見出し画像

モチベーション

最近、いろいろあって絵を描く時間が増えた。

なので来年の始めに営業で送るために色んなイラストを描いていた。営業先をアメリカだけじゃなく日本まで広げたいからだ。シンプルなラインのものから細かい背景、様々なテクスチャーを使ったものなど。とにかく広い範囲で仕事がもらえそうなように。ひたすら描き続けた。描くのが楽しい。ずっと描いていたい。毎日新しいイラストを描いた。そうしているうちにどんどん描くのが難しくなっていった。私は気がついた。描きたいものが多すぎるのだ。選べない。

何から描いていいかわからなくなった。冷静に「春夏秋冬のもの、一日の時間帯が違うもの、グラフィック性が強いもの」と、リストアップしていくとリストがエンドレスになるのでやめた。

自分は昔から絵を描く時に詰め込みすぎる癖がある。色々描きたいこと、したいことが多すぎるのだ。というか正直にいうと考えてない。何も考えないで描いている。構図や人物の配置などを中心に考えないといけないのに。木内達朗先生がいう「黄金比に従って描いてます」が頭の隅にあるのに。プロなのだから計算して、テキストが入りやすいようにしないといけないのに。ただ描きたい。線を引いて、線と線を繋げて、ずっと線を描いていたい、という思いだけで筆を動かしている。なので私は完成したイラストを見ては(あ〜次こそはちゃんと配置考えなきゃな)と思う。

というかそもそも自分の完成した絵に興味が無い。自分の作品を我が子のように大切にする人も多いが、自分はそうではない。私が描き終わった時点で私の絵は、我が子は、自立したのだ。世界に飛び羽ばたいたのだ。私は親の役目を果たした。終わりだ。元気な姿をたまに見れば満足なのだ。

大学時代、この事実に気がついた時は衝撃だった。と同時に色んなことが納得した。すぐ人に絵をあげてしまうし、後輩にイラストをパクられたりしたりしても、怒りなどは湧かなかった。(自分はまだ上手くなるのだから、関係無い)と冷静に思っていた。周りが「また私の画風がパクられた!」と騒いでいても、なんとも思わなかった。ただの通過点だろ。それで向こうがお金稼いでるならまだしも、そんなに怒ることか?そもそも自分の「画風」ってなんだ、世界にはごまんと似たような絵を描く人がいるんだぞ、と不思議でならなかった。でも空気を読める自分は「また?イラストが素敵だからしょうがないね〜」などと流していた。

とうとう話がまとまらなくなってきた。何が言いたいんだろうか。絵を描く時に詰め込みすぎるように、私は言いたいことも考えてることも詰め込み過ぎてしまう。こういう思考も絵に反映されるのだ。もっとシンプルに考えなければ。(こういう面ではnoteを書くことが自分の頭の中を整理するのにいい練習かもしれない。続けてみよう。)

ともかく線が引きたいだけの私が絵を描く際においてモチベーションに一番適したものは「リクエスト」だった。ただ漠然に自分の描きたいものだと、選べなくなってしまうし、仕事の依頼だと当たり前だが依頼通りにしないといけない。ふと思いつきで先週、インスタグラムで「色々新しいもの描きたいです。なにかリクエストありますか?」と聞いたところ有難いことに様々なリクエストをいただいた。恐竜、ゲームセンター、飼い犬、漫画やアニメのキャラクター、など。コミッションだとお金が発生するので依頼通りにしないといけないが、「リクエスト」なら別に必須でもないし、気が向いた時にその中から選んで自分の好きな感性で描ける。しかも一応人のために描くわけだから多少気持ちも丁寧になる。(そもそもプロなので何を描いてもかっこいい絵にはしないといけないのだが…) これだ!と自分は思った。自分のために描くと興味がなくなってしまうが、誰かの大事なものになるのならば、大事に描くのではないか。

そういえば高校生の時に付き合っていた当時の恋人に「毎日二つイラストのお題が欲しい」とお願いし、別に美術に興味がある彼ではなかったが「信号とカセットテープ、駅と海」などと今思えば彼なりに頑張って考えたであろうお題にそって絵を描いていた時期があった。大好きな彼のために念を込めて描いていた。売るわけでも賞に出す訳でもない絵を描いた。半年ほどでお別れしたのでお題期間は短かったが。でもその時期の絵たちをいまでもたまに見返すほど、楽しかったのだ。

いま、自分はその頃の気持ちと似ている。仕事でも自分のためでもなく。描いても描かなくてもいい、誰かの大事なものになるかもしれない絵を描く。そして結果的にその絵が仕事や自分の成長に繋がればいい。そのくらいゆるい気持ちで絵を描くのが自分には合っている。そのことに気がつけて良かった。気持ちが楽になった。さて、次のリクエストは「頭文字D」。困ったな。車か。苦手な分野だ。でも頑張ろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?