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慈悲とは何か 観音を通して

観音より、慈悲について

あるワークショップで観音から受け取る、というテーマのワークがありました。
観音といえば、慈愛と慈悲の存在として知られています。

流れる雲に乗ってこの世界に降りてくる、日本画のような姿でやってきた観音は、地上より高いところ(高い次元)にいるけれど、
この世界にいる人々、誰もを、優劣も区別もなく、自分と同じ存在、完全な存在として見ている、そんなイメージでした。


「ここにいる人はみなそれぞれが、完全な者。

慈悲、慈愛、愛という言葉を口にするのであれば、
それは相手を完全な存在として見ていること。

自分も他の存在も、どちらも、完全。

それが、スピリチュアルを学ぶ者に備わっていて、かつ達成していく、奉仕というあり方です。」

そう伝えてきていると感じました。

正直、わたしは今まで、日本の人が信仰する観音という存在は、
その慈愛で癒して欲しいとか、助けて欲しいとか、
すがってくる相手を慰めてくれるような
そういう意味の母親像、概念を持っていたように思います。

観音という存在を通して観た、
慈愛、慈悲という概念は、そうではなかった。

「癒してあげなければ」とか「なんとかしてあげなければ」とか
気の毒に思う目線とは全く違う。
相手を信頼していることなんだ。

最初、なぜわたしにこのメッセージがやってきているのだろうと思いました。その時のわたしのテーマであるとは、思えなかったのです。
しかしながら、そのワークショップの後に、その理由に気づきました。

スピリチュアルな学びを長年やっていると、人間、自分は努力してきた結果、他の人たちよりも多くを知っているし、進化していると思うでしょう。

一所懸命にやってきて、やってこなかった人たちと同じだというのであれば、なんのために忍耐が必要な学びの実践をしてきたのかと思うのは当然でしょう。

しかしながら、よくあることとして、ここに落とし穴、罠があることに気づいてもいるでしょう。それは傲慢さという罠です。
スピリチュアルな学びをしていなくても、この世界でのことを学びとして昇華して愛を体現していくなら、その人は真に理解しているでしょうから。

「わたし」は、全ての人から何かを得て学ぶ、気づく。

信奉する誰かや神仏、天使などからだけではなく、それらをただ崇拝するのでもなく、ここで出会う全てのものと出来事が、ある意味、先生なのだということ。
それは、名もない人が本当の叡智を知っているということにも通じる考え方でしょう。


WHOLE, WHOLINESS
という言葉は、丸ごと一つ、欠けていない全て、という意味です。クリスマスやバースデーケーキなどの丸ごとのケーキを「ホール」と言ったりしますね。
そして、「全体性」あるいは「全てであるもの」と訳されますが、それは何一つ欠けていない、ということをあらわしています。

このWHOLEから、WHOLLY(神聖な)という言葉が派生しています。つまり、全体であるもの・全てで一つであるものは「神聖」であるということです。
完全であるとは全てであること、それは神聖さなのです。
これを知った時、言語に神智の大いなる手がかりが残されていることに驚きました。

スピリットから受け取っていく”チャネルを開く”ことを望むなら、「わたしを全てに明け渡す」姿勢が求められるでしょう。

やってきた情報がわたしにとって真実かどうか、それは、ハートを通して、スピリットの愛および自分にとっての真実を「慈悲と慈愛で識別する」ことができます。

さて、観音から「慈悲とは何か」について、このワークショップの講師である大天使ラジエルのウォークイン:ザラザイエル氏から〜
「私たちは、他の人をマスターつまり神聖な存在として見ています。そして慈悲とは達成なのです。」

昨今、「二極化」という概念がますます伝えられるようになったと感じています。ホピ族の予言では、波動が高い人たちは平和に暮らし、そうでない人たちは狂ったようになると。

この二極化という言葉を聞いて、自分は大丈夫、波動が高いから、学んでいるから、という考えになっていないか、常に意識できるように、

「わたしは何も知らない」という、エゴの罠から自由になっていられるように、

出会う人全てが教師であると思う自分でいられるように

本来の慈悲を感じていられる、スピリットのわたしで在るように。



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