New Jeans OMGのメッセージとその批判的検証

昨年末から今年初めにかけて、期待をはるかに上回るクオリティの曲(Ditto・OMG)を世に放ってきたNew Jeans。そんなDitto・OMGがリリースされてから1ヶ月弱が経ち、各種活動も本格的に行われるようになった中、MVについてどうこう言う人物もいなくなったように思われるため、OMGのMVを中心にあえて今さらながらNew Jeansチームがどんなメッセージを発しているのか読み解いていきたい。

なお、以下の記事を書くにあたっては何らの「考察」にも目を通していないが、「未成年者に精神疾患を抱える人物を演じさせるのはどうか」という議論があることは把握している。しかし、当記事はあくまで制作者の意図を読み取ろうとすること、ならびにその意図の達成について検討することに専念しているため、そういったメンタルケアにかんする議論は当記事の内容とは関係がないことをお断りしておく。また、以下で読み解くメッセージの発信者が制作者のうちの特定個人なのか、制作者全体なのか、それともNew Jeansが所属するレーベルADORなのかが判然としないため、ひとまず「New Jeansチーム」として言及する。

OMGのリリック

まずはOMGのリリックの内容から確認していこう。
わたしには韓国語をそのまま理解する能力はないため、リリックの内容を把握する際は以下のリンクなどを参考にした。
https://katakanakpop.hatenablog.jp/entry/newjeans-omg

リリックの内容は、おおむねラブソングの範疇に入ると言っていいだろう。
しかしこの内容は

  1. 現実世界に存在する他者に向けたもの

  2. 自分自身で創り上げたイマジナリーフレンド的な他者に向けたもの

  3. 自分自身が創り上げたもう一つの人格、つまり自分自身に向けたもの

という三つの解釈が成り立ちうるように思われる。2と3の可能性があるのは、

They keep on asking me, “who is he?”
He's the one that's living in my system baby

https://katakanakpop.hatenablog.jp/entry/newjeans-omg

に典型的なように、歌われる"He"は実在する人物ではないフシや、自身のシステムで生きる人物=自分自身であることを匂わせているためである。

OMGのMV

以上のさっくりとしたリリックの読解に基づき、MVの内容も整理していこう。

MVは、精神病院にいるNew Jeansのメンバー5人が自身の症状を述べていくところから始まる。

HANIの独白を端緒として、New Jeansの5人は現実の人格とは別にもう一つの人格を持った人物として描かれている。ここでは個々の人格について深く立ち入らないが、それぞれ
  MINJI:医者
  HANI:iPhone
  DANIELLE:他者には見えない/聞こえない何かを感じることができる人
  HAERIN:ところ構わず絵を描く猫
  HYEIN:プリンセス
となっている。

各人がこうした別人格を持つことを描写した後にはMVと現実がリンクするメタ的な構造も持ち込まれる。他人が見えない何かを察知することができるDANIELLEは「自分たちがNew JeansでありMVを撮影していると思い込んでいる」ことがその一つだ。

終盤の描写では、冒頭に診察をしていた精神科医らしき人物は精神科医ではないことが示唆される。

MVの音楽が終わると、New JeansのこれまでのMV・ライブのフッテージが唐突に差し込まれ、入院患者を演じるNew JeansのメンバーがNew Jeansの映像を見ている様子が映し出される。

続いて、New Jeansのメンバーがいなくなった部屋に残された別の入院患者が現れる。この人物がHAERINの書いた絵を取り上げ、その後に窓の外を眺めると、描かれたキャラクターが街を闊歩している様子が目に入る。

以下、クレジットとなりMVは終わる。MVのストーリーラインをざっと追うとこのようなものだ。

OMGのメインメッセージ

続いて、以上の表象やストーリーが何を含意しているのかに解釈を加えていきたい。端的に言うならば、わたしはOMGという作品は想像力/創造性の二重性を含意したものであると考えた。

まず、リリックの内容で確認したとおりOMGは複数の解釈ができるのであるが、MVの内容も踏まえると、やはり自分自身が想像力によって創り上げたもう一つの人格に向けたものである可能性が高い。そして、「想像力によって何かを創り出す」人間としてMVの中で象徴的に表されているのが、精神疾患を抱える人物であると言えるのだ。

想像力豊かな人間が創り出せるのは別人格だけに留まらない。想像することで「世界」や「世界観」を創り出せることも、HYEINがさまざまなプリンセスとして現れることや、前述したクレジット前の「HAERINが書いたキャラクターが窓の外に見える」という描写で示される。

さらに言えば、「New Jeans」というグループも想像の産物であることまでもが「New JeansというグループのMV撮影であると思い込むDANIELLE」「New JeansのメンバーがNew Jeansの映像を見る」というメタ的な構造によって表象されているのである。

これはまさしく、New Jeansという存在や現象、さらにアイドルそのものが想像力によって創造されていることを含意していると解釈できる。そしてこの構造は、カメラで撮影された実在しない友人こそがリアルで、さらに過去の映像として振り返ることにより存在しないノスタルジアを生成するというDittoのMVともほぼ共通していると言えるだろう。つまり、Ditto/OMGはNew Jeansチームによるアイドル論を異なる形で描写したものであり、アイドルという存在を創り上げるためには想像力が重要であること、さらに創造された何かかよって再び想像力が駆動されることを視聴者・聴取者に示しているものとして捉えられるのである。この構図からは、現在のK-Pop界隈で想像力と創造性を誰よりも発揮しているのは我々である、という制作陣のエゴとプライドも透かし見ることができる。

