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織田軍その7 六道大軍団長(東海道):徳川家康の家臣団と軍団

徳川家康(松平元康)の家臣団と軍団(与力衆・先方衆)

織田信長に従属する大名。

北条氏康の家臣団←松平家と敵対した幕府政所所司・伊勢氏の一族。

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徳川家康 肖像のつもり。

「家康は岡崎の城へ楯籠もり、御居城なり。」『信長公記』 

※注意:基本、織田家が主人の「主従関係」で徳川軍団を見ています。「清洲同盟」というくらいで、信長様の本拠まで「攻めないで」と挨拶に行ってるわけですから「神君家康公」史観を排除した視点で軍団をみます。
 織田信秀が朝廷や伊勢神宮への寄進などで、朝廷から拝領した「三河守」の言い伝えや、実質支配した三河安祥城主の長男・織田信広の存在、弾正忠織田家は三河支配の「天道」を得る為、冨永・大河内系の貴種・家康を優遇したことでしょう。
のちに、信長直属の奉行が進めた東海道の街道整備、信忠の進めた横須賀城など前線拠点への兵糧の搬入など、「甲州乱入」の下準備などは織田軍団の動きの中でのもので、「家康軍団独自のものではない!」と考えています。
 信長の甲斐平定後、帰還の際に東海道巡検(伊賀平定の際にもやってるイベントです)。徳川領視察というよりも、すでに織田分国の巡検では?
各地の休憩所の茶屋で迎えている領主達(信長により所領安堵されているということ)も、家康家臣という意識は、持っていないのでは?。
1572年「味方ケ原の合戦」で平手汎秀は援軍に来た自分を家康が挨拶しなかったということで侮られたと感じ死んだと言います。
その後、平手汎秀を見殺しにした理由で水野信元と佐久間信盛が次々と追放されました。その原因を作った徳川家康は1580年以降は生きた心地がしなかったでしょう。


東海道の攻防略史(案)


南北朝期に分家の吉良尊義が吉良東条荘を横領。惣領の西条吉良家と150年近く抗争。
1360年代、管領・仁木義長の三河守護代・西郷氏。吉良満貞と同盟し、畠山国清と合戦。

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足利幕府の変遷。
「<足利持氏の乱の翌年>永享11(1439)年、洞院大納言(東山左府)・実熈、三河国大河内に配流さる。富貴の者、松平太郎左衛門尉:泰親金銀を貸し奉り供奉する。泰親の娘、実熈の側室となり、富永五郎・実興生まれる。三河国富永御所(のち左右田家?)。三河山本、尾崎、山崎等は是の子孫也。」『浪合記』から読み。<泰親が誰に相等するか不明です。偽書ともいわれますが、真実を語る部分もあると思われます。参考程度に。><左右田氏が、富永御所と敬称された、洞院藤原氏の後裔のようです。>
三河松平氏は、もともと岩津松平家が嫡流。
「応永33年(1426年)に松平太郎左衛門入道用金が施主」三河国額田郡岩津に若一神社
松平入道道金=松平泰親と同一人物か?

<日野政権>

 1467-1473 義尚15歳までの「将軍代」として後見を約束
寛正2年(1461)近江菅浦湊・大浦湊対立。松平泰親の舎弟・松平益親が、日野裏松家・「押大臣:新将軍代」日野勝光(日野富子の兄:1429~1476)の命令で年貢取り立てに菅浦出兵。
「新将軍代」日野勝光の補佐は、幕府政所執事・伊勢貞宗。
(京都 日野・広橋、本願寺家)
日野勝光 (1429~1476)藤原・「新将軍代」。裏松日野家。政光(重政)の息。兄弟に永俊。将軍・足利義政の室・日野富子の兄。1473年宗全・勝元が死去。義政が隠居し、義尚の後見人に就任。寛正2年、湖北菅浦に代官・松平益親を派遣。息に政資。娘婿に足利義尚。<親鸞を輩出した日野家は代々、本願寺との結びつきが強かった。>
日野富子】 (1440~1496)藤原。母は北小路苗子。兄に勝光、永俊、資治(兼興養子)。妹婿に足利義視。
伊勢貞親 (*)政所執事。貞国の息。将軍・義教の側近。1465年元三河守護・一色氏配下の大庭二郎左衛門、丸山中務入道に反乱を起こさせる。1467年「応仁の乱」に細川勝元と対立し近江に逃走。乱後入京し復帰。三河に所領を持ち、配下の松平信光、戸田宗光(全久)に命じて大庭・丸山を援助し細川成之に反抗させる。三河松平家を家人に雇う。息に貞宗。
⇔▽伊勢貞宗 (1444~1509)七郎・兵庫頭・備中守・伊勢守・入道全室。足利義尚の側近。幕府政所執事家。1471年父・貞親の二度目の出家により政所執事。1473年宗全・勝元が死去。義政が隠居し、義尚の後見人・日野勝光の補佐。1490年隠居。息に貞陸。
松平親氏 (*~1393*)末・信武。室は酒井(坂井)忠則の娘。息に広親、泰親、益親。松平郷、郷敷城主。
松平泰親 (*)太郎左衛門・用金。三河の豪族。親氏の息。異母兄弟に酒井(坂井)広親。伊勢貞宗の家人。息に(松平)信広、(岩津)信光。跡職は信光が継承とも。
⇔▽松平益親 (*)泰親の弟。日野家の家人。寛政年間(1461~1465)三河の援軍を呼び近江湖北の大浦・菅浦を征伐。息に勝頼。<日野家と縁の深い本願寺門徒の多い堅田や金森といったところに松平家は地盤を持つと想像されます。><秀吉が徳川家康の家臣団を羨ましいと発言したのは、日野家家司からの百年近くの古い結びつきが家臣となった武家とあったからということか。>

