしなかった一瞬の間に命を落とすという意味では、戦場よりも惨い。
 
 そんな現場のタブーの一つに、遺体をどう表現するかの問題に行き着く。
 しかし日本のマスコミは死体を避ける、というより死という現実を見せないように隠そうとする。日本のマスコミは、死とか人間生活の裏面の暗部を消し去った明るさを演出する。そういうフィクションのような物語を好む。
 いつのころから、死を避け、忌み嫌う文化が出来たのだろうか。

 もともとの日本文化の中には日常の中に死生観を表す宗教的な文化があった。朝、母親が仏壇に炊きたてのご飯を備えて亡き先祖の霊に祈る。夕飯前には家族全員が仏壇を拝む。飯を食べられる幸せを家族全員がかみしめる。そういう生活習慣が私の幼少のころにはあった。
 
   私が新聞記者になったころ、作家の三島由紀夫が自衛隊の市ヶ谷駐屯地にたてこもり割腹自決した事件が起こった。1970年11月5日のことだ。三島に心酔する盾の会の若者たちが三島と行動を共にした。三島が割腹したあと、盾の会の一人が介添え役で三島の首を刎ねた。
夕刊に間に合う時間帯だったので、夕刊一面トップに記事は載った。社内で配られた早版には現場に三島の首が転がっている写真があった。しかし残酷すぎるという理由で、第2版から差し替えになり遺体の写真はなくなった。
当時、日本の高度成長経済が加速しつつあり、やがて貯蓄が10年で2倍になるというバブル経済への発展が始まっていた。経済がすべてという時代が到来し、大衆は三種の神器といわれた3C、カラーテレビ、クーラー、カーを求めて、朝から深夜まで人々は汗まみれで働いた。暗いことは考えず、「明るく軽やかに戦後を生きる」という未来願望の時代が到来していたのだ。 
そういう世相を背景に、右派イデオロギーを体現した三島事件以来、新聞紙面から人間の遺体の写真が消えたと思う。やがて遺体を映すことはタブーになったのだ。明るいホームドラマの全盛期、茶の間に直接はいりこむテレビではさらに遺体のタブーはきつくなった。
  とはいえ災害地には、遺体があちこちに転がっている。今回の東日本大震災でも、津波直後の現場海岸の写真には、遺体が転がって折り重なっている映像が海外メディアなどでは報道されていた。津波の引いた海辺にマネキン人形が折れ重なっているような残酷な写真があった。
  しかし日本のマスコミは、瓦礫や波に呑まれた車や建物の残骸、船舶の残骸などモノは伝えるが、人の死や遺体の映像を決して伝えなくなった。
 人の無残な死を直視すえるのを避け、遺体を隠す一方で、新聞やテレビなどのマスコミ報道は、震災時の美談を作り上げることに腐心しているように見えた。戦場報道で、戦争の残虐性と遺体を隠して、美談を作り上げるのと同じだ。そうなれば、報道は事実を伝えるのでなく、センチメンタルなドラマと化してしまう。
  海に向かって叫んでも、亡くなった人は戻ってはこない。わかっているのに、そんなテレビシーンにはたくさん出会った。
 
 いくら隠しておきたくても、隠しようのない冷徹な現場は存在する。それを目撃したら、報道するのがジャーナリストの仕事だ。災害のむごたらしい現実を、被災地から離れた国民や世界中の人々に知らせる。事件の真実を伝えるのがジャーナリズムのやるべき一番の仕事だ。それが次の災害再発時の社会的教訓となり、災害への抑止力に繋がる。戦場の惨劇を伝えるペンの力が、戦争の抑止力になるのと同じだ。爆弾には爆弾で応じるのでなく、爆弾はペンの力で抑止しなければならない。
 事実を正確に伝えることで、次の大災害に対する教訓と抑止力が生まれ、失敗を繰り返さない叡智が生まれる。事実を隠しておくと教訓は生かされず、いかに悲惨な体験であっても後世に伝わることなく風化し、忘却される。それが失敗を繰り返す「人間の業」というものだろう。しかし、人間は業を克服しなければ幸福にもなれず、心の安定も得られない。
   世界的規模の東日本大震災と原発事故の同時発生は、日本の新聞が第二次世界大戦の真実と教訓を国民に伝えず、政府大本営の宣伝機関になっていた「失敗の歴史の宿痾」に重なって見えた。東日本大震災の報道は、まるで戦時大本営時代へと先祖帰りしていたように、私には見えた。
外国メディアはドライなリアリズムの報道に徹するが、日本のメディアには現実に起こったことを理性的に伝える方法論のトレーニングができていないと思う。
  欧米メディアのようにドライな事実報道をしなければ、日本で報道されるニュースは嘘っぽくなるのだ。「人間関係の絆や団結」をいたずらに強調し、感情に訴える「頑張れ東北、頑張れニッポン」という類の報道姿勢が多々みられたが、これらはセンチメンタルで嘘っぽいジャーナリズムに変質してしまうのである。
 
