ChatGPTに魏志倭人伝を読んでもらう。

概要

  1. 倭人(日本の人々)は大海の中に住んでいて、山々に囲まれた地域に国や町がある。

  2. 昔からたくさんの小国があり、中国の漢時代には使節を送っていた。

  3. 倭までの旅は海岸をたどり、韓国を通っていく。

  4. 一番最初に辿り着くのは対馬国。土地は山が多くて、良い農地がない。

  5. 主に海のもので生計を立てている。

  6. 対馬からさらに南へ行くと、名前が同じく「日卑狗」の大国がある。

  7. この国は農地が少しあるが、それでも足りないので、南北で市場を開いている。

  8. さらに行くと末盧国があり、魚を捕るのが得意。

  9. さらに東南に行くと伊都国があり、女王の支配下にある。

  10. さらに東南に行くと、多くの家があり、その先には投馬国と邪馬壹国(女王の都がある国)がある。

  11. 倭人は顔に刺青をしており、それぞれの地域で異なるスタイルがある。

  12. 男女は服装がシンプルで、縫い目がほとんどない。

  13. 農地は少なく、主に短弓と矢で戦う。

  14. 倭の地は暖かく、主に生野菜を食べている。

  15. 死者は棺桶に入れられ、土をかぶせて埋葬される。

  16. 使節を中国に送る際には、一人が「持衰」という役割を担い、その人が無事であれば使節も無事とされる。

  17. 倭からは真珠や青玉などが出土する。

  18. 卑弥呼という女王がおり、その後継者として男性がいたが、国内での争いで多くの人々が死亡。

  19. 最後には卑弥呼の宗女が王になり、国内が安定した。


原文

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里至對海(對馬)国 其大官日卑狗 副日卑奴母離
所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑
有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離
方可三百里 多竹木叢林 有三千許家
差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
又渡一海千餘里至末盧國 有四千餘戸 濱山海居
草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之
東南陸行五百里到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚
有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐
東南至奴國 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中國 皆自稱大夫
夏后少康之子封於会稽 斷髪文身 以避蛟龍之害
今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾
諸国文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差
計其道里 當在会稽東治之東
其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連 略無縫
婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之
種禾稻紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲
兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同
倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室
父母兄弟卧息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也
食飲用籩豆 手食
其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉
喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 挙家詣水中澡浴 以如練沐
其行来渡海詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人
如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之
謂其持衰不勤
出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支
有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉
其俗 擧事行來有所云為 輒灼骨而卜以占吉凶
先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆
其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒
見大人所敬 但搏手 以當跪拝 其人壽考或百年或八九十年
其俗國大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌
不盗竊少諍訟 其犯法 輕者没其妻子 重者没其門戸及宗族
尊卑各有差序足相臣服
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国
皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
下戸與大人相逢道路 逡巡入草
傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆 
年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻
太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰
制詔 親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利
奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到
汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順
汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞
今 以難升米為率善中郎将 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還
今 以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 倩絳五十匹 紺青五十匹 荅汝所獻貢直
又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口
銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王
并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩
其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
上獻生口倭錦絳靑縑緜衣帛布丹木拊短弓矢
掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬
其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
其八年太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還
因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

魏志倭人伝

訳文(ChatGPT plus)

倭人は、大海の中の東南、帯方のあたりに住んでいて、山に依存して国や町を作っている。

以前は100以上の国があり、漢の時代には朝貢に来る者もいた。


今は、使者や通訳が通じるのは30国ぐらいである。
郡から倭に至るまで、海岸を沿って船で行き、途中で韓国を経由する。


時には南に、時には東に進み、狗邪韓国という北岸に到達する。
その距離は7,000余里である。
最初に1,000余里の海を渡って対海(対馬)国に到達する。


その地の高官は日卑狗といい、その副官は日卑奴母離という。
この地は山が険しく、深い森が多く、動物や鹿の通る小径のような道路がある。
1,000余の家々があり、良い田地はない。

海の幸で生計を立て、船で南北に商品を買い付ける。
さらに南に1,000余里の海を渡ると、名前は瀚海という大きな国に到達する。
その地の高官も日卑狗で、副官も日卑奴母離である。

その地域は300余里で、竹や木、藪が多い。
家々は3,000余あり、田地は少々あるが、農作物だけでは食べるに足りない。
同じく南北に商品を買い付ける。

さらに1,000余里の海を渡って末盧国に到達する。
その地には4,000余の家々があり、山と海に近い場所に住んでいる。
草木は繁茂しており、人々が通るのを見かけない。

