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雑記⑳「気持ちだけ受け取っておきます」

1.人としての線引き

 ゴールデンウィーク後半で実家に帰省した。わざわざ帰省して、実家の自室の断捨離をしている。別に全部捨ててもらって構わないとは思っているものの、とりあえず片っ端から紐で縛ったりしてバコバコ捨てた。
 勉強机の引き出しを開けたら教科書だったり、成績表だったり、クリアホルダーだったり、修学旅行で買ったお土産だったり、高校の学生手帳だったり、部活の後輩やらがくれた手紙だったり、卒業アルバムだったりがまだ入っていた。
 形ある物、いつかは捨てなくてはいけない。そう考えると、物を買うことに後ろめたくなるし、形ある物を人に渡すことにも消極的になってしまう。「気持ちだけ受け取っておきます」という言葉があるが、形に残らないもの、捨てる行為に際して人の良心を傷つけない範囲のものなら受け取って損はないことだと思う。形にしないと伝わらないこと・伝えられないこともあるのも、形としてあることに意味がある物があることも十分にわかる。
 近所の女の子が小学生の時にくれた手紙、中学の部活の後輩からの寄せ書き、中3の時のクラスの女の子からもらった手紙、元担任の先生から送られてきた封筒、修学旅行のクラス写真、卒業アルバム。捨てるにはたいそう忍びない紙たち。結局どれも捨てることができなくて、整頓しただけで断捨離した気になっている。これらを捨てるか捨てないかで、人として何かが線引かれてしまう気がしてならない。

2.感情に蓋をする

 久しぶりに地元を散歩した。自転車をかっ飛ばしていた街なだけあって、どこにでも何かしらの記憶がある気がした。毎週遊びに行っていた旧友の家の前を不意に通りがかって、「もうあそこにアイツはいないんだろうなぁ」「そもそも引っ越してるかもなぁ」とか思いながら闊歩した。歩きながら思い出すほどでも記憶が幾つも浮かび上がってきた。「誰かと一緒に散歩すれば思い出話に花を咲かせられるのかな、でも地元にずっといる人からしたら記憶なんて更新されてるからおもんないんだろうな」とか思いながら闊歩した。
 小学校の友達にゲームセンターに誘われて「お小遣いがないからやることもないしつまんないな」と思いながらも断れなくて、数時間太鼓の達人や頭文字Dを眺めていた頃を思い出して嫌な気持ちになった。
 「今思うと当時の自分が完全に好意を持っていた女の子の家がこの辺りにあった気がする….」と、散歩しながらふと思い出した。小学生当時の自分は、公園で一緒に遊びたくて仕方なかったような気がする。正直名前もうろ覚えで、苗字なんて思い出せるわけがなかった。お昼時の時間だったから、お散歩中の保育園児たちがいた。その後も適当に散歩していたら、同じ保育園児の集団がいるのが見えて、またすれ違うのは多分気持ち悪がられるだろうと思ってすれ違うより遥かに手前で適当に曲がって歩いていた。懐かしみながらキョロキョロしていたら、自分の目が一つの表札を捉えて、一瞬にして記憶が読みがえってきた。あれは、完全にうろ覚えだったあの女の子の苗字だったし、全部思い出して、変な気持ちになった。
 中学生の頃に通っていた塾の裏路地を通り、夏期講習の昼休み、周りと馴染めなすぎて塾最寄りのコンビニに行けなかったことを思い出して嫌な気持ちになった。それと、そのメンタルが高校生になっても治ってなかったことも同時に思いだして、本格的に自分が情けなくなってきた。

 当時の自分はいろんな場所で感情に蓋をして、逃げて。そんな場所が至る所にある。そういう記憶が全くない今の居住地周辺に、居心地の良さを感じれているんだなと改めて。

3.ママ友コミュニティ

 小学校の通学班が一緒というだけの繋がりしかなかったあの人たち。あの頃仲良くしてた人たち。その人たちが今どこで何をしていてるのかを自分は知らないが、母親は独自のコミュニティでその情報を仕入れていたりする。いわゆる幼馴染という関係の人たちが何人かいるが、誰のことも本当に知らない。成人式のタイミングでも自分のしょうもないメンタルが全面に出てしまい、本当に会うきっかけを失ってしまったんだろうなという気がしている。「今度会わない?」と急に聞かれても、マルチを疑われそうで嫌だ。誘った手前、会話を途切れさせてしまった時にどうせ罪悪感に苛まれるのが目に見えてしまうのも嫌だ。(自分にはどうせ向いてない。)

