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もっともらしいことを超えて選ぶこと

私は "もっともらしいこと" を採用すること

に疑いをもっている人間です。

10代や20代の頃は、正論は残酷だと感じることが多かったような。

そう感じたのは何でだったのか今はよく理解できます。

人が安易に私にむけた もっともらしい回答に

辟易したり、時には 一度は飲みこんで消化してみようなどと トライしながら。 

私自身は、自分の感じた違和感は 何だったのかを自分の中で丁寧に観てみたい気持ちがあるみたいです。

正論や "もっともらしさ" に、インスタント食品のような安っぽさを感じると私は嫌になってしまうようです。

それにはそれの、便利さがあるとて

私は私の感覚を、ゆっくり 濾過したり

蒸留したりするのが好きみたいです。


手っ取り早く結論を出したいならば

もっともらしい回答は、便利で万人受けするでしょうが 私には私の納得できる 私だけの答えがあります。

安易に"もっともらしい"回答に満足するような

ことはしなくてもいいのです。

当たり障りのない模範回答に辟易しているならば、

もう一歩踏み込んで 敢えて 自分の中に答えを創ってしまうのもいいでしょう。

例えば、運命や答えをいつまでも探すよりも

運命や答えを創っていくような力強い自分で居たいと思うのです。

そうして 選んで 観た景色、選んで 得ること そうした一つ 一つが 

自分だけの確信と 自分自身との信頼をつくってくれると感じます。

間違いや正解なんて気にせずに 

自分を信じて選んでみる。

どんな小さな選択でも、自分で選んで決めることは自信や確信を運んでくれるはず。

自分だけの答えを創ってもいいとしたら

好みの未来を創れるとしたら。

自分の内側に静けさや安心を広げて

誰の目も気にせず好奇心が導く方を選んでみましょう。






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