魚やフグを捕るのが得意で、水の深さに関係なく、すべて沈んで捕る。
東南に陸を500里進むと、伊都国に到達する。
その地の高官は日爾支、副官は日泄謨觚柄渠觚である。

その地には1,000余の家々があり、世界に王がいるが、すべて女王国に服属している。
郡の使者は常にここに滞在する。
東南に進んで100里行くと、奴国に到達する。

その地の高官は日兕馬觚、副官は日卑奴母離で、2万余の家々がある。
東に進んで100里行くと、不彌国に到達する。

その地の高官は日多模、副官は日卑奴母離で、1,000余の家々がある。
南に進んで水路を20日行くと、投馬国に到達する。

その地の高官は日彌彌、副官は日彌彌那利で、5万余の家々がある。
さらに南に進んで、邪馬壹国に到達する。
これが女王の住む都で、水路で10日、陸路で1ヶ月の距離である。


その次に伊支馬国があり、次に日彌馬升国、次に日彌馬獲支国、次に日奴佳鞮国があり、合計で7万余の家々がある。

女王国の北部には、家々の数や距離は大まかにしかわからない。
その他の周辺国々は遠く、詳細は知ることができない。

次に斯馬国、次に巳百支国、次に伊邪国、次に都支国、次に彌奴国、次に好古都国、次に不呼国、次に姐奴国、次に對蘇国、次に蘇奴国、次に呼邑国、次に華奴蘇奴国、次に鬼国、次に為吾国、次に鬼奴国、次に邪馬国、次に躬臣国、次に巴利国、次に支惟国、次に烏奴国、次に奴国があり、これが女王の領域の限界である。

その南には狗奴国があり、そこでは男が王であり、高官には狗古智卑狗がいるが、女王には従っていない。
郡から女王国までの距離は12,000余里である。

男たちは、老若問わず、顔に刺青と身体に文身をしている。
古くからその使者が中国に来るときは、自分たちを大夫と称している。

夏の王、少康の子は会稽に封じられ、髪を切って文身をして、蛟龍の害から逃れた。
現在、倭の人々は水中で魚や蛤を捕るのが得意で、文身も大きな魚や水鳥を避けるために行っている。
後になって装飾とされた。
各国での文身はそれぞれ異なり、左右、大きさ、尊卑に違いがある。
距離を計算すると、会稽の東のさらに東に位置すると考えられる。

その風俗は淫らではなく、男たちは皆、上半身を露出させ、頭には木の帯を巻いている。
衣服は横に広がっており、繋ぎ合わせるだけで、縫い目はほとんどない。
女性は髪を束ね、単一の布で衣服を作り、その中央に頭を通して着る。
稲や麻、桑に蠶を育て、細い麻布や絹を織り出す。
その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲がいない。

戦争では矛と盾、木製の弓を使用する。
弓は下が短く、上が長い。
矢は竹で作り、矢じりは鉄または骨である。
倭の地は暖かく、冬でも夏でも生野菜を食べる。
皆素足で、家には部屋がある。

父母や兄弟は、それぞれ異なる場所で寝る。
身体には朱や丹を塗り、中国で化粧粉を使うのと同じようにする。
食事や飲み物は、豆を用いて手で食べる。
死者には棺はあるが槨(ひつぎの蓋)はなく、土を盛って墓を作る。
死後、10日余り喪に服し、その期間肉を食べない。

喪主は泣き、他の人々は歌って踊って酒を飲む。
埋葬後、家族全員が水中で身を洗う。
中国に渡るときは、いつも一人を選んで、頭を梳らず、衣服を汚して、肉を食べず、女性に近づかない。
その人を持衰(もじすい、喪に服する者)と名付ける。
その行者が吉であれば、共にその生計や財物を守る。
もし病気や災害に遭ったら、その持衰が怠慢だと考えて殺すこともある。


