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読書:海域アジアの華人街 泉田 英雄 著

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[2008年に書いた記事を転載]

題名に惹かれ購入した本。以前台湾とシンガポールに旅行してから、チャイナタウンといえば建物の一階部分が連続したアーケードであり、それは中国南部を旅行した際にもアモイで見かけたこともあり、南方華人が大陸から持ち込んだ亜熱帯の南方出身の華人ならではの生きる知恵として形成されたものだと思っていた。そしてスコールの中、アーケードを歩きながら通り過ぎていく店舗をひとつひとつ覗き込むのがとても好きだった。

南洋の華人街において、もともと街路に面した軒下を開放して販売スペースに利用していたものは多くあったが、軒下部分の幅等は各家屋思い思いの設計になっていた。シンガポールでは1822年、シンガポール創設者でイギリス出身のラッフルズが、華人を植民地都市機能を担う住民として明確に位置づけ、レンガ造りによる建物の耐火性の向上、熱帯・亜熱帯モンスーン地帯で客や商品を日射と降雨から守るためのアーケードの設置、一定の基準に基づいたアーケード等の設計による居住地への画一性の付与等、シンガポールの都市計画について定めた。地主にアーケード用地を拠出させ、飲食店、商店等の屋台を路上にはみ出させないようにし、連続した耐火性のアーケードによる規律性のある景観形成に成功した。1825年、イギリスによるシンガポールとマラヤ(マレーシア)での海峡植民地の成立に伴い、街路の両側に連続した屋根のついた通路を作り、常時開放された空間とすることを含んだ都市計画規則を海峡植民地全体に適用した。

香港では、1871年、屋台等による歩道の違法占拠を厳しく取り締まったが、効果を上げることができず、それに折れる形で歩道を通路として保留し、その上に構造物を立てることを許可した。

シンガポール型の景観整備は南洋華人らの祖国との交流を通し中国南部の都市近代化のモデルになっていった。1880年代、台湾では近代的市街地建造物として導入しようとし、日本統治時代、日本も積極的に実行した。福建省や広東省では1910-20年代にかけアーケードによる市街地再開発が行われた。

つまり、チャイナタウンに見られる連続したアーケードは中国南部から伝わったものではなく、イギリスが植民地における都市計画として導入し、それが台湾や中国南部でも取り入れられたものだった。世界中で活躍する華人の知恵だと思っていたため、少し寂しい気持ちにもなったが、シンガポールの建築様式がコロニアル(植民地)と言われる理由もわかった気がする。宗主国の様式を持ち込みつつも、熱帯・亜熱帯の気候、華人の露天(はみ出し)販売の習慣等をうまく取り入れ、現地にマッチしたものとしたのである。

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