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淡々と捉えていること

決して数字に強いわけではない私でも、
数字とは、便利だなと思うことがあります。

数字、それは、私にとって
"淡々とした"印象があるのだけれど

"淡々としている"ということに助けられることが
結構あるな、と思います。

生きていると、"単に割り切ることができないこと" なんかに遭遇することがありますけど

あえて
"淡々と捉えてみる"ことが助けになることもあるような気がして、印象的に記憶している、数字にまつわることについて今日は書いてみます。

1つ目の印象的な数字です。

『黙っていても"2割"の人には好かれる
"2割"の人には嫌われる、あとの"6割"の人には関心を持たれない、或いは中立の立場である』

という統計を印象的に記憶しています。

人からの印象という、非常に曖昧で刻一刻と変化するものに対して、この統計は若かりし私を
楽な気持ちにさせてくれました。

この数字をどう捉えるか、人それぞれのように思いますが 刻一刻と曖昧に変わるものではなく
自分の信念や美学のようなものに忠実でありたいと思えた数字の印象でした。

人からの印象に囚われず、自身に主軸をおき
振る舞った結果、信頼を得るかもしれませんし、嫌われるかもしれません。

その結果は相変わらず分かりませんが、印象に囚われた振る舞いでなく、主体的に動いた結果がそれならばと、潔く居ることができます。

2つ目の印象的な数字です。

『人は"してもらったこと"よりも"してあげたこと"を35倍 多く覚えている。』


漫画家で精神科医のゆうきゆう先生の言葉ですが、この研究結果を知った当時、そうかもしれないなぁ、と直感したことを覚えています。

双方の認識に差が出るケースもあるということを思いださせてくれる数字です。

受け取った時には有難さを心にとめたいな、
と思ったり、差し出すときにも なるべくサラリとしていたいな、なんて

少し緊張感を感じさせる数字ですが、印象に残っています。

3つ目の印象的な数字

人が一日に思考する数は6万回。

どうやって数えたのでしょう、と思いますが
仮にそうだとすると随分と働いてくれている
脳味噌。

それならば、洪水のように止めど無い思考よりもぼんやりと、ぽっかりとスペースを創ることの方が意識的に行われる必要があるかもしれません。

悶々と思考するより自動応答的に

"淡々と対処する"ことで 労力を
省エネできることってあるのだろうと思います。

力の入れどころ、と抜きどころ。

悶々と考えても仕方のない日には
淡々と捉えることで対処する。

そうすると、淡々とした自信のようなものが
芽生えてきたりするように思っています。

そうして6万回も思考しているならバグる時もある。甘い物でも食べて、自分を労わろう。
なんて気持ちにもさせてくれます。

3つの数字、印象的なものがあったでしょうか。

写真は、私が愛してやまない坦々麺です。






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