この地では真珠や青玉が産出される。
山には丹(赤土)があり、木にはいくつかの種類の樹木が生えている。

竹や小竹、ヒメダケ、桃の木などもあります。
薑、橘、椒、襄(あさつき)、荷(ハス)などの植物もあるが、どのようにして風味を引き出すかはわからない。

猴(サル)や黒雉(クロキジ)などもいる。
彼らの風俗では、何かをする前に必ず骨を焼いて占いを行い、吉凶を占う。

占う前にその内容を告げ、火で焼いた骨を見て吉凶を判断する。
集まるときには、父子や男女は区別せずに座る。
人々は酒が好きで、敬うべき人にはただ手を合わせるだけで、跪いて拝むようなことはしない。
人々の寿命は、多くが百年か八、九十年である。
上流階級の人々は通常4、5人の妻を持ち、下流階級では2、3人の妻を持つ。
女性は不倫も嫉妬もせず、盗みや紛争も少ない。
法を犯した場合、軽いものでは妻子を没収され、重いものでは家族や一族も没収される。
尊卑の差はしっかりとあり、互いに服従する。
税や賦役があり、各国には市場が設置され、交易が行われている。
大倭を監督している。
女王の国より北では、特に一人の高官が配置されて各国を監察している。
この人は常に伊都国に滞在し、その国で郡の刺史のような存在である。
王は使者を京都、帯方郡、諸韓国、そして郡使を倭国に送る。
皆、港についてから調査を行い、文書や贈り物を女王に送る。
間違いが許されない。
一般の人々と貴族が道で出会うと、一般の人々は道を避け、草の中に入る。
話をするときはしゃがんだり跪いたりして、両手を地面につけ、敬意を表す。
相手が何か言うと「噫」と答え、同意すると「然諾」と言う。
この国も元々は男性が王で、70、80年の間に住んでいた。
しかし、倭国は互いに攻撃し合い、何年もの間混乱していた。
そこで、一人の女性、名前は卑弥呼といって、鬼道を用いて人々を惑わせる能力があり、王として立てられた。
年齢はすでに高く、夫もいないが、男性の弟が国を補佐している。
王になってからは、ほとんど人々に見せないようにしていて、千人の女性奴隷を従え、食事や言葉の伝達、出入りなどは唯一の男性が行う。
宮殿や塔、城壁は厳重に設置され、常に兵士が警備している。
女王の国より東に海を渡ると、1,000余里先にも国があり、それも倭の一族である。
また、その南には侏儒の国があり、人々の身長は3、4尺で、女王の国からは4,000余里の距離がある。
さらに東南には裸国と黒齒国があり、船で一年かかって到達することができる。


倭の地は、海の中にあり、いくつかの島々が続いているか、或いは離れている。
全体で周囲は5,000余里もある。
景初2年の6月、倭の女王卑弥呼は大夫(高官)の難升米(なんしょうべい)らを郡に送り、皇帝に拝謁して貢物を献上したいと願った。
太守(郡の長官)劉夏は、吏将(役人と将軍)を派遣して京都まで送り、その年の12月には詔書で卑弥呼に応えた。
詔書には、卑弥呼の忠孝に感じ、金印紫綬(きんいんしじゅ)を与えて「親魏倭王」とし、民を慰撫し孝順を勉めるようにと述べられていた。
卑弥呼が遣わした使者難升米と牛利(ぎゅうり)は遠くまで来たので、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とし、銀印青綬を与え、引き取って報酬を与えた。
さらに卑弥呼に対しては、その貢物に報い、さまざまな贈り物を送った。


正始元年には、太守弓遵(きゅうじゅん)が梯儁(ていきん)などを送って卑弥呼に拝謁させ、金帛(きんぱく、金と布)や鏡、刀などの貴重品を贈り、卑弥呼もお礼の上表(うえもく、報告書)を送った。
その4年後、卑弥呼は再び使者を送り、さまざまな貢物を献上した。
6年目には、難升米に黄色い旗を授けた。


卑弥呼が死んだ後、彼女の墓を作り、周りは100歩以上あり、100人以上の奴隷や侍女が葬られた。
新しい男王が立てられたが、国内で受け入れられず、互いに殺し合い、その時に1000人以上が死んだ。
最終的に卑弥呼の親族で13歳の壹與(いつよ)が王となり、国内は安定した。
壹與は大夫の掖邪拘(えつかく)ら20人を送って、さまざまな貢物とともに使者を返した。

ChatGPT

訳文(Bing GPT-4)

倭人は、帯方の東南、大海の中にあり、山を頼りにして国や邑を作っています。古くから100以上の国があり、漢の時代には朝見(朝貢)する者もいました。現在では、通訳を通じて30の国と交流があります。郡から倭まで、海岸を航海して韓国を経由し、南へ南へと進み、東へ東へと進んで、その北岸である狗邪韓国に到着します。その距離は7000余里です。