 災害出動した若い自衛隊員の中には、悲惨な現場の作業によって精神的に参ってしまった若者がたくさんいたという。日常的に軍事的トレーニングをして精神を鍛えている人でも、被災した現場を見ることは、精神に変調をきたすほどの惨状だったのだ。しかしながら、災害現場の真のリアリズムは、日本のマスコミ報道からはほとんど伝わってこなかった。
 その一方で、テレビ映像は、おどろおどろしく押し寄せる津波、呑み込まれる家屋、流される車、乗り上げた船舶などの映像が繰り返し流されたが、カタストロフ映画のシーンを思わせる興味本位のよそよそしさを感じた。
  こうした切りとられ反復される映像は恐怖のフラッシュバックを誘発する要因で、「遺体をどう表現するか」を考えぬいた表現ではない。報道からは現地で苦しむ人々の顔が見えなくなるのだ。
 
「死の町」発言で職を追われた大臣
 
 津波が防波堤を乗り越え、巨船が高層ビルの屋上に乗り上げている映像が頻繁に流れた。皮肉なことに、センセーショナリズムを嫌うはずの大新聞の紙面でも、テレビに負けじと津波のレベルの凄さを競い合っているように見えた。映像を一度見れば、あの大津波が凄かったのは誰にでもわかる。
  しかしニュースの衝撃に驚くだけがプロの新聞記者の仕事ではない。凄惨な現実を切り取った写真に見合った「人間の悲劇の物語」をどう表現するかが、本当のジャーナリストの仕事である。ニュースへの驚き、心の衝撃のあと、記者は昂ぶる感情を鎮めて「考える人」にならなければならない。
  そうした思考プロセスを経ない記事や報道では、人間の悲劇の厚みは見えてこない。
日常的なルーティンワークの中で、無感覚、無感動な取材を続け、惰性で記事を書いているうちに、記者たちは伝えるべき事実の重みを見失う。歌を忘れたカナリア、ならぬ、言葉を忘れた記者になる。
 
  鉢呂経産相が、福島原発周辺を視察した後、「まるで死の町だった」と発言したことが、被災地を傷つけたと大新聞各紙とテレビが横並びで糾弾し、大臣を辞任させたことがあった。これは本当の事実は見ようとしない、事実を隠そうとする記者たちの無意識の反応だったと思う。
 嘘をつくのが常態となった新聞記者は、真実の言葉に触れると逆上する。それが「言葉狩り」を生んで、真実を述べた人間を集団で叩く。いわゆる差別用語を糾弾するのと同じく、瞬間的な反射運動である。
  記者たちは「死の町」が差別用語だと思いこんだのだ。なぜか。
 
人間の大きな悲劇を客観的に語るということは難しい。
  新聞記者は劇作家でも文学者でもない。しかし言葉を駆使して意味を使える人間であることに違いはない。
   鉢呂大臣が、被災地を「死の町」と感じたのは真実を語ったのだと、私は考える。その言葉を吟味することもなく、「死の町」と表現して真実を語った大臣がなぜバッシングされたのか、私には理解できなかった。
 
