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デジモンアドベンチャー tri.について

デジモンアドベンチャーtri.は、私がコンプレックスを発揮して全く受け付けることができない作品です。デジモンアドベンチャー〜フロンティアの連続作品、セイバーズまで(なんとか)見てきた世代の人間として、2014年に行われた15周年記念イベントでtri.の制作が発表されたとき、手放しで喜べたわけではありませんでした。これは、デジモンシリーズ、とりわけアドベンチャー・02が人生の一部となり大好きすぎて自己解釈が暴走した拗らせ記事です。デジモンファンのなかには多少似たような思考の人がいるんじゃないかなと、微かな希望を込めて書いていきます。

アドベンチャーが放送された当時、私は幼稚園児でした。アニメ放送より前にアニメゲーム好きの親の影響もあって、デジモンワールド(PS)を知っていました。幼稚園の友達がおままごとで遊んでいたような年齢に、私は父からスト2でぼこぼこにされて泣き喚いたりしました(ひどい親だ)。幼子の私の手では波動拳が出ないし、エドモンド本田は張り手ができない。
そんな、幼少期から多少アウトサイダーだった自分にとって、アドベンチャーが見せてくれる冒険ファンタジー、暗さ・歪さを隠さない選ばれし子どもたちの姿は、私にとって少しドキドキする大人の世界でした。

アドベンチャーの物語をざっくり言うと、選ばれし子どもたちと呼ばれる子どもたちが、リアルワールド(現実)からデジタルワールドに召喚され、たくさんの強敵と戦い、子どもたち同士は葛藤し協力し絆を育み、少しだけ問題を乗り越えてリアルワールドに戻ってくるという構造になっています。古くはジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』、家庭に困難を抱える子どもが主役の物語としては宮部みゆきの『ブレイブストーリー』、近年では辻村深月『かがみの孤城』のような、大雑把にいって、困難を乗り越えて成長する物語に近いものだと思います。

さて、デジモンシリーズにおいて、リアルワールドとデジタルワールドという二つの世界が存在します。そして、デジタルワールドに行くのは"選ばれし"子どもです。物語ではふつう、多くは誰かに選ばれ何者かに召喚されるという手順が踏まれますが、その召喚主は出てきません。それから、選ばれる理由となる性質としては、それぞれが家庭や自身に困難を抱えているという共通項があります。何か勇者的な生まれ持った資質が選ばせるのではなく、デジタルワールドに行って問題を乗り越える必要がある子どもが選ばれます。太一は自分の無鉄砲さが裏目に出て妹への負い目を抱えていますし、ヤマトは離婚した母親の代わりを引き受けて母親役を担おうとしていますが、本当はすごく寂しい思いを秘めています。他にも軽重は様々な困難を子どもたちは抱えています。

アドベンチャーのシリーズは超常現象的な不思議なことがたくさん起こりますが、それら全ては誰か第三者が観測しているわけでなく、子どもたちの主観(02最終話において、誰の主観で描かれていた物語なのかが明らかになります)において語られます。起こりうるはずのないことが起こるとき、それが創作の机上で描かれるとき、起こりうるはずのないことは物語のなかで実際に存在することになります。この論理で考えると、デジモンは存在するし、デジタルワールドへの召喚は不思議な力によって導かれるし、リアルワールドの危機は災害のように訪れます。ですが、これが子どもたちの主観によって描かれるとき、それらは実際には起こっておらず、子どもたちの空想と考えることもできるのではないか、というのが私の考えです(精神病や神経症における空想、妄想は現実に起こっておらず、病主の精神内界においてのみ存在しているという極めて常識的な考え方と同様です)。

