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photo session×akiko kota

撮影の前に、瞑想を共にさせてもらうことにしている。

意識を深く広げ、身体にかけられている制限を
ゆるめ、心の静かなところに触れてから、また目を開けてもらう。

視線の中にあっても、

意識は内側へ、思考から自由へ、警戒心は無防備さへ、身体へのジャッジメントは表現へと、向かうプロセスを経て、写真の中に寛いでいる自身を発見してもらう。

自己陶酔ともまた違う、自己に没頭するような
どこか静けさを感じる写真や瞳が、私の好みだからかもしれない。

存在に寛ぐ、という体感は、瞑想で意識が広がるあの感覚や、ジャッジメントを持たない森の木々の様子に似ている気がする。

写真を通して、どんなことを表現してみたい?

瞑想が終わったタイミングで、質問してみる。

"歪なままでも、存在していていいよ"と
伝えたいかな、と朗子さんは言ってくれた。

泣いたり、笑ったり、怒ったりと表情を
くるくると変える朗子さんの表情の中に

初対面の頃から、一貫して繊細さや、儚かさのようなものと同時に強い信念ような相反する性質のようなものを見てきた。

繊細でまっすぐな彼女の傍で、ただ現在地の朗子さんの様子を観ている、くるくる変わる表情を楽しませてもらっている、私はいつもそんな感じ。

同時に、いつも瞳を真っ直ぐに話をしてくれる朗子さんを前にすると、この人の前では嘘がつけない。そんな気持ちになる。

朗子さんの瞳をみるだけで、迷っていたことにも自ずと答えを発見したり、決心がついたりする。

朗子さんは私にとって、そんな存在である。

歪なまま、存在していてもいい。

繊細でいて真っ直ぐでいて、その性質から本人は時に生きづらさを感じてきたことも知っているけれど、

どこかが突出していたり、欠けていたりと、個性とは歪である。 

そんな歪さを、自分自身に許すほどに、突出した部分はキラリと、灯台のような役割を果たし、
欠けた部分にも、それを補うための出会いのスペースが用意されている、朗子さんをみているとそんなことを感じる。

時には自分自身の個性に翻弄されたり、個性がぶつかりあう日もあるけれど

それによって自身の形と他人の形を発見したり
折り合わせたりしながら、より柔軟になっていく。

そんな出会いや、発見を恐れない柔軟な人でいるためには、繊細な心でも、それを無防備にさらす勇気だって必要。

歪だから、人と人は出会うことができるし
ほんの少しのそんな勇気が出会いを繋いでくれると信じている。

個性を生きてくれて出会えたこと、ありがとう、朗子さん。

そして、思い切り泣いたり、笑ったり、怒ったり
したあとで、それを、繊細にふりかえるような朗子さんの、愛らしさと素直さが私は好きなのです。


今日も、どうかその個性が
守られ、活かされ発見されますように。

歪さを愛し、歪さを許すことができますように。








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