「死の町」は、悲劇を端的に語った言葉ではあっても、新聞記者が使ってはいけない禁止語ではない。「死」がタブーになっていた記者の検閲コードに触れたのだ。
  新聞用語では差別用語とみなされた言葉を言い換える風習がある。目の不自由な人、足が不自由な人、耳が不自由な人など。床屋、産婆、スチュワーデスなどの職業を表す言葉も言い換えられている。
  言葉の言い換えで安心し、タブーには踏み込まない。そんなジャーナリストがどうして真実を語ることができるのか。
 
    悲劇を伝える言葉の力


  
記者が取材した5W1Hをいくら並べ立ててみても、巨大な人間悲劇を描くヒューマン・ドキュメントにはならない。言葉の威力には人の五感を揺さぶる魂がある。つまり言霊がこもっている。新聞には魂が必要だ。
  警察や市役所や県庁が、日常のルーティンワークのようにして災害データを逐一発表してくれるわけではない。
   記者クラブの椅子に座っていれば、警察や役所からおのずと事件のファクトや情報が入ってくる習性に慣れた記者たちが狼狽するのは無理からぬことだ。
 それに地元の警察、市役所、消防などの公的機関の多くが被災して機能マヒしている。
  役所の発表ネタや記者クラブ情報に頼ることなく災害情報の断面を切り取って事件の再現を試みる作業は、記者が自力で取材したひとつひとつのファクトを丹念に発掘し、事実の断片を集めて積み上げて事件の全体像のイメージを再現し、事件の物語を構成しなければならない。
  しかもそのイメージと物語が嘘や偽物であってはいけない、という難しい仕事なのだ。
   取材力が必要なことはいうまでもないが、綿密な取材力と同等に必要なのは、人間の悲劇をイメージする想像力とそれを表現する言葉の力、文章力が必要なのだ。
 
  無味乾燥で無機質な役所文書は官僚の書く通達や告知文に任せておけばいい。新聞の文章は官僚や政治家が書く文章とは違う。役所が配布した文書をそのまま写した新聞記事など、読者は求めていない。
 
  
直観の洞察力がない記者は失格だ 
 

 いざニュースの現場に立ってみると、それまでテレビや新聞が報道してきた事件の内容と大きく異なることがある。
人物のインタビューにしても、また聞きで伝えられていた人物像とはすいぶん違う印象を受けることもある。
 そういうときは先入観を捨てて、まずは自分が持った第一印象から取材をやり直さなければならいことはよくある。まずは自分の感覚を信じることだ。
 実際、ニュースに巻き込まれた経験のある人は報道されたことと、自分が体験した現場との落差に愕然とする人は多いだろう。
 これが事件の真相だ、と報道された新聞記事とそのニュースの現場との間には大きな乖離があるものだ。この乖離をできるだけ縮める能力を持つ者が、プロのジャーナリストだ。
  事実かどうかを見抜く力は、記者の直観を含む洞察力である。
 ジャーナリストは、取材する人物、事物、事件や災害や未知の外国の取材に出かけるとき、あらかじめ現地の様子を調べ取材先のイメージを作る。
  充分なイメージトレーニングをして現場に立てば、いたずらに先入観で取材先や人物を見てパニックに陥ることなく、いま自分が見ている現実を納得のゆくものとして、把握できる。
  まずその現地や現場を納得してから取材、執筆の作業が始まるのである。
 
 人間の死や遺体を見て狼狽するようでは、プロの医者とはいえない。それと同じでどんな修羅場が待っていようとも、現場に真摯に向き合うことができないジャーナリストに報道の仕事などはできない。
 
 イラクで死んだ戦場ジャーナリスト橋田信介氏の著作を読むと、戦闘で死んだばかりの兵士の遺体は草原の匂いがすると書いている。彼はその遺体の尊厳を感じて、一瞬、取材の手を休めて遺体に付き添い弔ったそうである。戦場の死にも人間の尊厳を表す匂いがあるのだ。この事実を書き残した橋田氏の感性は、人間への究極の愛を表現した本当の戦場ジャーナリストだったと思う。
 