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管領代・細川成之の三河守護代。 
阿波細川被官:武田東条国氏・戸田氏 →細川晴元の家臣団 
三河守護・一色家臣に牧野氏、波多野(秦野)氏、(石川氏も?)

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一色家勢力図。


鵜殿氏、井伊氏、大河内氏は南朝方有力武将。
足利同族の吉良氏。その遠江代官・大河内家(南朝武家・菊一揆首領)。
朝廷直参(京都守衛)の富永氏(先祖が大伴氏だからか)、武家方足利家直参(旗本)の吉良東西両家の家老・冨永氏。
元・尾張守護の中条氏守護代の三宅氏。
尾張知多・三河に所領をもつ政所執事・伊勢氏(松平氏はその被官)。

以上の有力諸家の狭間で、冨永氏の保護の下で松平氏が勢力を伸ばす。
松平元康が「徳川」を称するのは、外戚である三河の富豪・冨永(トミノカワ)を意識しての(永の意味は川)、徳川(トクノカワ)なのでは。


1461年日野裏松家家司・松平益親、湖北菅浦に派遣される。

<戸田氏の行った三河豪族団の人質集団一行の尾張強奪事件は、今川対織田の図式ではなく、中央の政局、細川高国 対 細川晴元の対立の延長上、晴元 対 三好長慶の図式の中で行われたものでは。細川氏の家老(三河守護代)は戸田氏ですし。織田信秀と三好氏との関係も気になるところです。>
<元三河守護・吉良の分家の荒川義広が、今川義元にとっては忠実な家臣として吉良惣領扱いだったかもですね。松平家も義元によって分裂させられ、東条や能見、大給、桜井など、東西両吉良や今川直参の諸家に別れていたのではないでしょうか。>
<駿河今川氏の同盟者・吉良家の家老・富永氏の縁者が松平氏(土豪から織田信長の天運に引っ張られて大名に)。1563年の三河一揆は、松平家が織田信長の後援で吉良家から独立するという意味があったんじゃないでしょうか。それに、「一揆」というものが、吉良一揆(南朝方・菊一揆後裔)なのか、一向一揆なのか、見極める必要があります。>
<1557年信玄妻の妹(三条公頼の娘)を正室に迎え、1559年正親町天皇の即位費用を負担し門跡(皇族を受け入れ守護不入権を持つ)寺院の当主と化していた本願寺顕如は、三河の一揆以降の1565年に武田信玄と同盟。1566年近江六角義賢と同盟。朝倉義景の娘を教如の室に迎え、織田・徳川に備える。>
<本願寺の門跡寺院の権利と、家康の1566年三河守任官が、のちの本願寺と織田家の抗争につながっていくのかもしれません。家康は最後まで同盟を遵守したというより、どっちみち織田家の保護なくしては、本願寺の圧力により生きていけなかったのかも?ですね。>

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信長様との同盟当時の松平一門の分布範囲はとても狭いものです。
拠点の青緑染めが西三河石川与力の松平衆。緑色が東三河酒井与力の松平衆。
西三河衆は織田家との境界・矢作川沿いに岡崎を中心として南北の縦軸に存在。
鵜殿氏の拠点を囲むように東三河衆(本当に桶狭間以前の獲得領域でしょうか?)。
 ・福釜松平が東三河衆なのに織田領に位置するのはなぜ。
藤井松平信一が1568年の上洛戦に三河衆旗頭として観音寺城攻略一番乗りの軍功をあげますが、
松平各家が織田直属のうえで家康に所属させられた与力だったりしないのでしょうか。
摂津三守護の池田勝正の家臣・荒木村重の台頭のように、信長様に旗頭として引き立てられることで、吉良家陪臣身分から三河守護への道が開けたのではないでしょうか・・・。
後世の家康評にある義理堅いとかでなく、自分が松平の惣領として君臨するため、信長様への忠勤に励んだのではないでしょうか。家康的には信長様の権力を利用していたのでしょう。信長=家康もちつもたれつ同盟です。

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北条氏康の家臣団←松平家と敵対した幕府政所所司・伊勢氏の一族。
かつての三河守護、細川亰兆家の変遷。下屋形が三河守護家。地方でも上屋形、下屋形の主導権争奪戦があったのかも・・。
 細川晴元の家臣団 ・ 一色義貫の家臣団 ←三河守護家

<松平家従来の序列> 

広忠「1541~1549年」期(『形原松平記』)今川支配時代・広忠期の岡崎城正月参賀の席次(親今川義元派)。

桜井松平信定の没年から1538年以前の家格の事と考えられます。
①鵜殿康孝 (*~1542)見次・(八郎三郎は誤リ?)・十郎三郎。信忠の息。清康、三木松平信孝の弟。息に康定。

