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過去に戻れても

 久しぶりに見かけたな〜とバイト先の後輩に対して思った時、特筆それが同性でなくても、「久しぶりにお見かけした気がしますね」と最近は言えるようになってきました。バイト先で会話することを心がけていても一歩そこを出た時にそれが活きている気はしない。だけど、気休めでやっている。

 とりあえず近況で雑談してその場を凌ごうと思って、「最近どうでしたか、ちゃんと生きてましたか」と話し始めた。
 大学の話でも聞いてりゃいいやとか思っていたら、「最近いいことあったんですよ」と餌を撒かれた。後輩のあからさまに食いつかそうとしてる含みの持たせ方と、「それで会話オールオッケーじゃん」という自分の欲と、おおよそ想像がつく話の内容の中で距離感の測り方を気にするめんどくささに挟まれて一瞬迷った結果、「その話、自分が聞いても差し支えないですか?」「人に話したい話ですか?」と言ってしまった。話すかどうかの最終判断を後輩に押し付けてて責任を押し付けた事実をその場で反省しつつ、後輩の「彼氏ができた」という話を頷きながら聞いた。



 ほんの数日前、友人と河川敷でお酒を飲んだ日があった。その時、「街でちゃんと大学生してる人を見ると羨ましくなっちゃう」という話になった。大学生活の半分はオンライン授業で、落ち着いてきた頃には授業の数も落ち着いて大学に行かない。当時は「授業楽でいいわ」くらいにしか思っていなかったけど、対面授業が全面的に復活してからの代を見て初めて「失っている部分の大学生活」というものが目の前に現れた。
 いわゆる「キャンパスライフ」として括られるそれがあるなかで、大学生になる前の理想を100とした時、今の自分は「良く言って10だな」と思う。もし自分の大学生活が元来のものであった時にそれが10以上になるとも思えない。10以下になっている可能性も十二分。たらればだとしても、いざ言われると「どうだったんだろうな〜」と考えてしまう。
 仮に記憶を持ったまま過去に戻れたとしても、結局同じ怠け方と日和り方とダサい命の回転でもってして、今とほぼ同じ人生を歩む自信がある。高校生に戻ろうが、中学生に戻ろうが、はたまた幼稚園生まで戻ろうが、結局、同じ日時に河川敷に座り、同じ友人とお酒を飲みながら、同じことを喋っているんだろうなという気がした。(酔ってたしね。)


 だから、「恋人ができた」というこの後輩に、純粋に聞いてみたくなった。

いわゆる"キャンパスライフ"として自分が思い描いていたそれを100として、今それをどれくらい満たせてますか

 そしたら「100」だってさ。
 それが心のどこかで悔しくて、論破に近いことをピュアで持ってされた気になって、「変な聞き方かもしれないですけど、それって恋人ができて100になりましたか?」と聞いてみた。そしたら「いや、その前から100です」と言われてしまった。



 100の基準が人によるから、何で満足するのかも違います。学食を一人で食べることにキャンパスライフを感じる人もいれば、恋人と授業を一緒に受けてようやく満たされる人も入て、"欲求不満"の程度も異なる。

 恋人がいる前から100だったと言われて、いわゆる”キャンパスライフ”が人間関係に依存してなかったんだなと悲しくなった。自分は何に嫉妬して、何に僻んでいたのだろうか。


 「理想が高い」とかそんな言葉じゃ何にも思わないけど、自分の中ではとてつもないカルチャーショックでした。



 本当は誰にも言わないでおこうと思っていたことを、先月くらいに気がついたら友人に話していた。そしてそれと同じことを、気がついたら今日、後輩にも話していた。気がついたら引き返せないところまで口から出ていた。
 「普通に大学通えてたとしても自分には無理だったな」とか、「自分が誰かに好かれるとは思えない」とか、「誰かを好いていい側の人生じゃなかったのに、今更変われなくないですか」とか、「他人にも自分にも、期待するから色々めんどくさい」とか、そんなようなこと。

 後輩さんはそのまま幸せを享受してくださいませ。自分には到底訪れない類の人間の営みの一つですが、人生を謳歌してくださいませ。本当にそう思ってます。



 次見かける時までなら、自分でもなんとか生きてられそうです。



 ”キャンパスライフ”を100。


#359  過去に戻れても

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