 一方、三陸地方の津波の記録を書いた吉村昭氏の『三陸海岸大津波』には、明治29年の大津波の記録や詳細な聞き書きがある。その中に海岸に流された遺体を食いに来て跳ねる魚の群れの描写があり、背筋が凍る。人が死んで魚に食われる自然界の冷厳な摂理をも、ひるむことなく描かねばならないのも確かだ。
  
 災害報道には、こうした「人間の運命の儚くも唐突な死」を避けて通ることは不可能なのだ。無慈悲に見えようとも、死の課題から逃げずに立ち向かうのが、本来のジャーナリズムのであり方ではないかと思う。
  
 
外国ジャーナリストも続々来日
ニューヨークタイムズの写真報道
 
 日本の報道が連日、震災一色で埋め尽くされているわりには、ヒューマンドキュメントのインパクトが薄く、隔靴掻痒の思いで中で新聞やテレビを見ていた人は多いだろう。行政に当てがわれた避難所や役所の記者会見からは見えない現場がある。「現場では本当に何が起こっているのか」、読者視聴者が最も知りたい「災害の現場」が見えず、「ブラックボックス」に入っているからだ。被災した人々の、人間としての個人の顔、それぞれの人の心の内、叫びや涙にはならない悲しみ、じっと耐える辛さなど、心の真実はなかなか伝わらない。記者やリポーターは「避難所の人々という塊」で被災者を見る。しかし、人間としての被災者の顔が見えないのだ。被災者の真実は決まり文句の使い古したマスコミ用語では語れないのだ。
 そんな中、発行部数約一万部、記者数6人という地元紙『石巻日日新聞』が震災翌日から発行した新聞が世界的な話題になった。 手書きで発行された石巻日日新聞だ。これぞ新聞の原点として、その記者魂が世界の新聞人の共感と感動を呼び、ワシントンの新聞博物館に収蔵された。
同紙は社屋を自身と津波で破壊され、印刷設備を失い、記者たちも被災したが、読者に翌日の新聞を届けるため、「手書き新聞」を発行した。
 その手書き新聞を読んだ地元の読者、被災者たちは大いに励まされ、コンビニ前などに張り出された「手書き新聞」を食い入るように読んだという。期せずして新聞の原点の姿が呼び戻されたのだ。雨が降ろうが槍が降ろうが、いかなる災害にも負けず、読者にニュースを伝える新聞記者魂は生きていたのだ。
 

写真は『石巻日日新聞』が震災当時発行した「手書き壁新聞」で、震災後一年目に出来た同社の「ニュース博物館」(石巻ニューゼ)に展示してある)。 

   上述したように、被災することで、新聞の原点に戻った『石巻日日新聞』の健闘は世界の注目を集めたが、海外メディアと比較すれば、個人の記者の力量で動く外国メディアと違い、記者クラブなどの安全圏に居ながら、大集団で動く日本のマスコミには、自力で現地に入り込んで取材する能力は希薄だった。その点でいえば、新聞社やテレビ局に所属しない独立したフリーランス記者のほうに、一日の長があるだろう。日本で戦場取材する記者は概ねフリーランスの独壇場になっている。会社側の社員管理の思惑もあるが、日本の会社員記者には社内出世を優先し、ジャーナリストとしてのリスクを避けるサラリーマン気質(根性)が、染み込んでいる。 
  大新聞、大テレビ局に所属する「記者クラブ記者」は「養殖池のアユ」に例えられるが、フリーランスは「天然アユ」に例えられる。養殖池のアユは餌を大量に与えられて太ってしまっており、動きは鈍く、味も不味い。しかし野生の天然アユは、自力で餌をとるので身体が締まり、味も香りも優れてるという例え話だ。
   日本のマスコミの災害報道は阪神淡路以来、ヘリの上空取材が多く、上からの俯瞰で被災地の様子を捉えようとする姿勢が目立っていた。また記者が取材する時も、車で動く集団の取材クルーが組織され、報道がしやすい大きな避難所、役所が用意したと思われる避難所でのインタビューが多くなる。
 同じ避難所に取材が殺到するので報道が偏り、取材陣が行かない地域との情報格差が生まれる。災害時に、孤立して顧みられなかった多くの集落が生まれ、多くの死者が出る所以でもある。俯瞰的に避難民の大集団を見る構図は避けがたく存在している。 
  マスコミ報道は総じて被災地や避難民をひとつのステレオタイプに押し込める上から目線の被災者のイメージを作り上げた。被災者とはこうあるべきとパターン化したステレオタイプの被災者イメージが量産されて行くのだ。

