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読書と街歩きで理解する横浜中華街

横浜中華街についての書籍2冊を読んで横浜中華街の街歩きをした。特に人人々の生きる逞しさ、共生の知恵という観点から、印象に残った個所を現地の写真とともに紹介していく。読んだ本は「開国日本と横浜中華街 西川 武臣・伊藤 泉美 著」、「落地生根 横浜中華街物語 読売新聞社横浜支局 著」。前者が横浜が開港していくまでの中国人との交流、開港したあとの中華街の成り立ちについて説明、後者がその横浜中華街における人々の暮らしについてのインタビューをまとめたものになっている。
※文脈が理解しやすいように一部文言を追記、簡素化、また記載の順序を入れ替えたりしています

開国日本と横浜中華街 西川 武臣・伊藤 泉美
落地生根 横浜中華街物語 読売新聞社横浜支局

「開国日本と横浜中華街」

ペリー艦隊は1853年、1854年に横浜に来航、日本に対しアメリカとの貿易関係を開くことを要求した。ペリー艦隊の来航は日本人の国際化を進める大きなターニングポイントとなったが、ペリー艦隊の来航に際し、一人の中国人が日本人と積極的に交流したことは案外知られていない。二度目のペリー艦隊来航時、乗組員のなかに最も日本人に親しまれた中国人 羅森がいた。羅森は通訳兼書記官として艦隊の乗組員となっていた。中国人の場合、筆談をすれば日本人と意思を通わすことができ、多くの日本人が羅森と親しく交際した。彼は弁髪で、詩文が達者で字がうまいことが記されている。小田原藩士の手紙にも、羅森は日本人の求めに応じ、扇子に即興の詩を書いたとある。

ちなみに、吉田松陰はペリー艦隊が帰国の途中に下田に立ち寄ったペリー艦隊のポーハタン号に密かに乗船し、羅森の上司であるウィリアムズと会っている。吉田松陰の回顧録によれば、松陰は筆談でウィリアムズと話し合い、アメリカへ行きたいと述べている。また松陰は羅森に会いたいと要求している。羅森の名前は長州藩の一藩士であった松陰にまで伝わっていた。

1859年7月の横浜開港当初より中国人は欧米商会の買弁をはじめとしたスタッフとして横浜居留地に進出してきた。1860年、アメリカのハード商会 F・フィールドが着任した時、商会にはすでに中国人スタッフがいた。買弁、金銀鑑定士、倉庫係、と雑用係である。フィールドはそのキングの中国人スタッフに相当な不満を抱いている。例えば、「何一つ私のために仕事をせず、両替で設けているだけだ。彼らを追い出そうとしているが、出ていこうとしない。」。当時外国商館で働く中国人の場合、買弁は商館と契約するが、金銀鑑定士や倉庫係は買弁が面倒をみる、フィールドも倉庫係は商会から給料は支払われず、自分たちの裁量で儲けていたと伝えている。フィールドも中国人の存在の必要性は十分認識しており、「金銀鑑定士か買弁一人、倉庫係二人、クーリー二人が必要だ」「秤量を理解している者がほしい」「生糸がわかるシルク・ボーイが欲しい」と、度々中国人スタッフを要請している。しかし、いろいろ懲りたらしく、「彼らが自分たちの商売をしないようにできれば本当によい。彼らを多くの時間を自分たちの商売に費やすからだ。そうなると本当に厄介だ」と記している。

1871年の日清修好条規締結までは両国間に条約はなかったが、条約を締結した各国の人々に居住と経済活動を営むことを許可した居留地に、中国人が存在できる法的根拠はなかった。神奈川奉行では、条約国の船で来航し、その国の関係者であると申告した場合には、実際は他の国の者に見えても、上陸させないわけにはいかず、事実上中国人の入国・上陸は黙認状態にあった。

1867年、「横浜外国人居留地取締規則」が制定され、神奈川奉行において名籍を取り調べるため、「籍牌規則」が制定された。これによって、横浜在住の中国人は神奈川奉行に氏名・職業・住所などを届け出、手数料を払って籍牌(住民登録)を受けることが義務付けられた。横浜在住中国人の住民としての身分が公なものとなった。

横浜に居留地が開設され、多くの外国人が生活するようになると衣食住の様々な分野で西洋的な文物や技術がもたらされた。例えば、洋館、ペンキ塗装、西洋家具、ピアノ、英字新聞、洋服、レモネードなどである。これらの新しい文物やそれをつくる技術は、西洋人がもたらしたと同時に、実は中国人が伝えたものである。居留地の整備が進み、外国商館を建てることが必要となってきたが、幕末の日本では西洋建築の技術を習得した大工はいなかった。そうしたところへ、中国人の大工、塗装工、レンガ工、ブリキ工、といった職人がやってきた。彼らはすでに香港や上海で西洋近代建築に携わった経験を持っていた。当時の新聞などには、中国人経営の工務店、塗装店の広告が多く掲載されていた。