②西郷定貞 (*)孫九郎。<清員の父・正勝と同一人物か。もしくは叔父の照員か。清員が叔父・照員の養子ならば名乗りは孫九郎となるか。> 

形原松平家広 (*)又七郎。息に家忠(1548~1582)。

大給松平親乗 (1515~1577)和泉守・源次郎。乗勝の息。母は信忠の娘。桜井松平信定の娘婿。息に真乗。

桜井松平信定 (*~1538)次郎・与一・与市・内膳。長親の息。のち義春の息・定忠と席次争い。織田信定の娘婿。息に清定。娘婿に大給親乗、水野信元、長沢康忠、織田信光。<1540年末に今川義元・富永忠安・松平広忠に降伏>

東条松平義春 (*~1538)甚大郎・右京亮。長親の息。息に定忠、忠茂(*~1556)。

東条松平定忠 (*)甚次郎。義春の息(長男)。家督は弟の忠茂が継承する。

長沢松平政忠 (*~1560)源七郎。息に康忠(1545~1603)。

竹谷松平親善 (1485~1531)与次郎・与二郎・玄蕃允。守親の息。今川氏親の娘婿。息に清善(1505~1587)。<今川家の準一門に登用されるが順位は低い。>

五井松平景忠 (*)外記。息に伊昌(1560~1601)。

深溝松平好景 (1517~1556*1561)又八郎・大炊助。息に伊忠(1537~1575)、家忠(1555~1560)。

戸田* (*)丹波守。

▽戸田康長 (1562~1633)孫六郎・丹波守。忠重の息。1567年父の死により家督。後見に戸田吉国。二連木城主。<世代的に無理なので数代前の丹波守のことか。>

<徳川家康期1567年以降の序列>


1567(永禄10)年正月・浜松城「正月御謡」出仕国衆20名席次(親織田信長派)。<1569年掛川城今川氏真の降伏まで反今川連合の団結式か。>

①鵜殿長信 (*~1592)八郎三郎。下郷鵜殿氏。長龍の息。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に藤助。西郡城城主。<長信は、信長から与えられた名前でしょうか。><下郷鵜殿家は深溝松平、竹谷松平、五井松平、形原松平と通婚関係にあり蒲郡に勢力。><鵜殿は江戸期に改易。>

②西郷清員 (1533~1595)孫九郎・吉員。正勝の息。兄に正元。甥・義勝を貢献し西郷家陣代。酒井忠次の妹婿。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に家員。西川城主。<三河の守護代家の血筋として、上位に迎えられているか。嫡流家は兄の子・孫太郎義勝が相続。>

③設楽貞通 (1534~1596)(富永)甚三郎・越中守。貞重の息。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に神三郎兵庫。小川路城。<三河の有力者・富永家の惣領的な扱いとして上位に迎えられているか。>
④東条松平家忠(1556~1581)甚太郎。忠茂(*~1556)の息。深溝松平伊忠の娘婿。1567年浜松城正月御謡に参賀。<今川家の引き立てた東条松平の影響力を考慮しての上位か。>

桜井松平清定(*)内膳・内膳正。信定の息。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に監物家次。<織田家との繋がりを考慮しての桜井松平の上位か。>

形原松平家忠(1547~1582)紀伊守。家広の息。弟に左近。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に家信。<下郷鵜殿氏と同盟。><今川政権下では筆頭。>

大給松平親乗(1515~1577)源次郎・和泉守。乗勝の息。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に真乗(1546~1582)。

五井松平景忠(1541~1593)外記。忠次(1521~1547)の息。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に伊昌(1560~1601)。<下郷鵜殿氏と同盟。>

長沢松平康忠(1546~1618)源七郎・上野介。政忠(*~1560)の息。松平清康の娘婿。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に康直。

竹谷松平清宗(1538~1605)与次郎・玄蕃。清善の息。深溝松平好景の娘婿。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に家清(1566~1611)。<下郷鵜殿氏と同盟。>

深溝松平伊忠(1537~1575)又八郎・主殿助。鵜殿長持の娘婿。好景(1517~1561)の息。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に家忠。娘婿に東条家忠、鵜殿康孝、戸田尊次、松平元勝。<下郷鵜殿氏と同盟。>

戸田康長 (1562~1633)孫六郎・(のち松平)丹波守。1574年元服。忠重(*~1567)の息。吉光の娘婿。1567年父の死により家督。後見に戸田吉国。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に永兼、忠光。二連木城主。<40年代の席次にあるのは叔父または、祖父か?。もしくは、桜井松平と縁のある尾張山崎の戸田氏の可能性もあり。>

本多広孝 (1527~*)豊後守。東条松平義春の娘婿。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に康重。

松井忠次 (1521~1583)周防守。(のち松平康親)東条松平家陣代。1567年浜松城正月御謡に参賀。娘婿に東条松平忠茂。甥に家忠。<東条家の力を削ぐため、のちに独立大名扱い。>

⑮野田(富永)定盈 (1542~1604)菅沼・新八郎・織部。山方三方衆の一家・菅沼定村の息(養子とも)。祖父の代に野田大宮司・富永久兼の跡職を相続。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に定仍。