したがって、アドベンチャーの物語のなかでは、子どもたちの空想(ファンタジー)においてのみ、デジタルワールドが存在し、パートナーデジモンと呼ばれるバディがいて、生死を賭けたバトルがあって、地球存亡の危機的状況があったというのが私の解釈です。
そして、ファンタジーはいつか終わりがきます(終わりがこない場合もありますが、ここでは書かないことにします)。終わりの時は現実からの要請、すなわち進学や家族が増えることや就職といった諸々のライフイベントによるものかもしれませんし、ある拍子にファンタジーが不要になる(≒現実でやっていけるだけの成長が得られた)のかもしれません。
アドベンチャーの世界においても、最終回においてデジタルワールドから閉め出されることになります。アポカリプスを乗り越え、自身の課題や困難を呼び込んでいる性格と向き合い乗り越えた後、デジタルワールドにとって子どもたちは不要になったと告げられ、リアルワールドに帰ります。そこで子どもたちはファンタジーとの別れを体験します。これも何者かがデジタルワールドから追放するのではありません。最後は子どもたちが決意して別れます。

ファンタジーは一旦別れると、それきりもう二度と再会がないかというと、そうとは言い切れません。私たち現実に生きる人も、子どもじみた空想をたくさん体験してきて、小学校高学年くらいになると一旦別れて、それきり、という場合もあります。一方で、成熟してからも時々小説を読んだり、アニメを見たり、ゲームをしたりして、空想の世界を味わって補給することもあります。そして、ある程度味わったらまた現実に戻っていきますし、空想の世界を楽しみにできることで、現実とのバランスを取っているのだと考えられます。ファンタジーを断絶するのではなく、楽しみにできるということは、自身の心の中にファンタジーが内在化する(いつでも取り出せる状態)ということになります。

子どもたちはデジタルワールドでたくさんの経験をし、そろそろリアルワールドに戻ってやっていくよ、と決意します。子どもたちにとって、ファンタジーが不要になった瞬間です。現実は困難に満ちています。人生は誰にとってもとても辛い。そんな世界でやっていこうというのは相当な決断です。覚悟があろうがなかろうが、現実でやっていくのだという選択です。選ばれし子どもたちは、そうした一夏の冒険を体験して、たくさんの成長を体験しました。

tri.の制作はそれらすべてのかけがえのない体験を無に帰したと思っています。
子どもたちが選んだ人生、決断した別れ、そしてファンが体験したファンタジーとの別れ、喪失感を、見事に踏みにじってくれました。
喪失感は埋めないといけないものでしょうか。忌避されるものでしょうか。好まれるものではないでしょうが、忌避するようなものではないと私は考えています。別れを体験し、体験を内在化し、歩みを進めていく。ファンも、選ばれし子どもたちも、そうして現実での適応を叶えてきました。
再会は嬉しいものです。tri.が制作決定した際の映像の最後、いつもの調子で鳴るデジヴァイスの電子音に、私は泣きました。ですが、同時に複雑な思いもありました。
キャストが変わる、設定が変わっている、アニメーターもデザイナーも違う、違うところばかりでした。それの何がいけないのか、ファンと同様の別れを体験してきた人たちが作っていないことが最後まで受け入れられませんでした。
私にとってデジモンはかけがえのない体験です。tri.に限らず、近年のlast evolution、新テレビシリーズの『:』、今後の新しい02、どれをとっても懐かしいという気持ちで見られません。思い出を弄ばないでほしいという身勝手な思いが強まります。

最後にシリーズディレクターの角堂さんのブログの一文を載せて終わりにしたいと思います。この角堂さんのエントリが掲載されたとき、私はシリーズの名を冠したデジモンにはもう期待できないと感じました。角堂さんもデジモンに愛情をもって育ててくれた一人。その方がシリーズから離れた衝撃は大きすぎました。

アドベンチャー、および02に満足し主に設定面で近作に不満をいだいて次作に期待されてたという方々には満足できない部分があるかもしれない、それほど気にならない程度のものになる可能性もありはしますが、そういう方が完成までずっと期待し続けて落胆するのも申し訳ないのではと、降板の公表に至った次第です。
http://kakudou.en-grey.com/デジモン系/デジモン新プロジェクトについて

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