横浜中華街の牌楼
週末 賑わう横浜中華街

1872年、横浜港に入港中のペルー船マリア・ルス号で中国人が虐待を受けているとの情報が入った。中国人たちが乗船したのはマカオであり、彼らはペルーに送られようとしていたが、脱走した中国人が虐待をイギリス側に訴え、外務省と神奈川県は、中国人虐待事件の解決に向けて奔走することになった。神奈川県権令(神奈川県知事に相当)の大江卓が裁判長となり、大江は西洋的な法律である万国公法と日本で制定されたばかりの人身売買によって国民が海外に送られることを禁止した法律を活用しながら、人道的な判決を下し、中国人の解放という目的を達成した。この裁判は中国人を救済することを目的としながら、結果的に日本が司法の面で近代化していく能力を証明した裁判でもあった。しかし、事件が解決したころから、日本が急速に西洋化し、その過程で一部の日本人がアジアの諸国と国民を蔑視するようになったことを考えると、歴史の不思議を感じずにはいられない。

1878年、中華街で火事があった際の英字新聞で焼けた建物に関する記述をみると、今でいう雑居ビルのような建物に、日本人と中国人の店舗や住居が入り混じって入居していた様子が伺える。1970年代後半には、中華街は多くの中国人とともに日本人も暮らす人口密集地域となっていたようである。

横浜華僑社会では異例ながら同郷団体・同職団体に先立ち、中華会館が組織されたが、その後さまざまな同郷団体・同職団体が組織されていく。同郷団体の一つは親仁会である。親仁会は広東系有力商人の団体で、貿易商、両替商、雑貨商、料理業、会社員などの有力者によって組織されていた。親仁会の下部組織としては、四邑公所、三邑公所、要明公所などがある。四邑公所は広東省広州府の新会県・新寧県、と肇慶府の恩平県・開平県、三邑公所は広州府の南海県・番禺県・順徳県出身者の団体であり、要明公所は広州府の高要県・高明県出身者の団体である。横浜の華僑社会では広東人が大半を占めていたが、浙江・江蘇・あるいは福建省出身者も少数ながら一定の地位をしめており、彼らによって三江公所が組織された。

旅日廣東要明鶴同郷會
京浜三江公所
福建会館 三階に「横浜 福建同郷會」の文字が見える

横浜の中国人は幕末の頃は西洋人と同じ墓地に埋葬されていた。横浜外国人墓地である。しかし、埋葬者が多くなったことと、埋葬習慣の違いから、中国人の歯かと西洋人の墓を区別する必要が生じた。1873年、中国人墓地中華義荘が開かれた。中華義荘の管理維持は中華会館が行い、それに要する費用は華僑の寄付金でまかなわれた。1892年、中華義荘内に地蔵王廟が建設された。この廟は関東大震災にも耐えて現存、横浜市指定文化財になっている。

中華義荘入口
地蔵王廟の案内板 主要材は広東省広州から船で調達したとある
地蔵王廟 そこはあたかも広東華僑の故郷の廟だ
地蔵王廟横 桜の花びらが舞い穏やかな日差しが差し込む 
帰り際横目に見えた墓石には広東省新会県、広東省開平県など一族の故郷の地名が記されていた
中華会館
(一般財団法人中華会館と公益財団法人中華義荘が入居する)

関東大震災以前は、横浜中華街には三つの小学校があった。一つは大同学校、保皇派(中国の皇帝性を保ちながらその枠内で近代的な改革を進めていこうという派閥)が始めた。孫文を支持する人々が開いたのが華僑学校である。この二つはともに広東語で授業を行う、広東人子弟を対象と下学校であった。そこで、三江帮に属する人々が開いたのが中華学校である。これら三校は関東大震災で全て倒壊し、震災以後は中華公立学校として統合された。

「落地生根 横浜中華街物語」 

京浜華厨会所、中華料理店のコックたちのサロン。「コッククラブ」と呼び習わされている。ソファにテレビ、事務機がひとつ。二階に上がるとマージャン卓。時折、コックのOBたちが集まり、おしゃべりやマージャンに興じる。戦時中、京浜華厨会所総務の李奕寛さんは、加賀屋町署に呼び出され、「店の店員に伝えろ。海の見える鶴見、磯子には行くな。四階建て以上の建物に上るな」。おそらく憲兵だろう。戦後中華街は灰になり、中華街大通りにはポツポツと料理店が建ち始めた。

