俗っぽい

保育園の送迎
洗濯掃除
食品の買い物
献立決め
ゴミ出し
オムツ替え
寝かしつけ

私の生活をこうやって書き出してみると、なんか俗っぽい。
すごい生活感にまみれている。
毎日同じ家事育児をやっている。
このルーティーンをベースに、日によっては食品以外のショッピングや整骨院への通院が入ってくるが、それらももれなく俗っぽい。
ありふれていること、平凡なこと、という感じ。


「俗」の反対は「雅」らしい。
どうにか私の生活に雅っぽい要素がないものか。
映画や劇を鑑賞しに出かけたり、習い事をしたり、おしゃれして都内へ出て友人とランチしたり、なんとなくキラキラした感じ。
これを雅っぽいと呼ぶにはなんとなく引け目を感じる。
私が求めているのは「非日常感」というべきかもしれない。

非日常要素があれば、その日の思い出として刻まれる。
日常要素しかないと、なかなかその日を覚えておくのは難しい。いつもより少し料理が美味しくできた日、洗濯を失敗してしまった日などは覚えておけない。まあそういう日も素敵ではあるんだが、時間があっという間に過ぎてしまう気がする。

非日常要素がある場合は、「〇〇した日」と覚えておけるし、時間を区切ることができる。
「2歳頃の息子の様子」と言われてもすぐに具体的な話はできないが、「2歳頃に鉄道博物館に行った時の息子の様子」と言われれば「電車模型を指差して、覚えたての新幹線の名前を言いながら楽しそうにはしゃいでた」というふうに説明できる。

親としてはこどもの成長過程をできる限り覚えておきたい。
この瞬間!と思った時点でセーブができて、あとからいつでも容易に思い出せることができたらなとよく思う。
それはこどもに限ったことではなく、自分のことでも感動したり素敵だった瞬間は同じように思う。

自力で鮮明に思い返すことは難しいため、写真や文章で残すことになる。
とくに写真・動画に頼るウエイトは大きい。
手軽に残せるし、見た時に思い出させる力は強い。

でも、せっかくなら?自分の脳内で記憶しておきたいなと思う。
こどもと笑って電車を眺めた幸福感、
久しぶりに読書をして違う世界線を体感した感動、
季節の変わり目の空気感。

今の生活において、日常要素と非日常要素は9:1くらいの割合だと思う。
だけど、記憶に残っている数は3:7くらいだと思う。

人生は圧倒的に日常要素で構成されているのに、記憶に残るのは非日常要素の方が多い。
だから親はこどもに「たくさん思い出作ろうね」と言って旅行に連れていきたいのだ。
自分のためにも、こどものためにも。

それはきっと常日頃から無意識に感じているのだ。
だから俗っぽい生活が続くとこういうふうに嫌気が差して愚痴ってみたり、非日常要素が恋しくなったりするのではないか。


でも、こうやって立ち止まって文章を書いて残すことは、小さな非日常要素でもある。
愚痴りつつも小さなセーブをしている。
すっかり俗っぽい生活に浸かっているものの、今はそんな生活がかけがえのない時間に思えるよ、という自分の気持ちをセーブしている。
いつでもここに戻ってこられるように。
こどもの世話に追われる時間も無限ではなく、いつか気がついたら終わってしまうものだと思うから、あとから体感できるようにセーブしたいなと思った。

文章を書くというのはありがたいことだなとしみじみ思いました。



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