鈴木重愛 (*)北条・小原重愛・越中守。直重の息。足助鈴木氏の与力。1567年浜松城正月御謡に参賀。市場城主。<本来は足助鈴木氏の陣代か。>

足助信重 (*)足助信重・鈴木兵庫介。重直の息。小里光明の娘婿。武田勝頼の攻撃により落城。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に康重。のち5代・足助康重は本多忠勝と対立し浪人。真弓山城主。

本多忠次 (*)縫殿助。1567年浜松城正月御謡に参賀。

奥平定能 (*)九八郎・美作守・貞能・貞直。東三河国衆。1567年浜松城正月御謡に参賀。

牧野成定 (1525~*1566)新次郎・右馬允・民部丞・政定。氏成の息。牧野貞成の養子。1567年浜松城正月御謡に参賀。息に貞成(のち康成)。牛久保城主。
 以上、20名。織田政権下で有力国衆待遇を約束されていた諸豪族と推測されます。鵜殿氏が筆頭格なのは、三河の旗頭として今川氏真に劣らぬ家格を有する今川一門だからでしょう。駿河今川対三河今川(鵜殿)の名目であったなら、駿河・遠江の今川家臣有力国人も混乱を生じるので、信長様の戦略的な常套手段(斯波義銀、吉良義昭、奇蝶御前、足利義昭、細川昭元、近衛前久、誠仁親王の様な)として、旗頭に祭りあげられたのではないでしょうか。
1540年以前の序列と、新たに三河の有力国人が加わった1567年代の序列として捉える事ができそうです。松平一門の中でも序列に変化があるのは、今川家に対する忠誠度、今川家の中での松平の家格と、織田家・鵜殿家を擁立しての岡崎徳川家の中での松平一門の家格が現わされていると推測できそうです。

 
 2015『徳川家康家臣団の辞典』煎本増夫より(買ってよかったです)
 『武徳編年集成』岡崎衆の丸根砦攻略軍の軍団構成の表を参照させて頂き、新たに作成しました。
家康の旗本軍、正面の正軍、搦め手の遊軍の3隊があるのですが、同姓ながら3隊すべてに配属され分かれる豪族を三河の国衆に、単体で部隊所属するものを与力と考え、家康軍の監視をする義元派遣軍監が存在すると推定した場合、代表的な今川重臣である鵜殿(義元一門)、三浦(宿老)、朝比奈(宿老)が隊長格であろうと考えられます。
とすれば、丸根砦攻撃軍は鵜殿・三浦・朝比奈の与力が含まれていた混成軍なのでは?と解釈できます。

今川家から直参国衆格とされていた(一目置かれていた)29家


石川・加藤・天野・酒井・渡辺・小栗・大窪(大久保)・内藤・本多・赤根。
鳥居・村越・筧・坂辺・平岩・杉浦(三浦、佐久間同祖)・山田・山本・斎藤。
青山・赤松・足立・江原・大橋・川澄・黒柳・近藤・榊原・佐野。

1567年新参の豪族41家


更に1560年から、1567年の正月御謡始名簿を見ることで、三河の武士たちが色々な勢力の狭間で揺れ動き、淘汰されていく様子が判ります。
67年からの新参衆41家では、
大須賀・都築・青木(大須賀与力?)・久松(水野家与力)・森(美濃?)・邨瀬・山岡(南近江瀬田?)・岩瀬、富永、芝田(柴田?)。
菅沼(野田菅沼?)・戸田・花井・渥美(大須賀与力?)・小笠原(高天神)・竹河・稲垣(牧野与力)・牧野・野瀬。
荒川(吉良一門?)・上田・山口(佐久間与力?)・児島(三宅氏同祖)・栗杢・引田・伴(冨永)・蔵地・西郷(大草)・川合。
蘆谷・いがの・片山・浅見(阿佐美)・丹羽(岩崎丹羽)・原・白井・米津・河角・深津・森川(堀部)。

徳川直参というよりは、織田方豪族とその与力衆といった顔ぶれなのではないでしょうか。

1560年から7年までの間で名簿から消滅した国衆


1561年前後の吉良氏・富永氏の乱。1563年~64年にかけての三河の一揆の際にも淘汰される機会があります。
14家、加藤・渡辺・小栗・赤根・坂辺・斎藤・青山・赤松・安立・江原・川澄・黒柳・近藤・佐野。
国衆の中でも、加藤・小栗氏は織田家に近く、渡辺氏は遠江の前線に居たりもします。青山や近藤は織田家家臣団に同名が見えます。その他の諸氏でも尾張国境付近の佐久間氏の与力に付属される者や、有力な水野氏や三宅氏に出仕している者がいるかもしれません。

一色重臣石川家、丹後守護代・伊勢守護代。

三河守護・一色家の家老、北伊勢守護代に石川氏あり。

⇔石川清兼 (*)安芸守・忠成。忠輔の息。三河矢作川河口沿いの豪族。野寺本證寺の大檀那。清康、広忠に出仕。織田方の水野信元と抗争。息に康正(広成)、一政、家成。孫に数正。<小川城の石川家。のちに土呂城を拠点。>