京浜華厨会所
中国の国慶節を祝うポスター、お店の前面に台湾の双十節を祝うポスターの両方が張られていた

戦後、昭和21年ごろから二年間ぐらいの間、日本政府の配給のほかに中国人には特配があった。当時の横浜華僑総会の幹部によると、特配は国際赤十字が大戦に勝利した連合国民に、食料や衣料を配給したものだという。横浜華僑との仲介をしたのは、スイスの時計会社の日本支配人と、アメリカの船会社の横浜支社総支配人の二人だった。物資は、華僑総会が華僑全員に分配した。もちろん、配給や特配だけで生活がしのげたわけではない。朝早く、リヤカーでコメや豚肉を積んで売りに来たヤミの売人がいた。特配の分配はボランティアによって行われた。特配のほかにも戦勝国としての特権があった。連合国民専用のOSSやSPSと呼ばれる店が利用できた。馬車道の明治屋ではチョコレート、チューインガム、洋酒など、ここでは簡単に入手できた。山下町のOSSでは魚、干し肉、ソーセージなど中国人向けの食材を購入することができた。OSSでの通貨は米ドルだった。目ざとい華僑は、必死でドルをかき集めた。ドルは、米兵相手のバーの経営者やホステスから買うのがてっとり早い。一ドル360円の為替相場より高いレートでドルを買う。更に高いレートでブローカーに売ることもできた。日本の政府に頼ったところで、毎日の糧が保証されるわけではない。そんな中で華僑たちは逞しく生きた。

横浜中華街の華僑の子どもたちの学校は、「横浜中華公立学校」一校だった。町の人々が金を出し合い、運営していた。

(横濱中華學院ウェブサイトより)1946年、第2次大戦の空襲により灰と化した校舎を建て直し、校名を横濱中華小学校とする。1947年中華民国教育法令により、学校理事会を設立。中学部と幼稚園部を増設し、校名を「横濱中華學校」に改める。

(注:その後1949年に中華人民共和国が成立)

1952年9月、占領軍として駐留していた中華民国軍事代表団は、海軍将兵と日本の警察を動員し、学校から全生徒と教師を排除した。横浜の華僑を「大陸系」「台湾系」の二つに分断することになった「学校事件」だ。中華民国の軍事代表団は、大陸からの留学生が学校で教鞭を執っていることに、神経をとがらせていた。追い出された大陸系は15軒ほどの民家を使った「分散教育」を行った。翌年秋、大陸系子弟のための横浜山の手中華学校の設立にこぎつけた。横浜中華公立学校は台湾系の学校として再スタートしていた。1972年の日中国交樹立直前、中華民国領事館が、中華街に所有する土地を駆け込み的に日本の企業に売却しようとしていたところ、その情報を察知した大陸系はこの企業に談判して手を引かせ、さらに国交が樹立されるまで十日間にわたり、約10人でピケを張り土地を守った。この土地はその後、中国大使館から横浜山手中華学校が購入。レストランにも貸し出し、学校運営の資金源となっている。

横浜中華学院
横濱中華學院 関帝廟の隣に位置する
横浜山手中華学校
横浜山手中華学校
横浜山手中華学校 敷地内に入る保育園 小紅

1976年5月22日、関帝廟そばの台湾系の横浜華僑総会は大陸系の青年たちに占拠された。華僑総会は華僑を統括し、福利厚生事業、身分保障、遺産相続問題といったトラブル処理などを広く請け負う。外国で弱い立場にある華僑にとって、なくてはならない総合機関だ。1960年、大陸系華僑の不便解消のため、大陸系「横浜華僑総会」の前身である「横浜華僑聯誼会」が組織された。華僑総会と同じ業務を請け負った。聯誼会設立にかかわったある華僑によると、「華僑総会」の名称を使用しなかったのは「学校に続き、華僑総会までも分裂させたくなかった」ための配慮だという。しかし、1972年の日中国交回復で中華人民共和国が正式な中国として認定されると、華僑社会内部の大陸系、台湾系の政治的力関係は逆転する。

(現在では大陸系、台湾系それぞれの「横浜華僑総会」がある)

横濱華僑總會(大陸系)
横濱華僑總會(台湾系)

(同書籍より、参考として引用)

長崎時中小学校では、73年4月、台湾系の校長が辞任し、後任には横浜山手中華学校(大陸系)から学校を運営する董事会の決定で招かれた。長崎華僑は400人余り、95%以上が大陸の福建省出身だ。戦後、長崎市内には中華民国の領事館が置かれ、ほとんどが台湾を支持していた。学校も台湾政府の監視下にあった。日中国交回復によって状況は一変した。華僑のほとんどが大陸支持に変わり、大陸派が華僑総会の主流を占めるようになった。時中小学校に掲げられる旗も、73年を境に台湾の青天白日旗から中華人民共和国の五星紅旗に変わった。横浜と違って、華僑社会そのものが小規模だったことが幸いし、学校の分裂は免れた。その後時中小学校は88年3月に2人の卒業生を送り出し、事実上閉鎖された。長崎華僑時中小学校は、現在日本人向けの中国語学校「長崎時中語学院」に衣替えされている。