OMGとDittoとで共通する点はまだある。この想像力/創造性はポジティブな方向にだけ働くのではない。Dittoのように存在しない他者、あるいは画面上にしかいない他者を想像/創造しその世界に耽溺すると、他者からは孤立し、白い目で見られる。あるいは、OMGのように自分自身でもう一つの人格を創り出し、声を聞いたり語りかけたりすると、現代社会ではたいてい何らかの症状が付き、多数派の社会から疎外される。このように、想像力/創造性の往還だけでなくポジティブな面とそうでない面の二面性を描いているのがDittoであり、OMGであるのだ。

このメッセージの解釈が正しければ、OMGのMVにおける一連の表象は必然性と一貫性があると言えるだろう。

OMGのメッセージの検証

上記のように読み取れるOMGは、MVの最後の場面に最も物議を醸すであろう一場面が挟み込まれている。OMGのMVを見たネチズンが暗い部屋でパソコンにネガティブなコメントを打ち込むと、MINJI扮する医者から「行こう」と促されるというものである。

この最後の場面も二通りの解釈が可能である。一つは、愚にも付かない書き込みをする者は精神疾患を抱える者と同じだ、という突き放した解釈、もう一つは、そうであるならば批判者もMVの登場人物や制作者と大きくは変わらないため、こちら側にお招きしますよ、という解釈である。この、決めつけとも言える姿勢と現代人はみな心の病を抱えているのだと言わんばかりのメッセージは議論が巻き起こるところだが、後者の解釈が成り立ちうるためにMVはあらゆる人に優しく手を差し出しているという見方もできなくもなく、そういった「寄り添う視線」や「ケアの論理」により批判をかわすことができるわけだ。

しかし、わたしが今回のMVのうち決定的に失敗しているものと考えるのがこの最後の場面である。その理由は、ネットで批判をする人間をあまりにもステレオタイプ的に描いているからでも、批判者の皆さまも我々の素晴らしい世界に招待して差し上げますよ、という隠しきれない上から目線の姿勢が鼻につくからでもない。メインメッセージであるはずの「想像力/創造性」に反する表象である点が問題だと考えるためだ。

これまで説明してきたとおり、New JeansチームはDittoとOMGで想像力/創造性の重要性をこれでもかと浴びせてきたわけだが、OMGのMVの最後に出てくる人物による書き込み(「顔とダンスを見せるだけで良いのでは…」)はMVのこうしたメッセージを全く汲み取れていないため、あまりにも想像力に欠けている印象批評であると言わざるを得ない(もちろん、わたしの捉え方がある程度正しければ、という留保は付く)。
New Jeansチームの人間観ではこういった人物は当然創造性にも欠けているため、想像力/創造性の象徴たる精神疾患を抱える人物と同一視することはできないし、想像力/創造性をフルに働かせていると自負する「こちら側」にも永遠に来ることはできないだろう。つまり、最後の場面はDittoとOMGが内包するメッセージからは導き出すことができない表象であると言える。

仮にメッセージとMVの表象を一致させるのであれば、批判者には何も見えていないことを伝える必要があるため、DANIELLEよろしく砂嵐の画面を提示し、「(わたしたちのメッセージが)本当に何も見えていない・聞こえていない(=想像力がない)のはあなたですよ」ということを伝えるべきだっただろう。あるいは、画面の向こうからNew Jeansの5人が冷たくこちらを見ているといった内容にしても良かったかもしれない。いずれにせよNew Jeansチームはこうした選択をしなかった。

では、なぜそうしなかったのだろうか。ここにはコンプライアンスを重視した戦略があったと推察される。

表現とコンプライアンス

New Jeansチームが危ない橋を渡る表現を好むのは、1stEPに収録されているCookieから見られた兆候である(ここでは詳しい解説はしない)。わたしの考えでは、New Jeansチームは英語圏の文化に強い人材が集まっているためCookieが意味する内容を当然把握しており、そうでなければCDと重ね合わせる円形の甘い食べ物としてわざわざCookieを選ぶはずがないだろうと邪推する(別にカップケーキでもバームクーヘンでも何でも良い)。だが、英語圏のポップソングやオーディエンスの文脈も踏まえていますよ、という制作者の文化的教養を示すためにあえて忍ばせ、その代わりにMVでは誰がどう見ても「Cookie=CD」と解釈できるようにしたはずだ。これにより、Cookieの解釈のまずい方に批判が来たとしても容易く逃げ切れるというわけだ。そして実際にこの戦略は功を奏し、楽曲発表後に話題として取り上げられつつも本格的な問題にまで発展することを避けてみせた。

こういった技巧をクレバーと見るかSNS時代のマーケティングの下劣さと見るかはさて置き、このようなメッセージの伝え方とコンプライアンス重視の戦略のバランスが、Cookieとは違いOMGでは悪い方に転んだとしか思えない。視聴者・聴取者に対して批判は織り込み済みであることを提示した代償として、本来的なメッセージを毀損してしまったためだ。

こうした、コンプライアンス重視の姿勢と伝えたいメッセージとの間で揺らぎが見られるクリエイター陣が「想像力/創造性」を高らかに謳い、そして恐らく2023年1月現在最もクリエイティビティを発揮して成功しているチームとなっているという事実は、中々皮肉なものと言える。

しかしその一方で、完成度の高さのみを求められるであろうK-Pop界隈でこうしたクリエイターの「クセ」や「エゴ」のようなものが垣間見られるところはどうしても嫌いになれないし、それがNew Jeansの魅力を構成する一つの要素にもなっているのだろう。

現在制作中というアルバムはどうなるのか。楽曲やアートスタイルは言わずもがなだが、メッセージの面にも注目しつつ楽しみに待ちたい。

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