西三河軍団(1569年頃成立)


石川家成→ (岡崎信康)→ 石川数正の軍団
 親今川派 ×親織田信長派。 岡崎信康の成長により親武田派が台頭、家康に謀反計画、1579年粛清。

*石川家成 (1534~1609)彦五郎・日向守。西野石川家。石川清兼(忠成)の息、石川康正(広成)の異母弟。母は水野忠政娘(於大の方の妹)。本願寺門徒の首領、1563年三河一向一揆の際、改宗して家康に忠節。1560年織田丸根砦を今川軍の先鋒として攻撃。1569年遠江衆。遠江国掛川城主となり、西三河衆の旗頭は甥の石川数正に譲る。対武田の前線、佐野郡を維持した。1572年「味方ヶ原の合戦」には掛川を守備し不参加。1580年に隠居。息に康通。娘婿に大久保忠隣。<結果的には数正から惣領の座を奪ったことになります。>

×石川数正 (*1532~1592*1593)伯耆守。岡崎城代・石川康正(広成)の息子。三河額田郡土呂城主。今川家人質随伴衆の筆頭、常に家康に近侍した。1558年の松平元康初陣に従軍。織田家との同盟に尽力する。1563年三河一向一揆に父・康正(広成)と敵対。のち1569年叔父・家成から西三河旗頭を譲渡される。酒井忠次とともに総先手侍大将。1570年「姉川の合戦」に4隊長のひとり。1572年「味方ヶ原の合戦」に7隊長のひとり。岡崎信康の後見人となるが、1579年信康自害により岡崎城主。1582年家康とともに上洛。「本能寺の変」に家康とともに伊賀越えで帰還。1585年徳川家から出奔。秀吉に仕え肥前名護屋城で陣没。息に康長、康勝。<徳川家康の捨て駒・・・。><三河守護一色家の宿老に石川家あり。関連ありでしょうか。><荒川氏の近隣、寺内町土呂を拠点。>

▽石川* (*)小隼人・玄蕃頭。石川康正(広成)の息。兄に石川数正。従兄弟に石川康通。<のちに数正の息・康長が玄蕃頭に任官。>

▽羽太* (*)(秦・畑・旗)・清蔵。石川数正の家臣。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。

▽渡辺* (*)金内。石川数正の与力。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。

⇔↓▽石川春重 (*~1575)四郎・豊前守・道国。徳川(松平)信康の付家老。1575年大賀弥四郎と武田家に通じる。謀反を計画し誅殺される。小川城主。<系図ではみつけられません。都合の悪い人物は家系から抹殺されたのでしょう。>

《個人的感想》  三河・丹後・伊勢の守護一色家の家老に石川氏あり。
三河守護一色家の守護代として由緒正しい家柄だったのでは・・。北伊勢を基盤としていたなら、石川家と(伊勢)一向一揆との深い繋がりも理解できるような気がしますが。

岡崎松平譜代家老・三河国衆 

 石川家に対する目付けか。
1563年三河一向一揆により不満勢力粛清。1579年「岡崎衆」、家康に謀反計画。
↓○▽酒井重忠 (1549~1615)与四郎・河内守。酒井正親の息。1558年の松平元康初陣に従軍。父、正親の遺領を継ぎ西尾城主。石川軍団に配属。高天神城攻略に活躍。「小田原城攻略」に徳川軍の先陣を勤める。相模甘縄、武蔵河越1万石。上野厩橋城主を務めた。

▽酒井忠利 (1559~1627)与七郎・備後守。酒井正親の三男。石川軍団に配属。のち将軍・家光の家老となる。

<西三河 松平一門衆>

 (大給・藤井・能見・佐崎) 元康(家康)世代 元・親今川派=五井・大給・滝脇・桜井・東条。
  ≪赤文字は宗家に叛意を抱えた系統。いかに一門衆の勢力を削いで、本家の権力を高めるかに神経が注がれる≫
(大給)親忠流。<長坂氏から奪取し成立。分家の滝脇松平と抗争。>
⇔大給松平親乗 (1515~1577)松平親乗・源次郎・左近・和泉守。元・親織田派。のち義元直属。大給松平嫡流。乗勝の息。加茂郡大給を領する。桜井信定の娘婿。1530年「宇利城攻略」に先陣の将。1535年「守山崩れ」に長沢松平とともに親・信定派。1555年今川義元の命で蟹江城を攻略。1556年織田方の滝脇松平乗清と合戦。石川軍団に配属。1575年「長篠の合戦」に従軍。息に真乗(1553~1582)。<今川義元の松平分裂策か。><滝脇松平は没落するか。><のち家康により隠居させられた。>

大給松平真乗 (1553~1582)源次郎・源二郎・左近大夫・和泉守。大給親乗の息。三河国額田郡細川城主。石川(家成)軍団に配属。1569年遠江国掛川城攻略後に掛川城主。小山城主。1572年「味方ヶ原の合戦」に従軍。上杉謙信との取次ぎ。1581年「高天神攻囲」に従軍。1582年没。30歳。息に家乗、真次。<のち石川数正軍団から独立し、遠江前線の石川家成専属の与力か><桜井松平の与党を、地盤を継承して力を持つ様子です。家康に常に酷使されます。><1582年に何があったのでしょうか?。明らかに・・・・>

