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人生が変わった瞬間

中学生の時、母が新しいシャンプーを買ってきた。
「ドラッグストアで安売りしてたの、今使ってるシャンプー切れたらこれ詰め替えてね」

私はリンスがめんどくさいので、父の使っているスーパーの安いリンスインシャンプーを勝手に使ってはドライヤーをしないで寝て、スーパーサイヤ人のような寝癖で朝を迎え、学校で寝癖のすごい男子がイジられているのを見て、勝手になんだか気まずくなるようなことが多々あるくらい、シャンプーには無頓着だった。

そしてシャンプーが切れたので、TSUBAKIの容器に母の買ってきたHIMAWARIの詰め替え用を入れて、いつも通りシャンプーをしようとした瞬間、私は衝撃を受けた。
なんと、シャンプーの色が透明だったのだ。
白濁色で、少し色にむらがあって、マーブルで、ずっと見ていると目が回りそうな見た目をしていたシャンプー達を今まで使っていた私は、シャンプーに色がないなんてありえないと思っていた。
しかし、シャンプーを手に出すと、手のひらの生命線が綺麗に透けているのだ。なんて美しいんだ。多分、初めてアメリカ大陸を発見したコロンブスも同じ気持ちだったと思う。
oh,yeah...amazing....!と思った。私の中のコロンブスは光悦とした表情を浮かべていた。
間違いなく、その瞬間私の人生は変わった。

私の人生は、いや、この世界は、透明シャンプー以前/透明シャンプー以降 に分けられるだろう。間違いない。そう思った。

そして私は、馬鹿みたいな量のシャンプーを出して、とんでもなく泡まみれに、モコモコになりながら頭を洗った。その姿はさながら、葉加瀬太郎のようだった。

それからというもの、私は手のひらの上にある透明のシャンプーに映し出される、微かな光の反射を見ては心を躍らせ、頭を洗っては葉加瀬太郎のようになる日々を繰り返していた。

しかし、さすがに毎日透明シャンプーと顔を合わせていると、それは1つの消耗品としての認識となっていった。美しいものとしての認識からは、完全に外れていたのである。

そして、いよいよシャンプーは切れてしまった。しかし次の詰め替えもHIMAWARIであったのでなんの躊躇もなく詰め替え、シャンプーをプッシュした。
なんとその時、たしかに白濁としている液体が私の手のひらには存在した。
ショパンの別れの曲が流れ、私と透明シャンプーは、パトラッシュとネロのような別れを迎えた。
本当になぜだか分からないけど、私が鼻血を出していた時に、ティッシュを取ってくれたと思ったら自分で鼻をかみ出したおばあちゃんの姿を思い出した。
シャンプーが変わっても、頭を泡まみれにして洗うくせはもう完全に染み付いていて、それは余計に悲壮感を掻き立てた。その姿はさながら、ションボリ葉加瀬太郎であった。

どうやら同じHIMAWARIでも、幾つか種類があるようだった。だったら母に透明の方を買ってきてもらうよう頼めば良い話なのだが、私はそんな真似はしたくなかった。別れを味合わないと、どんなに美しく大切なものでも、日常に溶け込んでしまうことが分かったからである。

今に至っては、詰め替え3回に1回おきくらいで透明シャンプーに出会うことができる。織姫と彦星が出会える確率と比べたら充分すぎるほどではあるが、たまに出会えるということによって毎日のシャンプーに少し彩りが加わる。そして今日も、メロディを奏でるかのように優雅に頭を洗う。

その姿はさながら、ヴァイオリンを演奏する葉加瀬太郎のようだった。


 別れの曲/フレデリック・ショパン










葉加瀬太郎で画像検索をして、葉加瀬太郎の顔をはじめてまじまじと見たら、葉加瀬太郎ってこんな顔だったんだぁ、、と思った。
葉加瀬太郎さんがめっちゃエゴサする人だったらどうしよ。謝っとこ。
葉加瀬太郎さんをこんな安易な使い方してすみませんでした。

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