大和型戦艦二番艦

有名すぎる姉妹艦の影にあった、二番艦武蔵。しかし、彼女の生涯は武神と名高いものであった

こんにちは寺谷です。今回は大和型戦艦二番艦武蔵について書いていこうと思います。

大和型戦艦の建造計画は1930年代中期に始まった。前級の長門型戦艦の排水量約3万トンから約6万トンまで急激に増加したので、その建造は苦難の連続であった。この大きさの戦艦を建造できる施設は日本に呉海軍工廠の一つだけであった。しかし、この時、呉海軍工廠は戦艦大和の建造途中なのでここでは武蔵を建造することは不可能であった。そこで建造場所として選ばれたのは三菱長崎造船所である。ここでなら、約3万トン、つまり武蔵の船体だけはここで建造可能という理由である。
そして、この2隻の建造はトップシークレットであり、国内にも内密なものであった。呉海軍工廠はこの船体を隠しやすく、 建造することができるのだが、三菱長崎造船所はそうはいかずあえてドックの前に倉庫を建造し隠したりもした。他にも建造ドックからそのまま海へ進水させると対岸に激突してしまうため、鎖でブレーキをかけつつ対岸に平行になるように進水させ、対岸に浸水被害をもたらしたこともあった。武蔵は仕上げに呉海軍工廠へ向かい、1941年12月16日に戦艦大和は就役した。そして、この時日本海軍は優勢であったため、大和とは異なり建造は急がれず大和の運用で明らかとなった問題解決を行いつつの慎重な建造であった。1942年5月8日、武蔵は就役。連合艦隊に属した。しかしこと時点で戦艦の需要は下がり航空母艦が最重要視され、3番艦として就役予定だった信濃は空母改造され、4番艦は建造自体が中止された。すなわち、武蔵は旧日本海軍が建造した最後の戦艦なのである。

武蔵の最初の任務はトラック島であった。山本五十六元帥の遺体を運ぶ任務を全うした。この後い号作戦に参加しようとするが失敗し、トラック島に長く停泊していた。こと時、武蔵家旅館や武蔵御殿と陰口を叩かれていた。実際この時の武蔵は戦歴も冴えず戦いに参加していない。

次にトラックからパラオへゆくがパラオも危険となり、避難、その途中アメリカ潜水艦から雷撃を食らうが乗員のほとんどがその衝撃に気づかなかったそうだ。1944年マリアナ沖海戦が勃発。空母機動部隊の盾となり敵航空機を撃滅する作戦であったが、アメリカ航空機は戦艦を無視し空母のみを攻撃したため、日本は翔鶴を含む航空母艦3隻を失った。

1944年10月、フィリピンのレイテ島へアメリカ軍が上陸した。かの栗田艦隊を含む旧日本海軍残存戦力は乾坤一擲の出撃を行い、レイテ島へ向かった。シブヤン海上でアメリカ空母の攻撃が始まり、大和武蔵は集中的に狙われた。この時、自身の主砲の衝撃でレーダーが使用不可となった。そして、第3次攻撃で武蔵は既に満身創痍であり、命中魚雷数は9本。しかし、彼女はそれでも会場で浮いていた。続く第4次攻撃において、到来した敵航空機は70、この時の命中魚雷は11本であった。そして、艦橋がここで破壊された。

しかし、こと時の武蔵の働きによりアメリカ艦隊は急速北上し、レイテ島をあけ、日本艦隊の突入を許す結果となった。戦力を温存し、レイテ島突入の機会を作ったのは他でもない戦艦武蔵であった。

今回は武士の誉とも言える殿をしっかりと務め果たした戦艦、武蔵について書かせていただいた。己もこの精神を見習いたいと切に思う。

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