「しまなみ誰そ彼」感想文

鎌谷悠希『しまなみ誰そ彼』が完結した。ので少し読書感想文を残しておこうと思います。
最終巻のネタバレを避けつつ書いていますが、注意して読んでいただきたいと思います。

「誰そ彼」ということば
「誰そ彼」は、現代では一般に「黄昏」と表記されることが多いです。これは夕刻のことを指し、薄暗がりで誰だか判別がつきにくいということから、古来よばれた「誰そ彼(あなたは誰ですか)」が変化したものだといわれています。したがって「しまなみ誰そ彼」というタイトルに込められた意味は、「しまなみにいる判別がつかない誰か」あるいは少し連想して、まだ何者にもなっていない「アイデンティティを獲得していない誰か」という意味が込められていると考えられそうです。迷いながら自分らしさを模索する登場人物たちの影が重なるタイトルです。

誰かさんというブランクスクリーン
 誰かさんは何も尋ねてきません。人の話や悩みを聞きますが、聞きかえしません。人の悩みを聞いて何も反応しないというのは、少し自分で実践してみれば気がつくことですが、これが案外に難しいしエネルギーがいります。慰めたくもなるし、助言もしたくなるし、指摘したくなります。誰かさんはあえてそれをしないのですが、間違ってはならないのが誰かさんは決して無関心ではないということです。聞き返さないが、あなたのそばにいて聞くという姿勢がある。誰かさんと話している相手は、自分の感情をありのままに吐露したりぶつけたりしています。ある人は自分の姿を重ね合わせていることもあります。つまり誰かさんは、誰かのセンシティブな部分を投影するためのスクリーンであり、投影された自分の姿を見てはたと洞察するための触媒として機能していました。


自分を認めるということ
 この物語に登場する思春期・青年期にある人たちの通奏低音的なテーマとして、「自らの性を問うこと」や「自分らしさとは何か」、他に「異質な他者を認める」ということが流れているのを感じました。たとえば美空は、ありのままの自分の姿を好きになれないでいます。精通が生じ、嫌でも男性である自分と対峙せねばならない。飾りのない自分の姿を見るのはとてもつらいことだし、傷つきも伴います。見たくない自分の姿を隠したいという気持ちが、大なり小なり誰にでもあることです。美空の女装は、見たくない自分の姿を隠すための鎧であるように考えられますし、またそれ以上の大きな意味として、女性装をしているとホッとしたり、自分らしいと思うのでしょう。美空が大きな傷を負ってしまう決定的な出来事として、痴漢被害にあってしまいます。「自分の姿を可愛いと思っている自分」と、可愛いから狙われたという「攻撃欲求」とが複雑に交わり、やはり自分はどうしようもなく男性であるということを自覚させられます。自分の姿を可愛いと思っている自分は、可愛い子を狙った痴漢と大差ないのではないかと。

心の深い層から立ち現れることば
 本作には登場人物が作者の手を離れ、自律的に動きだしたような深いセリフがありました。私が最も印象に残ったセリフはたすくが誰かさんを通して訴えた怒りのセリフである。
「俺は死にそうなのに なんであいつらは死なないんだ。」

小説や文学では、強烈な感情が描かれていても、自分の想像力の範疇で人物が描かれるが、マンガではその瞬間の表情が直に迫力をもつんだなぁと感じたワンシーンでした。

何者かになりたい人と、何者でもない人
 一般にモラトリアム(猶予期間)にある人は、自分が何者かになることや、社会の一員として何かの役割についてしまうことを忌避します。フォン・フランツ『永遠の少年』では、サン・テグジュペリを例にとって論じています。誰かさんは、誰かさんを取り巻く多くの人にとって誰でもない・何者でもない"誰か"でした。フォン・フランツが論じるところによって、誰かさんを永遠の少年として考えることは容易ですが、何かの理論に当てはめて考えてしまうと、この作品の創造的な価値が色あせてしまうようにも思います。誰かさんは、何者にもなりたくないというネガティブなエネルギーを糧に生きているのではなく、何者にもラベル付けをして独立した人間として考える現代に対するアンチテーゼとして生きているのだろうと考えました。何者でもない誰かという存在は曖昧で、周囲にいる人間を不安にさせますが、一方で「何者でなくてもいい。気張らず飾らずあなたはあなたのままでいい」という温かい受容を体現しているように思います。そしてその姿は時に浮遊するように、今の世ではどこか浮世離れしています。

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