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モヤモヤはドライアイスの雲

うちは親がプチ過保護だから、これからやること、今日やったこと、全部言わないとダメかと思ってた。そういう習慣がある。まだ思ってるかも。会うと近況を思い出せる限り全部言っちゃうし。


今日ふと、知り合いの言ってた”終電で集まって始発まで街を歩く”っていうの思い出して、やりたいなぁって思った。でもうちは深夜徘徊なんてしたら危ないって怒られるだろうなって思って、心の中からその案を消した。 
けど、その時、言わなきゃいい可能性に気がついたよ。
家に帰ってきてないという状態は同じなんだから、友達の家に泊まるって言えば深夜徘徊だってできるんだ。確かに。

ただ、もし何かあった時、保護者が誰もぼくの居場所を知らないことが引っかかっている。(もう法律的には保護されない年なんだけども。)
ぼくの心配性な面が、どうにかなってしまったらどうしようと言ってる。

この”どうにかなってしまったら”っていうのは本当に漠然としてて,なんとなくのイメージで言ってる。だから、今だって具体例を上げようとしても何も出てこない。誘拐とか?そんなことある?

実態がはっきりしてないから、より怖いのかもしれないね。幽霊と同じです。


私がよく思う”友達に嫌われるかも”ってやつだって、誰か特定の人を指してるわけじゃなくて、仮想の友達イメージを恐れてるだけだし。

こういうことを言うとこの人嫌がりそう、みたいな具体性を持った忌避じゃなくて、こういうことを嫌う人がいそうだからその性質を持ったぼくは嫌われるに違いない。みたいな。

他にも、遊ぶ約束をしてる時、私は待ち合わせ場所に向かう電車の中でスマホをめちゃくちゃ見るタイプだから人の遅刻するとかついたよとかのLINEに即座に反応するけど、全く既読すらつけない人がいる。
この時私は、その人が約束を忘れてるんじゃないかとか、寝てるんじゃないかとか思ってちょっとだけやきもきしてしまう。

でも、べつにそれはその人が約束をすっぽかすような人だと思ってるわけではないんだよな。
見ていないことと意識がこちらに向いてないことを勝手にイコールで結んでいる。

そう考えるとこの不信感にも似た感情を持つことって、客観視すると相手を全く信頼してないこととイコールになってしまいませんか?

どうにか辞めたい。

漠然とした不信感やデメリットに目を向けて、感情を乱されていると考えると、なんと無駄なことをしているんでしょうとため息が出そうです。

もっと周りにあるものを、個々のものとして捉えるべきかもしれない。
その人の性質とか、考え方とか、性格とか。
それをする楽しさとか、危険とか。

少し不安になるような事実を目の前にした時、それに関わる人/物の解像度を高く保ったまま、事実と人/物を照らし合わせれば、こんな気持ちにはならずに済むんじゃないかなぁ。と思うのでした。

ドライアイスの雲を見てるみたいだ。雲のなかのドライアイスがチラチラと見えてるけど、雲がかかってるから今どこまで溶けてるのか、どんな形なのかわからない。けど、すこし見えてはいるから、わかったような気にもなってる。

雲を吹いて、中のドライアイスを見ることが本質を見ることなのかもしれないね。おやすみなさい。

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