見出し画像

Beautiful World (Da Capo Version)

ふとテレビをつけると知らないアニメがやっていて、なんとなく最後まで見たら実はその日が最終回で、全体のストーリーもキャラたちの関係性も分からないけれど、エンディングテーマに煽られて少し感動した。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観終わって映画館を出た僕はそれと似た感情を抱いていた。今回は流行りの最終便に乗り込めたのだ。熱いファンではないけれど、ストーリーの全体像は理解しているし、会話をすれば盛り上がれるだろう。背景を考察してみるのも面白いかもしれない。お金に余裕があればグッズを買ったっていい。僕は上手にエンタメを楽しめているんだ。

ところがどっこい。数日経つとどうも気持ちがふらふらしている。エヴァの終わりを受け止められないでいる。

大学に入るまで夕方にテレビで流れているアニメを受動的に観るだけだった僕にとって、エヴァとヲタクはイコールだった。コスプレとかフィギュアとか同人誌とか、秋葉原に行ったりコミケと呼ばれるイベントに行ったりしたときにヲタクが楽しんでいるものはすべてエヴァという認識だった。

同級生がやたらと「ぽかぽかする」と言ってたときもたいしてリアクションしなかったし、銀杏BOYZの「あの娘は綾波レイが好き」もひっでぇ歌詞だけどノリの良い曲だとしか思わなかったし、葛城ミサトと碇シンジのエロ同人を単なるおねショタだと思っていた。

そしてコロナウィルスが大陸からやってきた。エヴァがサブスクで配信された。新劇場版を三作観て、考察動画を観て、僕はエヴァを把握した。良い作品だったがさほどハマりもしなかった。最もインスタントな形でエヴァを摂取したのだから当たり前の結果だ。初めから攻略本片手にゲームをプレイするようなものだ。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開されて二日目、僕は横浜にあるブルグ13でIMAX最終回の座席に収まっていた。隣の席では年齢が四十代に差し掛かったくらいのおじさんがポップコーンを貪り食っていた。

劇場内が暗くなり、YouTubeで観たダイジェストと冒頭映像から映画が始まる。映画館のスクリーンとスピーカーで威力が倍増されたエヴァに圧倒される。アニメが始まってから26年の時が経っているにも関わらず、まだ見ぬ新設定がザクザクと掘り起こされる。怒涛の展開に脳みそもいっぱいだ。おじさんのポップコーン咀嚼音も気にならない。小さく嗚咽が聞こえるくらいだ。台詞やBGMの間にある静寂のもとでようやく響くくらいのボリュームで。

思わず画面から目を離し横を向くと、おじさんが号泣していた。周りに迷惑をかけないように必死に声を殺して。僕は慌てて目を反らした。おじさんの神聖な何かを汚してしまったような気がした。

それから映画が終わるまで、体感で約1時間半、おじさんは泣き続けていた。終盤にさしかかり、庵野秀明のなりふり構わない演出、あらゆる可能性を排したエヴァンゲリオンの死亡宣告、まるで血で書いた遺書を絶叫するかのような展開におじさんの肩の震えは大きくなった。

エンドロールにさしかかり宇多田ヒカルの「One Last Kiss」が流れるとおじさんは席を立った。座席のドリンクホルダーにポップコーンのバスケットを差したまま。だから、おじさんは「Beautiful World (Da Capo Version)」を聴いていない。画面右下に浮かぶ「終劇」の二文字も見ていない。おじさんのエヴァはまだ終わってない。

もしかしたらおじさんのエヴァは永遠に終わらないのかもしれない。1995年に少年がブラウン管から流れるエヴァを目に焼き付けた瞬間からそう決まっていたのかもしれない。それは最後のシーンを見ないとか、大人にならないとか、作品が心に残るとか、そんなことではなくて、エヴァがおじさんの形をして生きていくということなのかもしれない。

『新世紀エヴァンゲリオン』はきっと一人の人間を作り上げてしまうような作品なのだ。noteを書かなければ僕はそんなことにも気づかなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?