最初に海を渡るところは1000余里で、対馬国に到着します。その大官は日卑狗といい、副官は日卑奴母離といいます。彼らが住む地域は絶えず山があり、その範囲は400余里です。土地は山が険しく、深い森が多く、道路は鳥や鹿の小道のようです。1000余戸がありますが、良い田地はありません。海の生物を食べて生活しており、船で南北に行き来して市場で物々交換を行っています。

さらに南へ海を渡ると1000余里で、その海は瀚海と名付けられています。そこに大きな国があります。その大官も日卑狗といい、副官も日卑奴母離といいます。その範囲は300余里で、竹や木の茂った森林が多くあります。家は3000余軒あります。

少し田地がありますが、耕作した田から得られる収穫だけでは食べ物が足りません。彼らもまた南北に行き来して市場で物々交換を行っています。

さらに海を渡ると1000余里で末盧国に到着します。そこには4000余戸があります。山や海沿いに住んでいます。

草木が茂っており、前方の人々が見えないほどです。彼らは魚や鰒(ふぐ)を捕るのが得意で、水深に関係なく潜って捕まえます。
東南へ陸路で500里進むと伊都国に到着します。その大官は日爾支といい、副官は日泄謨觚柄渠觚といいます。そこには1000余戸あります。

世界中に王が存在しますが、すべて女王国に従属しています。郡使(中国から派遣された使者)が往来する際に常駐する場所でもあります。

東南へ進むと奴国に到着します。その距離は100里です。その大官は日兕馬觚といい、副官は日卑奴母離といいます。そこには2万余戸あります。

東へ進むと不彌国に到着します。その距離も100里です。その大官は日多模といい、副官も日卑奴母離といいます。そこには1000余戸あります。

南へ進むと投馬国に到着します。水路で20日の距離です。その大官は日彌彌といい、副官は日彌彌那利といいます。そこには5万余戸あります。

南へ進むと邪馬壹国に到着します。そこが女王の都です。水路で10日、陸路で1ヶ月の距離です。

その大官には伊支馬、次に日彌馬升、次に日彌馬獲支、次に日奴佳鞮がいます。そこには7万余戸あります。

女王の国から北へ進むと、その家数や道の距離はおおよそ記録することができます。しかし、他の周辺の国々は遠く離れていて、詳細を得ることはできません。

次に斯馬国があり、次に巳百支国があり、次に伊邪国があり、次に都支国があり、次に彌奴国があり、次に好古都国があり、

次に不呼国があり、次に姐奴国があり、次に對蘇国があり、次に蘇奴国があり、次に呼邑国があり、次に華奴蘇奴国があり、

次に鬼國があり、次に為吾國があり、次に鬼奴國があり、次に邪馬國があり、次に躬臣國があり、次に巴利國があり、次に支惟國があり、次に烏奴國があり、次に奴國がいます。これらはすべて女王の領域です。

その南には狗奴國があります。男性が王を務めています。その大官は狗古智卑狗といいます。女王への従属はなく、郡から女王の国までの距離は1万2000余里です。

男性たちは年齢を問わず顔を刺青し身体を文身します。古代から来ています。使者たちが中国へ行く際も常に自分たちを大夫と称しています。

夏の後の少康の子孫は会稽(現在の浙江省)で封じられました。髪を切り身体を文身しました。これは蛟(みずち)や龍から身を守るためでした。

現在では倭人や水人たちは潜って魚や蛤を捕るため文身をしています。後世では装飾として行われるようになりました。

各国で文身する方法は異なります。左側だったり右側だったりします。大きさも異なります。尊卑の差もあらわされます。

その道路の距離を計算すると会稽東治(現在の浙江省)の東側だと思われます。

風俗は淫らではなく男性たちは皆裸で歩きます。頭を木で覆い隠します。衣服は横幅広くただ結びつけるだけで縫い目はほとんどありません。

女性たちは髪を覆い隠し衣服を作ります。それは一枚布のようなもので中央部分から頭を通します。

禾(稲)、稻(稲)、紵(苧麻)、蠶(カイコ)、桑(クワ)を栽培しています。紡績して細い麻や絹、緜(もめん)を作ります。その地には牛や馬、虎や豹、羊や鵲(カササギ)はいません。

兵器としては矛と盾、木製の弓を使用します。その弓は下が短く上が長いです。竹製の矢を使い、その先端は鉄や骨で作られています。所有物は儋耳(ダンノ)や朱崖(シュガイ)と同じです。