4.旧友

 もう数年会ってない見かけてない、喋ってない言葉を交わしてない、というか元からさほど喋ってない。家は近所だけど、道を挟んで向かい側の家だけど、小学生の頃は割と遊んでた気がするけど、クリスマスプレゼント何貰ったかを一緒に話してた頃もあったけど。今ちゃんと誘って話そうと思えば、積もる話がたくさんあったりするんだろうか。お互いの目にどうやって映っていたかを話したりできるのだろうか。喋れたことに充実感を抱けるのだろうか。相手の意識の遥か外側にいた自信は悲しいけどあるし、自分も会話を避けてた部分もある。
 とりあえず、元気にしてますか。

5.父の日

 母親に「もしさ、金銭的な余裕があったらさ、パパに父の日でなんか贈ってあげて」と言われた。
 人生の中で、”きっかけ”が掴めない事柄は意外とたくさんある。祖母に「パパママ呼び恥ずかしいから辞めな」と言われたけど呼び方を変えるグラデーションが恥ずかしくて、親を呼ぶことを辞めた。携帯料金はまだ親に払ってもらっている。年金も、まだ親が払ってくれている。光熱費家賃ももってのほか。握りにくいきっかけは、意外とある。
 自分はもう、「母の日ギフト」「父の日ギフト」みたいな物を親に送る年齢になっていたらしい。
 お酒が好きで、最近コーヒーを煎れるのにハマっているらしくて、ウルフルズとかBon Joviが好きで、禁煙したと言いつつも携帯の充電器のUSBアダプタにがっつりと「glo」って書いてあってて吸ってるのがバレバレな父親。
 お高めのビールのセットがいいか、お高いコーヒー豆がいいか。むしろおつまみとかコーヒーのオトモ的な方がいいか。まだ時間はあるので、もう少し調べようと思います。
 ごめんなさい、母の日ギフトは間に合いそうにないです。

6.記憶から抜け落ちる自信がある

 「髪切りました?」と聞かれると恥ずかしくてたまらない。「イメチェンしてやんの」「自分をよく見せようと必死こきやがって」って思われるのが嫌だという”自意識過剰”の面もあるし、自分みたいな人間が”見られている”事実が恥ずかしい面もある。担任の先生に名前で呼ばれると「覚えてくれてんだ」と純粋に思ってしまう自分がいる。思ってしまうんだからしょうがない。

 実家の自室の断捨離をしながら、卒業アルバムを眺めてしまった。当時は廊下で顔を見れば名前くらいはなんとなく頭に浮かんでいた気がするけど、こうして今一覧的に見ると7割方自分の記憶からは抜け落ちてしまっている。見ると、思い出せる人もいる。当時をカメラロールで遡っても思い出す。
 ただ、当時の同級生にとっての”7割”に自分が入ってないわけないんですよ。当時の同級生が今飲み会で想起し脳内で補正している写真に、自分は絶対にいない。

7.記憶を720pで保つ

 「エモい」で形容するのは、言語化から逃げてるだけに思えてしまう。その3文字に何を期待して詰め込んでいるか、それを稚拙でも言語化すればそれだけで「エモい」に優っている形容の仕方だと思う。

 この前友人と河川敷でお酒を飲んだ。川の音ももちろん聞こえるし、草いきれの予兆も感じるし、周囲のマンションの窓の明かりには生活があるし、もちろんお酒も美味しい。気がついたら一緒に草をかき分け川沿いに来ていた。ズボンの裾は露でびしゃびしゃ、靴もツコツコ、川の水に触れてみればもちろんギャン冷え。4時間くらい河川敷にいたはずなのに、記憶の量との釣り合いが絶対に取れない。
 とりあえず、自信を持って「エモくはなかった」と言える。「あの時さぁ」と思い出す日が絶対ある気がするけど、エモの型に当てはめてしまったらあくまで一般化した「エモい感じ」でしかなくなる。
 河川敷で話したであろうこと、感じたであろうことがその域にあるわけない。


#352  雑記⑳「気持ちだけ受け取っておきます」

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