大給松平親清 (*)松平近清。大給松平庶流。大給松平家老職。陣代として大給軍を率いる。息に近正。<松平の各家のキーワードは陣代です。家康が陣代を重用して、やがて独立させて、分裂させている節があります。>

大給松平近正 (1547~1600)松平近正・五左衛門・親正。大給松平庶流の松平親清(近清)の息。大給松平家老職。陣代として大給軍を率いる。石川軍団に配属。1583年大沼城主。1585年秀吉からの勧誘を断る。のち家康直参。息に一生、近次、正吉。<一時、信康軍団に配属されるか。>

▽大給松平為親 (*)主水。大給親乗の息。真乗の弟。1572年「味方ヶ原の合戦」に従軍。

▽大給松平完治 (*~1560)宮石松平。大給松平分家。貞次の息。1560年「桶狭間の合戦」に従軍し戦死。

▽河合重明 (*)久次郎・半兵衛。大給松平家臣。松平真乗の家老。1575年「長篠合戦」従軍。酒井忠次の迂回軍所属。

▽今井* (*)喜助。大給松平家臣。松平真乗の家老。1575年「長篠合戦」従軍。酒井忠次の迂回軍所属。

▽梅村正胤 (*)喜八郎。大給松平家臣。松平真乗の家老。1575年「長篠合戦」従軍。酒井忠次の迂回軍所属。

≪個人的感想≫ 信長が大給の松平真乗を重用していれば、徳川家康の立場がなくなっていたかもしれません。

(藤井)長親流。
藤井松平利長 (*~1560)元・今川家臣。松平広忠に従い、1540年織田信秀の安祥攻略軍と抗争。1560年今川義元の尾張攻めに従い、丸根砦攻撃に戦死。息に信一。藤井城主。<1558年から1560年にかけて尾張品野城・桜井松平家次の与力か。><額田郡戸田氏の戸田重次や、尾張山崎城の戸田直光・直頼とも関係があるか。>

⇔○藤井松平信一 (1539~1624)勘四郎・伊豆守。松平利長の息。1558年の松平元康初陣に従軍。1560年丸根砦攻撃に従軍。父・利長は1560年丸根砦攻略に戦死。石川軍団に配属。1568年義昭の上洛軍に家康の代理として従軍し軍功。京都の治安維持にあたる。1570年「姉川の合戦」に奮戦。吉良家追放後に松井忠次とともに東条城を守備。小牧長久手に本多忠勝の与力。息に久清、桜井松平信吉を養子に迎える。<織田信長様の覚えめでたい武将です。よく直参にスカウトされなかったものですね・・・。>

(能見)信光流。<西郷・大草の家老職家。のち今川家臣。>
⇔能見松平重吉 (1493~1580)二郎右衛門。能見松平嫡流。重親の息。親長の娘婿。松平信光の息(八男)とも。三河松平一門の長老。元・西郷家

(大草松平)家臣。松平清康の側近。今川義元の三河占領に、鳥居忠吉とともに松平家を束ねる。今川軍に従い、鈴木日向守・重辰の「寺部城攻略」に軍功。1558年の松平元康初陣に従軍。息子・重利は1560年に討死。1563年三河一向一揆に家康方。酒井忠尚の上野城を攻略する。岡崎信康の初陣の後見。石川軍団に配属。家康嫡男・信康の具足親。息に重利、重勝。娘婿に石川康正、倉橋政範。孫・昌利。82歳。<信康と係わりを持ってしまっています。>

⇔▽能見松平重利 (*~1560)庄右衛門。能見松平嫡流。1558年の松平元康初陣に従軍。1560年丸根砦攻略に従軍。息に昌利。

▽能見松平昌利 (1560~1613)能見松平嫡流。松平重利の息。石川軍団に配属。1575年遠江二俣城攻略に先陣。後見・重吉は78歳で参戦。息に昌吉。

▽能見松平重勝 (*)重利の弟。甥・昌利の陣代。1575年「長篠の合戦」に従軍。遠江二俣城攻略に先陣。息に重忠。

▽能見松平忠就 (*)三蔵。能見松平庶流。石川軍団に配属。小牧長久手に石川組で従軍。

(桜井)<惣領・家次が尾張品野城主として不在の為、桜井を領するか。>
▽桜井松平忠頼 (*)左馬允。桜井松平庶流。石川軍団に配属。小牧長久手に石川組で従軍。

(佐々木・佐崎)
佐々木松平直勝 (*)(佐崎)・三蔵。元・織田信秀、今川義元家臣。1547年広忠に暗殺された佐々木(佐崎)松平忠倫の一門。忠倫の弟。1549年9月尾張の所領から三河に撤退。今川義元に所領を安堵される。1560年「桶狭間の合戦」以降、家康に従う。石川軍団に配属。1563年加茂郡大野砦主将。1563年三河一向一揆に家康方。<佐々木には戸田一門も拠点を構えていたようです。>