倭の地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べます。皆素足で歩きます。家があります。

父親や母親、兄弟はそれぞれ別々の場所で寝起きします。身体に朱丹(しゅたん)を塗ります。これは中国で粉を使うのと同じです。

飲食する際には籩豆(べんとう)を使います。手で食べます。

死者に対しては棺がありますが槨(こけら棺)はありません。土を盛り上げて墓を作ります。死後すぐに葬式を行い、その期間は10日余りです。その間肉を食べません。

葬式の主人は泣き叫びますが、他の人々は歌ったり踊ったり酒を飲みます。葬式が終わると全家族が水中で入浴します。これは清めのためです。

彼らが中国に行く際に海を渡るとき、常に一人がいます。その人は頭を梳かず、虱や蝨(しらみ)を取り除かず、衣服も汚れたままです。肉も食べず、女性にも近寄りません。

その人は喪に服しているような存在で、「持衰」と呼ばれています。もし旅行者が幸運であれば、その人が生計や財産を守ります。しかし、もし病気になったり災難に遭ったりすれば、すぐに殺されます。なぜなら、「持衰」が勤勉でないと考えられるからです。
彼らが贈るものには真珠や青玉があります。山には丹(鉛丹)があります。木材には枏(ニッケイ)、杼(シャク)、豫(ユ)、樟(クスノキ)、櫪(エノキ)、投橿(トウカン)、烏號(ウゴウ)、楓香(フウコウ)などがあります。

竹や篠(シノ)、簳(トウ)、桃支などもあります。

生姜や柑橘類、胡椒や襄荷などもありますが、それらの風味をどう活用するかは知られていません。

献上する動物として猿や黒雉がいます。

彼らの風俗では、何か事を起こすたびに骨を焼いて占います。吉凶を占うためです。

事前に占うことを告げるとき、その言葉は亀占いの方法と似ています。火で焼いて割れた部分から占います。

彼らが集まって座ったり立ったりするとき、父親や子供、男性や女性の間には区別がありません。人々は酒を好みます。

尊敬する大人に会うとき、ただ手を打ちます。これは跪いて拝むことを意味します。その人々は長寿で、100歳になる人や80歳、90歳になる人もいます。

彼らの風俗では、大人たちは4、5人の妻を持ちます。下戸(平民)は2、3人の妻を持ちます。女性たちは淫らでも嫉妬深くもありません。

盗みや窃盗は少なく、訴訟も少ないです。法律に違反した場合、軽い罪では妻子を没収し、重い罪では家や門戸、一族を没収します。

尊卑の間には明確な差がありますが、それぞれが互いに服従します。

税金を徴収するための邸閣(ていかく)があります。国々には市場があり、物々交換が行われています。大倭(倭の大王)がそれを監督しています。
女王の国から北へ進むと、特別な大率(だいそつ)が設置されています。これは検察官のような存在で、各国から恐れられています。常に伊都国に駐在しており、その国内では刺史のような存在です。

王が京都や帯方郡や韓国へ使者を送るとき、また郡使が倭国へ行くとき、

皆臨津捜露(りんしんそうろ)で文書や贈り物を女王へ送ります。間違いは許されません。

下戸が大人と道路で出会うとき、彼らは道路から外れて草の中に入ります。

言葉を伝えるときや事を説明するとき、彼らはしゃがんだり跪いたりします。両手を地面につけて敬意を表します。応答するときは「噫」と言います。これは「然り」という意味です。

その国では元々男性が王でした。70年から80年間その地位にありました。しかし倭国では争いが絶えず何年も続きました。

そこで一人の女性を王に立てました。その名前は卑弥呼です。彼女は霊道(神道)を信じており、多くの人々を惑わせる能力がありました。

年齢はすでに高齢でしたが夫も子供もいませんでした。男性の弟が国家を支えていました。

卑弥呼が王になって以来、ほとんど見ることはありませんでした。1000人以上の女性奴隷が彼女に仕えており、ただ一人の男性だけが飲食物を運んだり言葉を伝えたり出入りしたり住居の場所を決めたりしていました。

宮殿や展望台、城壁や柵など厳重な設備が整っており、常に兵士が警備しています。女王の国から東へ海を渡ると1000余里先にさらに国々があります。それらもすべて倭人です。