神戸「神戸中華同文学校」は1899年、同文同種(同じ文字を使い、同じ人種である)という言葉にちなんで命名、創立された。小学部と中学部で、今も六百人を超える子弟が民族教育を受ける。ここでは、台湾系華僑と大陸系華僑の対立による横浜のような学校分裂も、長崎のような校長交代も起きなかった。新校舎の建設で資金が必要になった際、台湾政府政府の援助の申し出を断った。董事会のメンバーだった神戸華僑総会(大陸系)会長の林同春は「神戸はもともと政治的感覚の薄い土地柄」としながらも、「横浜の学校事件が重い教訓になっていた」と話す。結局、学校建設資金の約一億三千万円は、華僑たちの寄付だけで賄った。台湾支持で国民党に気兼ねする華僑は、匿名で寄付に応じた。1959年、待望の新校舎は完成した。北京政府から寄付はあったが、72年の中国国交回復までは手を付けずにおかれ、寄付があったこと自体、国交回復までは公表しなかった。神戸華僑は三対一の割合で大陸支持者が多いが、日中国交回復までは五星紅旗の掲揚も、北京政府から援助を受けることも避けた。

横浜華僑のビジネスを支えてきた信用組合 横浜華銀

1986年1月1日、横浜中華街 関帝廟が火災で全焼した。再建は90年8月、大陸系、台湾系双方による一大事業だった。全焼の翌日、当時関帝廟を管理していた台湾系総会が再建委員を結成、「宗教まで政治で分けてはいけない」と、双方で非公式会談を何度も持ち、87年8月、大陸系華僑も加える形で、大手中華料理店社長七人を委員とする建設委員会を組織、それまでの再建委員会を解消した。寄付金も台湾系、大陸系の双方、国内外から集まった。

関帝廟に祭られる関羽の西端を祝う「関帝誕」では、昨年から台湾系の横浜中華学院と、大陸系の横浜山手中華学校両校の生徒の絵画作品などが、中華街の華僑施設で同時に展示されるようになった。1992年からは広東省出身の同郷会組織に所属する大陸系華僑総会の会長と、台湾系華僑総会の会長が新年会で同席している。それまでは考えられなかったことだった。驚いた華僑も多い。

横浜関帝廟
横浜鑑定廟 この飾りは磁器の破片を組み合わせて造形をしたもの
横浜関帝廟 中国南方の廟に見られる飾り様式がみられる
関帝廟 香炉に線香をお供えする順序の案内
横濱媽祖廟 牌楼
横濱媽祖廟 
案内係の人が観光客に「この廟は中国人、台湾人、日本人、皆でお金を出し合って設立された」と中国語で説明していた
横濱媽祖廟 案内係がお参りの仕方を教える
横濱媽祖廟 後ろ側

横浜市中区大芝台。横浜ベイブリッジまで見はるかす丘の上に、約千八百体の華僑が眠る中華墓地「中華義荘」が広がる。敷地約五千七百平方メートル。台湾支持華僑の女性組織「横浜自由華僑婦女会」の会長、大陸系華僑の女性組織「横浜華僑婦女会」の会長らが協議し「横浜中華義荘重建安骨堂発起人会」を発足させた。大陸、台湾双方の支持者からクレームがつかないよう、両婦人会からメンバー10人を選んだ。発起人会は寄付金集めに奔走、訳千五百個の納骨ロッカーを備えた鉄筋三階建ての納骨堂が完成した。

横浜自由華僑婦女協会(台湾系)
横浜華僑婦女會館(大陸系)
中華義荘 金亭義捐者芳名録
(2003年の屋外休憩所 金亭 建設時のもの)
中華義荘 安骨堂(納骨堂)

(ブログ主まとめ)

日本開国への圧力をかける欧米各国や開国後欧米の商会とともに買弁といったスタッフとしてやってきた中華系の人々は横浜を舞台に逞しく生きてきた。アメリカ ハード商会の F・フィールドの捉えた、時間があれば金儲けばかりしているという中国人像からはいつの時代もそうであった中国人の逞しさが表れているように思う。分裂してしまった中華学校を教訓に、大陸系、台湾系が歩み寄りながら関帝廟の再建、中華義荘安骨堂の設立をともに行い、横浜華人の生きる基盤を形成している状況が伺えた。

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