 海外報道――個人としての人間への目線 

 CNNやBBCなどの外国メディアの報道は、上から目線ではなかった。リビアにいたニューヨークタイムズのピューリッツアー賞受賞のニコラス・クリストフ記者、CNNのアンダーソン・クーパー記者ら著名な米国ジャーナリストたちが、すぐさま日本に来て、被災地に入っている。通訳を使う取材ではあろうが、被災者に目線を合わせ、きめ細かく被災者に寄り添い、人間としての心の動きを追い、その心の中に入り込もうとする取材姿勢を感じた。そのうえで、一人の被災者の個性ある人間としての生きざま、生きているその人自身の姿を描写する。 今どう思っていますか、これからどうするつもりですか、何を食べたいですか、何が欲しいですか、などというステレオタイプの質問は決してしない。

 『ニューヨーク・タイムズ』の電子版の写真集は、震災直後から連載が始められたフォット・ルポルタージュというべき報道だった。
津波の引いた海を見て立ちすくむ人、遺体に手を合わせる人、屋根も壁も流されて床だけが残った家に佇む幼い少女、泥の地面に落ちていた写真を食い入るように見つめる若い女性、荒野に泣き崩れるお年寄り、悲しみの深い皺、黙々と遺体を運ぶ自衛隊員の重苦しい顔、瓦礫を片付ける自衛隊員の若者、炊き出しの食事を待つ人々の長い列、地面に掘られた穴に並ぶ棺の列、無造作に置かれた棺の前に座り線香をあげる家族。飼い主がいなくなったペット。
 家主なき家の瓦礫の中で微笑む人形のアップの写真に、私は衝撃を受けた。
 福島第一原子力発電所の無残に破壊された写真も、一連の災害の巨大さを思わる写真だった。
 以上のようなニューヨークタイムズの写真報道は、撮影日時、撮影場所が書いてあるだけで、文章やコメントは何もない。無言の写真の一枚一枚には、死者への鎮魂がこめられ、生き残った者たちの悲しみへの共感。
 しかし後ろだけを見てはいられないのだ。これから生きる希望を探さなければならない。写真が放つ強いメッセージの衝撃は、なまなかの文章や言葉では表せない人間の悲劇を表現していたと思った。そうだ、人間にとって、災害とはそういうものだ、
 世界に発信されたこの写真集は、日本が66年前に経験した太平洋戦争の敗戦をも超えるのではないかと思わせるほど、日本が直面した苦難を映していた。
 同じ大震災報道でありながら、比較すると、日本のマスコミの人海戦術、大量動員のマスコミが束になってもかなわない「ニューヨークタイムズ写真集」の質のパワーに、真実をどう表現するかを考え抜いたフォット・ジャーナリスト魂の強靭さを見た思いだった。
 英語と日本語のハンデキャップがある、日本の大震災と原発事故報道を、写真という無言のメディアによって乗り越えたのだ。さすが、『ニューヨークタイムズ』だと思った。
 3.11以降、テレビ、新聞、雑誌などで大量の震災報道が生みだされたが、日本のマスメディアの報道はセンセーショナルな割には空疎で、何を表現すべきかを問い詰めるジャーナリスト魂が不足していた。
 そこには阪神淡路大震災の部でも指摘した日本的マスメディアの慣れ合いの構図、パターン化した報道スタイル、上から目線、空疎な報道至上主義、被災者との共感の欠如、といった問題点がより鮮明に浮彫になったように見えた。
さらには外国報道と比較してみた時、残念ながら、少数の外国の優れたジャーナリストの仕事に、集団の量で勝負しようとする日本マスコミは、
足元にも及ばないことを知った。
 
以下、近日アップ予定の「緊急リリース版その3」へ続く)



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