さらに南に進むと、侏儒国があります。その人々は身長が3〜4尺(約90〜120cm)しかありません。女王の国からその地までの距離は4000余里です。

さらに南東に進むと裸国と黒齒国があります。船で1年かけて到着します。

倭の地を調査すると、海の中の島々の上に位置しています。島々は断続的に連なっており、その全体の周囲は5000余里です。

景初2年(237年)の6月、倭の女王は大夫の難升米らを郡へ送り、天子へ朝貢することを求めました。太守の劉夏は彼らを京都へ送りました。その年の12月、詔書が倭の女王へ送られました。

詔書には、「親魏倭王卑弥呼へ。帯方太守劉夏が使者を送り、あなたの大夫難升米と都市牛利を連れてきました。あなたが献上した男性4人、女性6人、班布2匹2丈を受け取りました。あなたの住む場所は遠く、使者を送って貢献することはあなたの忠義と孝行です。私はあなたを深く慈しんでいます。今、あなたを親魏倭王とします。金印紫綬を授けます。これを帯方太守に渡し、あなたに偽綬(ぎじゅん)を授けます。あなたは人々を慰め、孝順に励むように」と書かれていました。

また、「あなたが遣わした使者難升米と牛利は遠い道路を旅し、労働してきました。今、難升米を率善中郎将に任命し、牛利を率善校尉に任命します。銀印青綬を授けます。彼らを引き見て労い、賜物を与えて帰します」とも書かれていました。
さらに、「今、絳地交龍錦5匹、絳地縐粟罽10張、倩絳50匹、紺青50匹を贈ります。これらはあなたが献上した貢物に対する返礼です」とも書かれていました。

そして、「特別にあなたへ紺地句文錦3匹、細班華罽5張、白絹50匹、金8兩(約300g)、5尺刀2口(約150cm)、銅鏡100枚、真珠鈆丹各50斤(約25kg)を贈ります。これらすべてを装封(そうほう)して難升米と牛利に渡します。彼らが帰った時に受け取ってください。これらすべては国家があなたを慈しんでいることを示すものです」とも書かれていました。

正始元年(240年)、太守弓遵が建中校尉梯儁らを使者として詔書や印綬(いんじゅん)を持たせて倭国へ送りました。彼らは女王に拝礼しました。

また詔書や金帛、錦、罽、刀、鏡、采物(さいぶつ)を贈りました。倭の王は使者を送り、詔書に感謝の返答をしました。

その4年後(244年)、倭の王は再び大夫伊聲耆掖邪拘ら8人を使者として送りました。彼らは男女の奴隷30人、倭錦、絳青縑緜、衣服、布、丹木拊(たんぼくふ)、短弓矢を献上しました。

掖邪狗らは拝礼し、率善中郎将の印綬を受け取りました。

その6年後(250年)、詔書で倭の難升米に黄幢(おうちょう)を贈りました。これは郡が偽綬(ぎじゅん)を授けるためでした。

その8年後(252年)、太守王頎が任命されました。
倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼素は仲が悪く、倭載斯烏越らを郡へ送り、互いに攻撃する事態を説明しました。

塞曹掾史張政らが詔書や黄幢を持って難升米に拝礼し、告喩(こくゆ)するために遣わされました。

卑弥呼が死去し、大きな墓が作られました。その直径は100余歩です。葬式に参列した奴隷や婢(ひ)は100余人でした。

男性の王が立てられましたが、国内で反乱が起きました。互いに殺し合いが行われ、その時期に1000余人が殺されました。

再び卑弥呼の宗女壹與(いつよ)を立てて王にしました。彼女はまだ13歳でした。国内は安定しました。政等は告喩(こくゆ)して壹與に伝えました。

壹與は倭の大夫率善中郎将掖邪拘ら20人を送り、政等を帰すときに同行させました。

彼らは臺(中国の朝廷)へ行き、男女の奴隷30人を献上しました。また白珠5000孔、青大句珠2枚、異文雑錦20匹も献上しました。

Bing(GPT-4)

結果

ChatGPT4 plusは頑なに全文を訳そうとしない傾向がありました。途中で訳を止めたがる怠け癖があります。
Bingは優秀な訳だと思います。若干、おかしな挙動をする時もありますが、概ね頑張ってくれます。ただ、ChatGPTの方が人間的で協力的に回答へ導いてくれる感じがします。Bingは機械的に処理するというか、検索の回答に近い処理が目立ちます。
Google Bardでも翻訳をお願いしましたが、何かうなされたような意味不明の回答をして自滅しました。本当にGoogleは頑張んないとヤバいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?