合う、合わないの話


わたし、もう少しがんばってみる。

だってわたしが決意したことだから。

苦しくて、辛いけど、
支えてくれるみんながいるから。

絶対
夢を叶えてみせる。

なんて投稿を実名で出せる人になってみたかった。
他の投稿を含め、私は所詮匿名でちまちま書いている人だ。発言の全てに100%の責任をとろうとしていない。自分が考えに考えたことのうち1割にも満たない、「めずらしく考えがまとまって、他の人にも見てほしいこと」をnoteに書いている。
要するに、考えた内容を現実世界から切り離しているのだ。
このnoteを読んだからといって、私のプロフィールを見たからといって、現実の私がわかることはまずないだろうし、私の周りの人々がこれを読んで私だと納得することも…あるのかどうかはわからないけど。
とりあえず、noteを書いている私はたいてい「気にしいで余計なこと考えすぎる私」であってその他の私はいない。
まさか、こんな拙い文章で私の全てを表現しうるとは思わないし、そもそも私は論理的な思考をしているわけでもない。
「行動にはきっかけがある」なんて、懐かしい言い回しを思い出した。確かにそうだとは思う。ただ何でもかんでも1つ2つ(あるいは5つくらい?)の「自分で自覚している」きっかけだけが一つの行動に結びついているわけではない、はずだと思う。
幼少期の経験、無意識のうちに刷り込まれている考え方(家族だったり、今属しているコミュニティだったり、さまざまな場合があるよね。)、何か差し迫っている予定の有無、健康状態やそれが起こった時間帯、その他諸々によって、私たちの気持ちというものはすぐ変わる。

それにも関わらず、だ。

SNSやこういうプラットフォームを現実世界と地続きで使うって、どういう気持ちなんだろう。

「思ったこと」の言質をまわり皆んなにとられる。キラキラしたストーリーを描くのはいいけれど、それを唯一の正解のように扱っていいのか。言葉を変えると、そこに組み込まれなかった大切なきっかけたちを無視してしまっていいのか。

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