受け入れたリスクは(2012.07.18)

私は四国の愛媛県に生まれました。昨年からは、四国電力伊方(原子力)発電所が立地している場所として、お知りになった方もいらっしゃるかもしれません。

伊方発電所の1号機は、私が物心つく前の1977年に営業運転を開始しました。そのようなわけで当時、発電所の立地を巡って地元の関係者がどのような立場でどのような言動を行っていたのか、私は後日読んだ資料などでしか知りません。

その後1982年に2号機の営業運転が開始され、1986年には3号機の建設がはじまりました。この頃になると、私は原子力発電というものが何を行っているのか、少しずつ理解するようになりました。というのも、四国電力は原子力発電が安全で、安定的に電力を供給する優れた発電方式であるということを懸命に広報していたからです。

細かいことは覚えていませんが小学生の児童と、その保護者を対象に「見学会」が行われていて、私も参加したことを覚えています。見学会と言っても、発電所の敷地内に入るわけではなく、広報施設をバスで訪問するだけのものです。

・「核分裂」によって発生する熱を利用して水から蒸気を発生させ、タービンを回して発電すること

・ゆっくりと核分裂反応が進行するように、燃料棒の配置などを設計していること

・制御棒を使うことで核分裂反応を停止させることができること

・燃料ペレット一個で、一般的な家庭が1年間に消費する電力を発生させることができること

・放射性物質が漏れ出さないように、厳重に管理していること

振り返って考えると正確な知識とは言えないところもありますが、小学生だった私にも、これらのことが理解できました。

1973年に第四次中東戦争、1979年にイラン革命が起き、2度の石油危機を経験した日本にとって、石油以外のエネルギー源はどうしても手に入れたいものでした。私たちは「もしかしたら何らかの危険があるかもしれないけれども」原子力発電を受け入れました。

「何らかの危険」とは何でしょう。微量の放射能漏れ事故は各地の原発で起こっていました。伊方発電所は加圧水型軽水炉(PWR)です。PWRには蒸気発生器という装置があり、そこで圧力容器内を循環している一次冷却水と、発電用タービンを回す蒸気をつくるための二次冷却水との間で熱交換を行っています。この蒸気発生器内部の細かい配管にヒビが発生し、一次冷却水が二次冷却水側に漏れる、という事故がしばしば起きました。

なおPWRではタービンを回した後の蒸気ををさらに海水で冷却して水に戻す(復水器)、という行程をとっているため、漏れた放射性物質がそのまま海水中に放出されてしまう、ということは通常ありません。

つまり「安定した豊かな暮らし」のために、「健康や環境に影響はたぶんない、と考えられるレベルの、微量の放射性物質が漏れてしまうリスク」を私たちは受け入れたのです。受け入れなかった人たちももちろんいらっしゃいますが、多くの国民は受け入れた。

1979年にスリーマイル島発電所で、1986年にチェルノブイリ発電所で大きな事故が発生しましたが、現在の日本の原子炉ではそのような過酷事故は起きないだろうと、多くの人は思っていました。もちろん、私も。

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