《個人的感想》 美濃の豪族、東(千葉)氏の与力に酒井家あり。千葉氏の内紛に関東入りし、主家を裏切り古河公方に出仕した酒井氏あり。
三河の酒井家は千葉氏の家臣として派遣され土着した酒井氏では?。
清洲織田大和守家の家老、坂井(酒井)大膳は清洲落城の際、今川家の駿河に出奔。ということは元々、今川の守護代として清洲に目付けとして派遣されていたということでは・・。
 興味の尽きない酒井(坂井)氏です。

 織田家の同盟者で 家康の与力

<西三河 与力国人衆>

○有力国人(播磨表での秀吉に対する黒田や浮田のような関係の与力。)
 1569年今川氏真の降伏と共に徳川両旗頭体制(武田の軍制を模倣)。
 織田信長、武田信玄の緩い同盟関係の下に両属していた国境周辺の諸豪族が、信長と信玄の決別によりどちらの陣営に残るのか選択が迫られる。
石川家成 → 石川数正軍団
○内藤清長 (1501~1564*)弥次右衛門。碧海郡上野下村城主。弟に清正(清政・忠郷)。内藤家長の父。甥に正成。1542年上野城の攻防、織田家撃退に弓で軍功。1563年三河一向一揆に一揆方。息に家長、信成。<藤原道長の後裔とも。><信長の四老の内藤氏は、当時の信秀の西三河への影響力からみて、三河内藤氏なのでは?織田家に従う内藤氏もいたのでは?。>

○内藤家長 (1546~1600)金(喜)一郎・弥次右衛門。清長の息。碧海郡上野下村城主。幼少より家康に近侍。1560年織田丸根砦攻略に従軍。家康の「家」の字を拝領する。1563年父・清長は一揆に参加。酒井忠尚退去後の上野城主。常に石川軍団の先手を務める。1570年「姉川の合戦」に奮戦。1572年「味方ヶ原の合戦」に殿軍を務める。1575年「長篠の合戦」に一手役。甲斐常光寺城主。1590年関東移封に伊豆韮山1万石。1600年伏見城死守を命じられ鳥居元忠とともに戦死。息に政長。<敵対した父の責任か、徳川家康の捨て駒・・・。>

▽内藤忠村 (*)甚五左衛門・忠郷。内藤家長の従兄弟。1575年「長篠の合戦」に従軍。

×内藤正成 (1527*28~1602)甚一郎・四郎左衛門・政成。幡豆郡羽角の豪族。内藤清正(清政)の弟(息とも。養子か?)。弟に忠政。松平広忠の側近。のち叔父・内藤清長の家臣。弓の名手。1560年大高城攻略に活躍。1563年三河一向一揆鎮圧戦に軍功。石川軍団に配属。武勲を織田信長から絶賛される。1590年関東移封に5000石。のち徳川16神将のひとり。息に正貞。

⇔平岩親吉 (1542~1611)主計頭。家康の人質時代からの側近。石川軍団に配属。1572年「味方ヶ原の合戦」に奮戦。徳川岡崎信康の後見人(守役)になるが失脚。1582年甲斐衆府中を支配。江戸時代徳川16神将のひとりに撰ばれる。<今川義元が東条松平に付けた平岩氏あり。>

(鈴木党) 元・中条家被官。
小原重愛 (*)鈴木重愛・越中守。小原城主。石川軍団に配属。1567年浜松城正月御謡に参賀。1570年「姉川の合戦」に奮戦。高天神城攻囲に従軍。のち1592年の転封に従わず没落。<松平郷の松平氏も関東移封には従いません。>

⇔足助重直 (*~1584)鈴木重直・喜三郎。足助・真弓山城主。松平清康の頃から岡崎松平家臣。1564年今川家から離反。1567年浜松城正月御謡に参賀。1571年武田軍の攻勢に居城を奪われる。岡崎信康の後援で真弓山城を回復。石川軍団に配属。息に信重。<井伊谷三人衆にも鈴木氏あり。>

⇔鈴木重辰 (*)日向守。高橋荘を巡り松平親忠と合戦。今川配下、のち織田家臣。日向守・重辰は清康と抗争。1558年重辰(重教)は今川家から離反。1558年義元の命を受けた能見松平重吉・岡崎松平元康の攻撃を受ける。1560年「桶狭間」の後に松平家と抗争。寺部城主。1566年佐久間信盛の攻撃で降伏臣従。のち石川軍団に配属。1572年「味方ヶ原の合戦」に奮戦。<重辰と重教は同一人物でしょうか、清康の代からの関係なので鈴木家は親子二世代のような・・。><西加茂郡の領主は、1582年までは織田信長に付属していたのかもしれません。>

⇔▽鈴木重教 (*~*1567)寺部重教。1566年佐久間信盛の攻撃で駿府に落ちる。のち駿河駿府にて戦死。寺部城主。
酒呑重信 (*~1574)鈴木重信・次郎左衛門。重興の息。石川軍団に配属。<井伊谷三人衆にも鈴木氏あり。出自は酒呑流鈴木氏といわれる。>

嶋田* (*)島田・平蔵。矢作城。石川軍団に配属。<織田家の台所奉行、島田秀満との関係はあるのでしょうか。>

山田正勝 (*)平一郎。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。岡崎まで敗走する。1575年「長篠合戦」従軍。<美濃・尾張に分布する美濃源氏の山田氏一門か。><織田信忠の弓頭に山田勝盛あり。>

