普通未満の生涯を送ってきました。

私は左利きでしたから、生まれながらにして周囲の人々と性質を異にし、そのために時折猛烈な疎外感のようなものを感じたものです。

あれは小学校に入学してすぐの頃、新入生皆に配られた教科書やら算数セット等の中になんとも不可思議な形状の玩具を発見しました。確か名前を「もちかたくん」といったでしょうか、クラスの皆がするように私も鉛筆にその玩具をはめ込み、左手で書き物をしていました。
そうしているうちに担任の教師が私のもとにやってきてこう言うのです。「無理して使わなくてもいいよ」。

私にはなんのことやらさっぱりわかりませんでした。何しろ当時の私はその「もちかたくん」なるシロモノを、鉛筆をおしゃれに着飾るための玩具だと本気で思っていたのですから。小学校に入学したお祝いの玩具だと。
ですからなぜ私だけが鉛筆を着飾ることを咎められたのか、全く持って理解できなかったのです。

大人の目から見れば、本来右手で使うものを無理やり左手で使っているわけですから、私が無理をしているのは明らかだったのでしょう。
しかし当の私はといえば無理しなくていいなどと言われましても、無理をしている自覚さえ無かったのです。

当時の教師の発言の真意に気づいたのはそれから何年も経ってからのことでした。中学の頃だったか高校の頃だったか、乱雑な学習机の上に何年も使われていなかったもちかたくんの姿を認めました。
なにやら懐かしい心持ちになり、鉛筆にそれをはめ、試しに右手で持ってみますと、指が然るべき場所に自然と収まり、正しい持ち方になったではありませんか!

世の中の人々の大半は右利きであり、道具も右利き用に作られている。当時私に配られたおしゃれな玩具も右利きの児童が鉛筆の持ち方を身につけるためのすこぶる実用的なシロモノであったと、そういうわけだったのです。
ですから、当時の教師の「無理して使わなくていいよ。」とのお言葉を理解するには、こういった世の理をよく飲み込んでおく必要があったというわけでした。
当然世間知らずの私にはそのようなことは全く理解不能、思考回路がショートするに至ったわけなのでした。

こうして私は皆が当然のようにやっている「右手で書き物をする」という行為さえできないイレギュラー人間であることを思い知らされたのでした。

保育園の頃も当然、箸やら鉛筆やらクレヨンやらを左手で使っていたのでもっと早く気づいても良さそうだとも思えましょうが、きっとその頃は自分が皆と逆の手を使っていることにさえ気づかぬ阿呆だったのでしょう。

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