京都日帰り弾丸旅行

伯父が亡くなった。

伯父は親の兄、叔父は親の弟らしい。
ので亡くなったのは伯父。

一言で言うと病気。
まだ60そこらだったからお若かった。

そんなに沢山関わりがあったわけでは無いけど、
僕の奨学金の連帯保証人をずっと引き受けてくれてくれていて、とってもお世話になった人。

伯父の奥様が喪主を務めていた。

奥様の話を聞いてた時、
「最後の1ヶ月間は緩和病院に入って、ずっと一緒に過ごすことができて良かったです」
という話の所でちょっと泣きそうになってしまった自分にビックリした。


その時に感じたことがありまして…。
忘れたくないのでnoteに殴り書き。

「大人」になってから、毎日が本当に目まぐるしい。
それ故か、人間らしさも記号的に処理されている。


最近はやりたいこととやるべきことで予定が埋め尽くされている。
学校も会社も私生活も、今日は何をする、何ヶ月後までに何をする、何年後までにどうなってる、みたいなのがもう敷かれている感覚がある。
レールとかステップとか言われるものが。

これは凄く良い事でもある。
充実してるし迷わない。

けど、「子供」の頃ってもっと真っ直ぐで全力だったなあって思う。
まあ当時の方が世界が狭くて時間も体力もあったから、というのもあるだろう。

僕はこういう儀式の時に一族が大集合するのが結構好き。
なんていうか、同窓会みたいで(?)
あと困った時は仲間だぞ、みたいな感じがして。

お盆とか正月に集まったりもできるけど、冠婚葬祭の類もかなりの優先度で皆が集まる出来事だ。

でも、それもなんか記号的。
スケジュールがしっかり決まってて、やるべきことをサクッとやって解散。
なんか昔より、記号的。

まあ、大人って忙しいから。
忙しい中で時間を作って関係性とか文化?を維持するための、最善の方法だと思う。

現に僕も、弾丸で東京から京都まで無事に会いに行けたわけだし。

仮にやってることが全く同じだとしても、
人間らしさを記号的に処理して、
果たして後悔せずに終えられるのか。
多分これは、何をするかじゃなくて気持ちの問題。
そういう意味では、ただの気の迷いかもしれないけど。

奥様の話を聞いていてふと、
お2人の最後の生活を、もし自分と自分の大切な人だったら、と置き換えて想像をしてしまった。
そしたらこんなことを感じて、泣きそうになった。
後悔したくないなあ。


終わったあと、帰りの新幹線の時間まで両親とちょっと観光もできた。
思えば家族旅行も何年もしてなかったし。
疲れたけど良い機会だったかも。

(ちなみに弟はマジ○ルミライのライブに行っていたので欠席でした。いいぞ弟。10代はそれで良い。)

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