閩南・客家・原住民の混血の母の話

私の母は台湾出身で、閩南人と客家人、そして台湾原住民の混血であり、外省人で軍人だった養父に育てられた。母は四人兄妹の末っ子で、長兄とも14歳離れていたため、台湾原住民系である血縁上のの父親や父方祖父母の記憶はあまりなく伝聞が多い。

それでも、事あるごとに「私たち家族は原住民の血が混ざっているからお酒に強いのよ」、「母が客家人だから台湾語は苦手」(かといって客家語ができるわけでもないが)と話すので、そのルーツを聞いてみた。

1.嘉義市で過ごした幼少時代
祖父(母の父)は、嘉義市出身で土木関係の仕事をしている曾祖父と、原住民の曾祖母の間に生まれ、曾祖父と同じ土木関係の仕事をしていた。祖母は嘉義県梅山出身の客家人で、祖父とはカトリック教会の関係で出会い結婚した。結婚後は嘉義市内で父方の曾祖父母と同居し、母を含め四人の子供を生んだ。

2.台中での別居生活
母が3、4歳の頃、祖母が姑である曾祖母と合わず、祖母が子供四人を連れて台中に逃げた。合わなかった原因は、曾祖母が(母いわく)原住民だったせいか口が悪く、敬虔なカトリック教徒で潔癖だった祖母が耐えられなかったらしい。

台中には祖母の親戚がおり、その人を頼って台中に居を構えた後はまな板や、番薯蜜(サツマイモを砂糖で煮たもの)などを売りながら生活した。幸いにも、そのとき長兄である伯父はすでに18歳、長姉である伯母は15歳で、次姉の伯母も11歳だったため、上の二人は働きに出て家計に入れていた。

こうして別居生活が始まったものの祖父母の関係は良好で、祖父は曾祖父と一緒に土木関係の仕事をしていたため、妻子と一緒に台中に住む訳にも行かず、月に一度、仕事が終わった後ひとり台中に行って妻子と会う生活だった。まだ幼かった母は、深夜に祖母に「お父さんが帰ってきたよ」と起こされ一緒に食事をしたのを覚えているそうだ。

3.祖父の早逝
そんな生活が1~2年ほど続いて母が5歳になった年、祖父が肝臓を悪くしたため仕事をやめて家族のいる台中に越してきたが、まもなく台中病院に入院して亡くなってしまった。もともと別居していた上、長兄長姉はすでに働いていたので経済的影響はあまりなく、引き続き台中市内をあちこち転居しながら様々な仕事をして次姉と私の母を育てた。

4.祖母の再婚
母が小学校二年生の年、祖母は知人を通して外省人で軍人だった継祖父と知り合い再婚する。継祖父は浙江省の裕福な家庭に生まれたが、国共内戦の混乱で国民党軍に徴兵されて参加し、国民党が内戦に敗れた際に国民党と一緒に台湾に来た(いわゆる外省人)。再婚当時、祖母は45歳、祖父は51歳だったが、(父いわく)当時はこのような未婚の外省人の老兵が多く、熟年再婚も珍しくなかったそうだ。

再婚の際、すでに働きに出ていた長兄長姉、中学を卒業する年だった次姉の伯母を除いて、母だけが継祖父と養子縁組をした。そのため、母兄妹の中で母だけが他の兄妹と姓が異なる。

5.澎湖時代
祖母と継祖父が再婚した年、軍の辞令が出て、継祖父は祖母と母を連れて三人で澎湖島に一年間住んだ。嘉義市で生まれ台中市内で育った母は、初めて経験する自然の多い生活を大いに楽しみ、今でも当時の生活を懐かしむことがあるそうだ。しかし、なさぬ仲の母にも大変優しいよい養父だった継祖父は、この頃は老兵仲間との賭け麻雀での散財が酷く、祖母は何度母を連れて港から海に飛び込もうと思ったかわからないと晩年、母にこぼしたそうだ。

6.台中時代
一年間の澎湖島での任期を終えて台中に戻ってからは、継祖父は引き続き台中の軍隊に勤め、祖母は細々とした仕事をして暮らした。母が夏休みや冬休みなどで学校がないときは、継祖父が軍隊の宿舎に遊びに連れて行ってくれたり、あれこれ面倒を見てくれたそうだ。

母が中学生のころに台中北部の圳堵営区近くに家を買い、結婚した長兄夫婦と同居する。中学卒業後、豊原の商業高校を受験するが失敗、1年間豊原の文具店で働いた後に、台中の商業高校の夜間学部を受験して合格し、台中の工場で住み込みの仕事をしながら夜間高校に通った。

高校卒業後は全国大飯店(当時は今の二倍以上の規模で高級ホテルだった)1階のカフェで働き、20歳のころ聯誼(親睦会)で同じホテルの娯楽部で働いてた父と知り合い、24歳で結婚。結婚後まもなく夫婦揃って日本に移住し、私と弟を産んで育てた。日本語をしっかり学ぶ機会のなかった母は、日本での生活でかなり苦労したのだがその話はまた後日聞いてみたい。

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