よし、ボートだ!第5話

黒のサテン地のシャツはエジプトの神様も頬を赤らめそうな派手な縦基調のプリント。時計もバックルも金ピカだ。
黒黒とした頭髪は強い香りの整髪料で固められ、大ぶりの黒縁メガネには薄い紫色のレンズが入っている。
クロコだかオストだかのクラッチバッグに、よく磨き込まれた黒革のウィングチップ、ノッシノッシと近づいてくる。

「社長」だ。

どう見てもスジ違いの方にしか見えない。できることなら関わりたくないと皆が一同に声を揃えるタイプ。

それが「社長」だ。

「おぉ、どうだい、今日の具合は、」
ちょっと荒れてますよ。
「そうかいそうかい、センセはどうなんだ、うん?」
まぁ、ついていけてます。
「センセは固いからなぁハッハ、じゃ、また」

社長のご出勤はいつも6Rのスタート展示が終わったあたり、いわゆる重役出勤だ。

彼は僕のことを「センセ」と呼ぶ。
僕の職業を知っている訳ではない、買い方がややこしい、話しを聞いているとまるで中学校の先生みたいだ、と評されてから「センセ」になった。

僕も普通なら出会わない、と言うより避けて通るタイプのこの男と、知り合ったきっかけは例のトシユキ君だ。
人懐っこくて不思議な雰囲気のトシユキ君は「おーい、くまさぁん、この人、しゃちょうなんだって~」といった感じで彼を紹介した。
どうもどうも、いやこちらこそどうもどうも・・少々気まずい雰囲気で三人で観戦した。いや、気不味いのは二人、トシユキ君はいつも通り、ふわふわしていた。

時がたち、多少馴染んできたころ、レース終わりに一杯飲もうか、という話になった。トシユキ君もふくめて6人で居酒屋へ向かう。
トシユキ君は例のごとく誰彼構わず友達になってしまう。不思議な青年で、のしかかって来られても嫌にならない。実際この時の6人をくっつけたのも彼だった。

「社長」は本当に社長だったが、現役ではない、廃業したのだ。そもそも九州の大牟田近郊の生まれである。親はあたりでは名士と呼ばれる実業家で、食品加工の会社をメインに何社か経営していたらしい。

「社長」は当然、なに不自由無く育てられた。次男だったので、それこそ跡目の心配もせず、気ままに育った。

高校を出てふらふらしている時に、博打と出会う。高校の先輩で地元に残っているのは、漏れ無くホンモノという環境だったらしい。簡単に釣り上げられて、花札、チンチロリン、丁半、ブー麻雀と質実剛健な鉄火場に身を置いていたそうだ。
命からがら親に泣きついて、どうにか身をかわした事も一度や二度では無かったらしい。不肖の息子とは彼のことだ。


そうこうしているうちに、父親が倒れた。肝臓だった。今でこそ対処の幅は拡がっているが、当時としてはお手上げだった。遺言は「真っ当に生きて、兄貴を助けろ」だったそうだ。心、入れ換えざるを得なかった。

兄貴は、秀才だったが身体が弱かった。
それもあって、ハードな出張が続く営業部門を率いることになる。九州一円はもとより、広島・大阪・東京と、彼云わく「死にものぐるい」で働いたそうだ。
おかげかなにか業績は右肩上がり、数年後にはグループ全体で倍になったそうだが、これは眉唾だな、信じないでおこう。もう随分飲んでいる。

順調は不調の裏返し、兄貴が倒れた。厄が開けた途端のことだった。


社長の器ではないことは承知していたそうだ、ゴツイ気配の持ち主にしては、随分と謙虚な話である。

40歳手前で「社長」は社長に就いた。


(続く)



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