許されたい

「許されたい」

自分の考えや行動のおおもとになってる信念だな、と最近思う。

僕は小1から中1くらいまで、学校のいじめっ子の標的にされ続けていた。

いじめが無くならないのは、いじめられる側に原因があるのでは無く、
いじめる側に「いじめたい欲求」があるからだ、みたいな話をよく聞く。
いじめたい人間は、いじめやすい奴が居ないかと常に周囲を嗅ぎ回っている。
僕は昔からお調子者で、目立ちたがりで、浮いた行動を取りがちで、勉強には真面目で、運動が苦手で、音楽が得意で、弱そうな見た目で、
今振り返れば「いじめられやすい要素」を十分すぎるほど持っていたと思う。

気付けば僕は、
「ありのままの自分を出したら暴力や悪口を言われる」
「皆と違うことをしたら笑われる」
「僕は自分の名前がついた菌を持っていて、手で触れたものを穢してしまう性質がある」
そんな価値観が心の奥に染み付いていた。

誰も自分に興味なんて無いんだと思い込んでいた。
話に自分だけついていけないと、周りの目を過度に恐れた。
分からないことを分からないと言えなかった。
体育の授業は生き地獄だった。
その点、勉強は楽なもんだった。
何をすべきかが明確で、覚えろと言われたことを覚えたら先生に認めてもらえるのだから。
それに、生徒と同様に先生に怒られるのも怖かったから。
僕の真面目さの根源は「恐怖」な気がする。
先生にやれと言われたことをやってこないなんて、怒られない方法が分かってるのに実行しないなんて、あり得なかった。

でも、勉強ができることで周りから浮くのも怖かった。
授業内で自己採点するタイプの漢字テストで、満点だったのに先生が「満点だった人ー?」と聞いた時に黙っていたりした。
数学の授業で、僕が難しい質問に答えた時に「お前いかつ!」みたいな声が生徒の中から聞こえた。
中学までは特に、そういう風潮あるよね。勉強できすぎるやつおかしくね、みたいなの。
その生徒は多分悪意は無かったんだけど、僕にはその言葉が刺さって「今日は手を挙げすぎた…」と後悔した。

それから、他人に利用されるのが嬉しかった。
誰かに自分の持ち物を貸したり、ノートを見せたり、勉強を教えたり、パシられることを僕は喜んでやった。
良かった自分には存在価値がある、と。
今後何かやらかした時の貯金になる、と。

「自分に悪意が向けられていないこと」であれば、大抵の嫌なことには寛容になったとも思う。
台風で登下校が大変とか、
先生の授業が分かりにくいとか、
書類が手書きと印鑑でめんどくさいとか、
コロナであらゆる活動が制限されるとか、
自分のせいじゃなければ自分がいじめられることは無い。
自分に悪意が向けられてないなら安心だ。
自分の力の及ばない事態はもう仕方無いんだから、受け入れるか、これからどうするかを考えればいい。
簡単な話だし、「いじめられない」んだからなんて幸福なんだ。

そんな風に、いつしか僕は
「自分が許されているかどうか」が、幸福の大きな基準になっていった。

今では、自分の周りにいる人間も大人になったし、
世界には色々な人間がいることも知った。
人は大して他人に興味ない、ということにも気付いた。
その上で、どう振る舞えば大丈夫かということを段々学習し、
他人との関わりが昔よりは怖くなくなった。

でも、今でも他人の目にはずっと怯えているし、
「今この状況で自分に存在価値があるかどうか」を常に気にしているし、
ちょっと笑われたり取り残されると何日も引きずって愚痴ツイートが止まらなくなる。
常に「許されたい」と願い、「許されているかどうか」を気にし、「許されるための行動」を取ろうと必死だ。

自分に悪意が向けられず、許されているなら、それだけでお釣りが来るくらい平和な世界だ。


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