⇔○青山忠門 (*~1572)喜大夫・忠義。三河青山氏惣領家。青山忠世の息。松平広忠家臣。今川義元の三河支配では今川直参。1560年「桶狭間合戦」後は徳川家康に従う。1563年三河一向一揆に岡崎城を防衛。石川軍団に配属。1572年武田軍の侵入に岩津村にて戦死。息の忠成は江戸町奉行。<織田の宿老の青山家となにかつながりが?><織田家の四家老、林・平手・内藤・青山のうち青山は、安祥を攻略し三河進出を果たした信秀に従う三河武士だったのでしょうか。>

<浪人衆>
中河土* (*)上方浪人衆。1572年「味方ケ原合戦」に弟とともに従軍。<吉良家滅亡の為に浪人した大河内の一門のこと??>

《個人的感想》 岡崎(松平)信康の擁立者たち、
織田家からの独立を目指した勢力(旧今川家臣団?)が、どの辺りまで徳川家臣団に潜伏していたのか・・。
家康の嫁「築山殿(今川一門)」は、今川氏を復興させたかったのかもしれないですね。
 斎藤義龍が、自分は土岐の血筋だと、父に謀反を起こした事例と似たことが、三河でも起きていたのでしょう。


1575年頃:東海道(東)方面軍。<滝川一益を旗頭とする東海道(西)方面軍と対照となるか。>
1570年代の徳川家周辺勢力図
<三河・遠江を完全掌握しているわけではない。>



1581年甲州乱入に備え織田信長が牧野城に兵糧投入。織田信忠軍団の対武田軍防衛ライン。

画像11

関東公方と幕府の抗争に美濃・東(千葉)家家老として参戦した酒井氏あり。
 九州探題:一色・今川・渋川氏、肥前守護。千葉・高木・西郷(菊池)・河尻・宇都宮ほか、九州侍が従うか。*遠江の横地・勝間田・大河内は斯波家家臣(同盟者?)でもある。

⇔酒井忠尚 (*~1563*)康忠の息。甥に忠次。1563年三河一揆の頭領のひとり。三河国上野城主。<酒井家の惣領か?。><上野城をめぐる内藤清長との関係が気になるところです。>

▽大原* (*)左近右衛門。酒井忠尚の与党。

▽今村* (*)伝次郎。酒井忠尚の与党。

  酒井正親 → 酒井忠次の軍団 
≪いかに松平一門衆の勢力を削いで、本家の権力を高めるかに神経が注がれる。高天神・小笠原家もライバル。≫

酒井正親 (1521~1576)雅楽頭・政家。松平清康、広忠、三代に仕える。石川清兼の娘婿。1549年今川領駿府入りに供奉。1558年の松平元康初陣に従軍。大高城攻略に小荷駄奉行。1563年配下の菅沼藤十郎・定顕が佐崎村の兵糧を徴収したことから三河一向一揆勃発。1569年石川軍団に配属。のち西尾城主。尾張・三河国境の抑え。息・重忠。<酒井雅楽頭家惣領。><室町幕府の奉公衆として鎌倉公方討伐に東千葉氏が派遣され、その与力に酒井氏。のち古河公方に従った酒井家あり。大須賀氏とともに千葉勢力に関連ありでしょうか。>

*酒井忠次 (1527~1596)(吉田)・小平次・小五郎・左衛門。井田城主。酒井忠善の息。松平清康の娘婿(家康の叔母・碓井姫)。家康の15歳年長の叔父。1558年の松平元康初陣に従軍。1563年「三河一向一揆」鎮圧に軍功。1564年東三河の拠点、吉田城の城主。東三河の旗頭。1569年石川数正とともに総先手侍大将。1570年「姉川の合戦」に4隊長のひとり。1572年「味方ヶ原の合戦」に7隊長のひとり。1575年「長篠の合戦」に別働隊。軍功を挙げる。1579年織田家に使者。岡崎信康の誅殺計画を相談。1582年家康とともに上洛。「本能寺の変」に家康とともに伊賀越えで帰還。江戸時代徳川16神将のひとりに撰ばれる。1586年秀吉から京都に隠居領を貰う。70歳。息に家次。<徳川家康の捨て駒・・・。><酒井左衛門尉家惣領。><織田信長様の覚えめでたい武将です。よく直参にスカウトされなかったものですね・・・。>

▽酒井忠域 (*)下総守。忠次の弟。井田城主。<事績、詳細不明。>
▽石原* (*~1572)十度右衛門。酒井忠次家臣。1572年「味方ケ原合戦」に従軍、戦死。

岡崎松平譜代家老・三河国衆  

酒井家に対する目付けか。
1563年「吉良・荒川」ら大名・三河一向一揆により不満勢力粛清。

○↓石川康通 (1554~1607)長門守・左衛門大夫。石川家成の息。1573年武田勝頼と高天神城を巡り抗争し武名。父の隠居により遠江掛川城主。高天神城攻略に活躍。1580年父の隠居により家督継承。1582年家康とともに上洛。「本能寺の変」に家康とともに伊賀越えで帰還。関東移封に上総国成戸2万石。<酒井家次の3万石よりも少ないです。家康さん・・。>

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